連載
2025.01.03
【Stereo×WebマガジンONTOMO連携企画】ピーター・バラカンの新・音楽日記 31

ボブ・マーリーを成功に導いたアイランド・レコード 究極の「レコード・マン」の自伝

ラジオのように! 心に沁みる音楽、今聴くべき音楽を書き綴る。

Stereo×WebマガジンONTOMO連携企画として、ピーター・バラカンさんの「自分の好きな音楽をみんなにも聴かせたい!」という情熱溢れる連載をアーカイブ掲載します。

●アーティスト名、地名などは筆者の発音通りに表記しています。
●本記事は『Stereo』2024年12月号に掲載されたものです。

ピーター・バラカン
ピーター・バラカン ブロードキャスター

ロン ドン大学卒業後来日、日本の音楽系出版社やYMOのマネッジメントを経て音楽系のキャスターとなる。以後テレビやFMで活躍中。また多くの書籍の執筆や、音楽イヘ...

イラスト:酒井恵理

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20世紀のポピュラー音楽に巨大な貢献をしたクリス・ブラックウェル

かつて東京在住だったアメリカ人で企業コンサルティングの会社で働いていた友人がいました。熱意を持って常にとんぼ返りの海外出張を続けていた彼はある時、急にやめました。なぜかと聞いたら彼の答えは簡潔「Up or out」、つまり昇進してパートナーになれないならやめるしかない。その後しばらくして日本を後にし、アメリカに帰ってからしばらく個人で同じような仕事をした後、今は引退しています。

資本主義の世界はこんなものだなと感じました。会社における個人もそうですが、会社自体もそういうことがありますね。音楽業界で言えば独立系のレコード会社は似たようなところがあります。誕生したばかりのころは右往左往しながらしばらく自転車操業を続け、何とかヒットを当てようとしながら踏ん張ります。ようやくヒットが生まれたらお金のやりくりが少し楽にはなりますが、小さい会社では販売力がなければせっかくの需要に対応できなくなり、失敗することもあります。うまくいく会社は少しずつ規模を大きくし、大物アーティストを抱えるようになれば状況は一気にまた変わります。国際的な展開を果たした末に、最終的に他の会社を吸収して巨大化するか、逆に大手に身売りをしてやめるか、どちらかになる場合が多いです。

1960年代から80年代まで目覚ましい成功を収めたイギリスのアイランド・レコードの創立者クリス・ブラックウェルが1989年にアイランドを当時のポリグラム(現ユニバーサル・ミュージック)に売却したというニュースを見た時、このレーベルのファンとしてとても残念な気持ちでした。アメリカのアトランティックとモータウンと共に極めて個性的な方針で20世紀のポピュラー音楽に巨大な貢献をしたのです。そのクリス・ブラックウェルの自伝「アイランダー」の日本語訳が出版されたのでぜひお薦めしたいです。

『アイランダー クリス・ブラックウェル自伝』
アルテスパプリッシング刊 本体3,200円(税別)

「アイランダー」は「島民」、沖縄で言えば「しまんちゅ」です。クリス・ブラックウェルが育ったのはジャマイカ。ジャマイカに居を構えたイギリスの大手食品会社クロス&ブラックウェルの一族の息子として恵まれた環境で、イギリスの名門校ハローに在籍しました。その後ジャマイカに戻り、不動産の仕事の関係でジューク・ボックスの管理をしているとジャマイカの音楽に対する意識が芽生えます。

彼が22歳の1959年にアイランド・レコードを輿し、早速ジャマイカ国内でのヒットを当てますが、人口が少ないジャマイカでは収入は限られています。1962年に彼は拠点をロンドンに移し、戦後のイギリスの復興を助けるために労働者として移住した多くのカリブ系移民のために、主に他社が作ったレコードを輸入して地道に販売していたのです。

きっかけとなったのはミリーの 「マイ・ボイ・ロリポップ」

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大きな転換点は1964年に訪れます。ブラックウェルが発見した十代の女性歌手ミリー・スモールをジャマイカから呼び寄せ、当時のジャマイカで大流行していたスカという新しいリズムでたわいのないポップ・ソング「マイ・ボイ・ロリポップ」を発売するとこれがたちまち大ヒットを収めます。それにまつわるいろいろな面白い話はぜひ「アイランダー」で読んでいただきたいです。

因みにこのレコードはアイランドで制作したものの、一般のイギリス人をターゲットにしたいので移民専門のイメージがあったアイランド・レーベルを使わずに、大手フィリップス系列のフォンタナから出しました。またミリーのプロモーションのために訪れたイギリス中部のバーミンガムでは運命的な出会いが待っていました。クラブから聴こえてきた強烈なヴォーカルに惹かれて中に入ったらミリーよりも若いスティーヴ・ウィンウッドを歌とキーボードでフィーチャーしたスペンサー・デイヴィス・グループが演奏していたのです。早速契約した彼らのレコードもフォンタナで発売し、1965年から66年にかけてヒットを連発しますが、これでクリスはプロデューサーとして頭角を現します。67年にウィンウッドが19歳で独立し、新たに結成したトラフィックでいよいよアイランド・レーベルでロックのレコードを出し始めます。

それからクリスとアイランドの黄金時代が始まり、次々と新しいスタイルの音楽が誕生した時代の先端を切ってアイランドが疾走し続けました。好き嫌いは別にして、アイランドから発売されたレコードを注日せずにはいられない時代です。

1967年から1970年まで使用されていた「アイランド・レコード」のロゴ

ボブ・マーリー伝説を作り そして無名のU2を スーパースターに押し上けた

ジャマイカの音楽もずっと平行して販売していたクリスは、70年代に入ったところでお金に困って舞い込んできたボブ・マーリーと出会います。詳細は「アイランダー」で読んでいただくとして、この出会いは伝説につながるもので、ボプ・マーリー自身のとてつもない才能の他に、クリス・ブラックウェルの独自のヴィジョンと経党手腕もなければあそこまで発展することはなかったでしょう。またボプ・マーリーをきっかけに今度はレゲェという特殊な音楽が全世界で流行するまでになったのはやはりアイランドの役割が大きいです。

80年代には、無名の新人バンドとして契約したU2もスーパースターになり、アイランドはだんだん多様化しましたが、クリス自身は「大きくなりすぎた」ことを理由に売却に踏み切ったのです。究極の「レコード・マン」の自伝には、ぜひ多くの人に知ってほしい興味深いエピソードが満載です。

ピーター・バラカン
ピーター・バラカン ブロードキャスター

ロン ドン大学卒業後来日、日本の音楽系出版社やYMOのマネッジメントを経て音楽系のキャスターとなる。以後テレビやFMで活躍中。また多くの書籍の執筆や、音楽イヘ...

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