字幕にできない!?~《ばらの騎士》に出てくる二人称たち
オペラには、当時は身近に感じることができただろうけど、現代の感覚とはずれていたりピンとこなかったりする表現がある……そんなオペラに潜んだ「リアリティ」を、数多くのオペラ製作に携わる指揮者の根本卓也さんが掘り下げます。第2回は《ばらの騎士》に出てくる日本語に訳すのが難しい数々の二人称に注目します。
東京藝術大学大学院修士課程(指揮専攻)修了。在学中に故・若杉弘氏に、英・独・仏・伊・羅・露・チェコ語に至るまで、あらゆる舞台作品を原語で解する類稀な才能を見出されキャ...
ドイツ語に表れる1740年代のウィーン
前回は《フィガロの結婚》で出てくるお金の話をしましたが、次は、この作品の影響が濃厚なリヒャルト・シュトラウスの《ばらの騎士》の中の「リアリティ」の話です。
さて、のっけから恋人同士の甘~いピロートークから始まるこのオペラですが、台本を文豪ホフマンスタールが書き下ろしたことでも有名です。1927年に彼が書いた「序文」の最後、ホフマンスタールはこんなことを言っています。
1740年代のウィーン——その対立し混合するさまざまの階級や、儀礼や、社会的秩序や、訛り、むしろ階級ごとにことなる種々の話しぶり……これらを統一するものは……真実で同時に虚構の、暗示と裏の意味に満ちた一種独特な言葉でなければならなかった。どの人物も同時に自己と、自分の属する社会的階層を描き出せるような一つの言葉。……これこそ、この台本を翻訳至難にするゆえんのものである。
『フーゴー・フォン・ホーフマンスタール選集4 戯曲』所収「薔薇の騎士」(河出書房新社、1973年、内垣啓一訳)より
初めてこの作品を勉強したとき、オックス男爵のクセの強い文体、オクタヴィアンが女装してメイドのマリアンデルになったときの庶民の口調、イタリア人のアンニーナ&ヴァルザッキの訛りのきいたドイツ語など、役柄ごとに語彙(とすべからく発音)の「非標準」っぷりに悪戦苦闘したことを思い出します。ですが、今日の本題はそこではなく、二人称代名詞です。
ドイツ語をかじられたことがある方は、ドイツ語にはdu(おまえ)とSie(あなた)の2種類の呼び方がある、と最初に習ったのを覚えていらっしゃるでしょうか。ところが《ばらの騎士》に出てくる二人称代名詞をまとめるとこんなにあります。
・Du(大文字)
・Er/Sie(単数)
・Sie(複数)
・Euer Gnaden/Euer Liebten/Deine Liebten(尊号)
単数、複数とあるのは、一緒に出てくる動詞の活用の話です(これらに加えてHerr Vetter(いとこ様)なんて呼び方もありますが、とりあえず割愛します)。
4番目のカテゴリーは英語で“Her Majesty”(女王陛下)という言い方をするように、間接的な呼びかけによる「畏れ多さ」の表現ですね。見慣れないのは2番目のカテゴリーです。「ドイツ語 二人称代名詞」というキーワードでググった検索結果の中から、PDFのものを中心に探してみましょう(論文やパンフレットの類のことが多いからです)。
駒澤大学の論題「二人称代名詞の混用 – について」というリンクを開くと野島利彰さんという方の論文が出てきます。最初の章に概要が記されているのですが、その中にドンピシャの解説があるので要約しますと……
もともと二人称はduしかなかった
→中世の王様がwir(我々)で自分を呼ぶ習慣があり、対してそれ以外の人々がIhr(あなた方)で自分たちを呼ぶようになり、15世紀までに一般的な敬称に変化
→もう少し身分の低い人々はder Herr(ご主人)、die Frau(奥様)で相手を呼ぶようになり、それがEr/Sie(単数)に変化し、16世紀にはIhrより上の敬称になる
→偉い人を間接的に呼ぶ尊号(上記4番目のカテゴリー)の使用頻度が上がり、17世紀末にはその代名詞のSie(複数)が登場し、18世紀にはEr/Sieより上位に。
→敬意の順で並べると、尊号>Sie(複数)>Er/Sie(単数)>Ihr>duとなる。
原語で読むと見えてくる精妙な人間関係のあや
さて、これを踏まえて《ばらの騎士》に戻ります。初めの元帥夫人とオクタヴィアンの会話では、オクタヴィアンは大抵Du(大文字なのは、貴族同士の会話だからでしょう)で語りかけるのに対し、元帥夫人は本当にイチャイチャしている若干の瞬間を除けば基本Er(単数)で呼びかけます。17歳とはいえ、伯爵であるオクタヴィアンへの敬意だけではなく、不倫であるが故の「たが」のようなものを自らにかけているのでしょうか。
元帥夫人とオックスは大体尊号で呼び合います。高い敬意というよりは、お互いの距離間の遠さを表していると取れるでしょうね。面白いのが、2幕で粗野な振る舞いをするオックスにオクタヴィアンが嫌味を言うとき、“Deine Liebden”という、尊号なのにDu(おまえ)がベースになった呼び方になるのは、さしずめ慇懃無礼というところでしょうか。
複数のSieはあまり出てきませんが、1幕で元帥夫人が髪結師に対し、ずいぶん老けて見える髪型にしてくれちゃったのね、と不満を表明するときにわざわざ使っています。雇い主に敬語でやんわり叱責されるとか、生きた心地がしません。
新興貴族のファーニナルも、娘のゾフィーと基本Er/Sie(単数)で呼び合っていますが、2幕後半、オクタヴィアンがオックスを刺して怪我させたあとの申し開きのシーンでは、ゾフィーはSie(複数)で父親によそよそしく話し、それを聞いてキレたファーニナルが感情が激するにつれDuを使うようになるところが実にリアルです。
全曲のフィナーレでは、元帥夫人の手前、お互いEr/Sieで呼び合っているゾフィーとオクタヴィアンですが、三重唱の途中、お互いの目を見つめ合い二人だけの世界に入ったところからDuに変化して、最後の二重唱もそのままです。恋人同士、というフラットな関係になったことがわかりますね。
《ばらの騎士》第3幕の三重唱
そして、これを字幕にしようとすると……難しいですね。リブレットを原語で読める人間にしかこの精妙な人間関係のあやが伝わらないのはとても残念なので、ONTOMOにもたくさんの記事を執筆されている音楽学者・評論家にして、日本リヒャルト・シュトラウス協会事務局長の広瀬大介さんあたりが、正確かつ体に入ってくる訳を練り上げてくださることを心より期待する限りであります。
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