読みもの
2022.05.18
ONTOMO作曲家辞典

モーツァルトの生涯と主要作品

ヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルトの生涯と主要作品を音楽学者・海老澤敏が解説!

音楽之友社
音楽之友社 出版社

昭和16年12月1日創立。東京都新宿区神楽坂で音楽の総合出版、並びに音楽ホール運営事業を行なっています。

ヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルト
Wolfgang Amadeus Mozart
1756年1月27日 ザルツブルク―1791年12月5日 ウィーン

この記事をシェアする
Twiter
Facebook

文―海老澤 敏(音楽学者)

続きを読む

モーツァルトの生涯

1. 幼年時代

18世紀後半,いわゆる古典派の時代に,1世代年長のヨーゼフ・ハイドンとともに活躍したオーストリアの作曲家。ザルツブルク大司教ジークムント・フォン・シュラッテンバッハに仕えるレーオポルト・モーツァルトの末子として同地に生まれた。兄姉のうち,第4子第3女のマーリア・アンナ・ヴァルブルガ・イグナーツィア,通称マリアンネ愛称ナンネルル(1751-1829)だけが生きのびている。洗礼簿による正式の名前はヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テーオフィルス・モーツァルト。父親の家系はシュヴァーベン地方の建築,彫刻,製本などの職人を輩出させたいわば芸術家一族であった。また母親マリーア・アンナ・ペルトルはザルツブルク近傍ザルツカンマーグート地方ザンクト・ギルゲンの出身であった。

父親レーオポルトは姉娘ナンネルルのクラヴィーアのレッスン用に編んだ楽譜帳,いわゆる〈ナンネルルの楽譜帳〉を使って,4歳からモーツァルトに音楽を教え始めた。3歳の折りに彼が示した楽才の最初の現れ,すなわち3度の和音に聴き入る行為をまのあたりにしての事である。作曲の試みは5歳の初め頃から開始され,20世紀半ばに発見された最初期の小曲(K1a-1d)や従来から知られていたメヌエット(ト長調K1-K1e/1f )以下の作品を生んでいる。幼いモーツァルトの神童ぶりを広く披露すべく,レーオポルトは1762年初めのミュンヘン旅行を手始めに,同年秋の最初のウィーン訪問など大がかりな演奏旅行を企てる。

62年9月から翌63年1月までのこの第1回ウィーン旅行では姉弟のシェーンブルン宮殿での御前演奏が行なわれ,またそれにまつわる数多くのエピソードが残されている。ヴァーゲンザイルなどウィーンの音楽家と知り合ったほか,最初の病気,結節性紅斑にかかっている。よく知られている幼年モーツァルトの肖像〈大礼服を着たモーツァルト〉は,下賜された皇子マクシミリアン・フランツの大礼服を着たものである。

大礼服を着た6歳のモーツァルト(ロレンツォーニ画、1763年)

2. 西方への大旅行

1763年6月からモーツァルト一家は西方への大旅行を試みる。ミュンヘンのバイエルン選帝侯宮廷再訪のあと,ドイツ各地を訪問,フランクフルト・アム・マインでは14歳のゲーテが神童の演奏を聴いている。ベルギーを経て11月中旬にはパリに到着,百科全書家のフリードリヒ・メルヒオル・グリムの仲介で正月にヴェルサイユ宮殿を訪問,ルイ15世の御前演奏の栄に浴した。ショーベルト,エッカルト,ホーナウアーなどドイツ系音楽家と知り合い,またヴァイオリンの伴奏を伴うクラヴィーア・ソナタ(K6-K9)を出版,王女や侍女に献呈。4月にはロンドンに渡り,国王ジョージ3世に謁見,王妃にクラヴィーアとヴァイオリンのソナタ(K10-K15)を献呈している。ロンドンでは大バッハの末子ヨハン・クリスティアン・バッハに出会い,深い影響を与えられた。交響曲を初めて作曲(K16, K19, K19a),演奏会を開き,父親の手を離れて独り《ロンドン練習帳》(K15a-K15ss)を試みている。ふたたび大陸に戻ったのが65年夏で,オランダに向かい,大病などに罹り,旅程は大幅に遅れたが,回復後かなりの作品を創作している。66年春パリを経て帰国の途につき,スイスを経てドイツに向かい,11月末故郷に到着した。神童の名技は各地で注目を集め,引出物など収入が多かったが,音楽上の多様な刺激,影響が著しかった。

ロンドンでは大バッハの末子ヨハン・クリスティアン・バッハに出会い,深い影響を与えられた

3. 3回のイタリア旅行

故郷で勉強を続けたあと,67年から69年にかけて第2回のウィーン旅行が試みられる。旅行に先立って最初の劇作品が手がけられ,またウィーンでも《にせのばか娘 La finta semplice》(K51=K46a)や《パスティアンとパスティエンヌ Bastien und Bastienne》(K50=K46b)が創作されている。交響曲やミサ曲も作曲されている。69年11月無給のコンツェルトマイスターに任じられたあと,12月には最初のイタリア旅行が父子で企てられた。イタリアの器楽とオペラに直接触れたこの旅行はモーツァルトにさらに豊かな刺激をもたらした。ボローニャでG.B.マルティーニに師事,ナポリまで足をのばし,ローマでは教皇から〈黄金拍車勲章〉を授かり,ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に推挙され,ミラノではオペラ・セリア《ポントの王ミトリダーテ Mitridate, re di Ponto》(K87= K6  74a)を上演した。

71年3月末にザルツブルク帰着,同年8月ふたたびミラノに出発,祝典劇《アルバのアスカーニョ Ascanio in Alba》(K111)を上演。第3回イタリア旅行は72年10月から翌年3月にかけて行なわれ,《ルーチョ・シッラ Lucio Silla》(K135)が上演されている。最後の旅行の前,大司教ジークムントの死去により,新任者としてヒエローニュムス・コロレードが着任,以後のモーツァルトの運命に変化をもたらすことになる。

73年の夏には第3回のウィーン旅行が行なわれ,目的の宮廷楽団への就職は達せられなかったが,創作面では豊かな収穫を得た。とりわけハイドンの作品からの影響が著しい。75年にはミュンヘンで《にせの女庭師 La finta giardiniera》(K196)を上演しているが,それ以外は77年までザルツブルクで宮廷音楽家としての日々を過ごし,セレナード,ディヴェルティメント,ヴァイオリン協奏曲,クラヴィーア・ソナタなどの器楽曲,教会作品を中心とした声楽曲が生み出されている。ピアノ協奏曲もかなり試みられている。《ハフナー・セレナード》(K250=K6  248b)や変ホ長調のピアノ協奏曲(K271)がとりわけ知られる。

最後のイタリア旅行の前,大司教ジークムントの死去により,新任者としてヒエローニュムス・コロレードが着任,以後のモーツァルトの運命に変化をもたらすことになる

4. マンハイム・パリ旅行

77年9月から79年1月に及ぶいわゆるマンハイム・パリ旅行は,モーツァルトの生涯の転機となった旅行である。別の土地に職を求めて母親と二人で出発したモーツァルトはミュンヘンでもマンハイムでも就職口がなく,パリでは逆にヴェルサイユのオルガニストの職を断っている。アウグスブルクでは従妹マリーア・アンナ・テークラ,通称ベーズレとかろやかな交際を楽しみ,やがていわゆる〈ベーズレ書簡〉を生んだが,この一連の手紙はモーツァルトの諧謔的で下品でもある性格を例証するものとなっている。

マンハイムではアロイージア・ヴェーバーに恋するが,帰途,彼女からその愛を拒まれる。パリでは母親を失う。一方,音楽面ではマンハイムの音楽家たちの様式を取り込み,パリでもその様式を吸収して,交響曲,協奏曲,ソナタ,協奏交響曲などに響き豊かな音の世界をくり広げた。

アウグスブルクでは従妹マリーア・アンナ・テークラ,通称ベーズレとかろやかな交際を楽しみ,やがていわゆる〈ベーズレ書簡〉を生んだ

5. ウィーンにおけるフリーな音楽家としての活動

ザルツブルク宮廷音楽家に復職し,79年から翌年11月までを故郷で過ごし,協奏交響曲(K364=K320d)や交響曲(K318, K319, K338),あるいは《戴冠式ミサ Krönungsmesse》(K317)など充実した作品を書き上げている。バイエルン選帝侯宮廷から謝肉祭オペラを依頼され,《クレタの王イドメネオ Idomeneo, re di Creta》(K366)を上演するためにミュンヘンに赴いたあと,大司教からウィーンに呼び出されたのは81年3月であったが,これがきっかけで大司教と決裂し,父親の激しい反対にもかかわらず,以後ウィーンに留まり,フリーな音楽家として活動を始めることになる。ピアノの教授が定収入を確保する主な手段であった。

さらに予約会員を募っての演奏会の開催,貴族の邸での音楽会,それらに演奏家として出演し,またそのための曲を書くこと,あるいはオペラの作曲や楽譜の出版が収入を得る道であった。最初の頃の音楽活動はめざましく,81年の暮ヨーゼフ2世の御前でのM.クレメンティとの競演,ヨーゼフ2世から依頼されたドイツ語オペラ《後宮からの奪還 Die Enfführung aus dem Serail》(K384)の上演,数多くの器楽曲の作曲などが相次いでいる。アロイージアの妹コンスタンツェとの結婚は82年8月に行なわれている。ヴァン・ズヴィーデン男爵と知り合って北ドイツのバロック音楽にたいする関心をよびさまされた。作曲家,演奏家,教師としての多忙な音楽活動はさらに83年から84年へと続けられる。

83年にはザルツブルクに帰郷し,ハ短調ミサ(K427=K417a)を結婚の誓約のために聖ペテロ教会で演奏している。ハイドンと個人的にも知り合い,弦楽四重奏曲などを書きためてゆく。84年暮にはフリーメーソン結社に加わり,翌年始めにレーオポルトが息子を訪れた頃が,創作・演奏活動のもっとも繁忙な時期であった。この85年にはハイドンに献呈されたいわゆる《ハイドン四重奏曲》の6連作が出版されたほか,フリーメーソンのための曲も多く書かれている。ピアノ協奏曲が多数作曲されたのも84年を中心とした数年である。とりわけ85年にはニ短調(K466),ハ長調(K467)などの名曲が生み出されている。85年後半からは創作活動も演奏活動も下火となり,モーツァルトはボーマルシェ原作,ダ・ポンテのテクストによるオペラ・ブッファ《フィガロの結婚 Le nozze di Figaro》(K492)の作曲に専念した。初演は翌86年5月初めに行なわれた。このあたりからモーツァルトの演奏活動にはいささかかげりが見え始めてくる。その理由は定かではないが,創作活動はさらに充実し,ハ短調のピアノ協奏曲(K491),2曲のピアノ四重奏曲(K478, K493),《プラハ交響曲 Prager》(K.504)などが生み出されている。《フィガロ》のプラハにおける成功から,同地に招かれたモーツァルトはイタリア語オペラの作曲を依頼される。

87年始めのこのプラハ訪問のあと,モーツァルトの生活はさらに暗転してゆく。4月にベートーヴェンの訪問を受けたと伝えられる彼は,5月末に父親を失うが,その前後に書かれた作品には,イ短調ロンド(K511),ト短調五重奏曲(K516)などの短調の名曲があり,さらに情趣に富んだ歌曲も忘れがたい。名高い《アイネ・クライネ・ナハトムジーク Eine Kleine Nachtmusik》(K525)もこの時期の作品である。プラハのためのオペラ《ドン・ジョヴァンニ Il dissoluto punito, ossia il Don Giovanni》(K527)は10月末に初演され,大成功を収めた。ちょうどその頃宮廷作曲家グルックが世を去った。モーツァルトはウィーン帰郷後ヨーゼフ2世より宮廷室内作曲家に任じられたが,年末年始の宮廷舞踏会のための舞曲の調達が,課せられた唯一の仕事であった。

翌88年春に《ドン・ジョヴァンニ》がウィーンで上演されたが,評判は決して高いものではなかった。この年の初めに書かれた《戴冠式協奏曲 Krönungskonzerte》(K537)も,夏に一挙に書かれたいわゆる〈三大交響曲〉(第39番変ホ長調K543,第40番ト短調K550,第41番ハ長調K551《ジュピター Jupiter》)も,演奏会を目指して書かれたものではあるが,実際にはこの年には演奏されていない。予約演奏会に聴衆が集まらず,収入もないままに,彼はフリーメーソンの盟友ミヒャエル・プフベルクに借金の申し込みを重ねている。この年から翌89年にかけてヴァン・ズヴィーデン男爵の依頼で,ヘンデルのオラトリオや牧歌劇が編曲されている。

89年春にはカルル・リヒノフスキー公に誘われ,プラハからドレスデン,さらにライプツィヒからベルリンと旅行し,新たな音楽体験を積んでいる。この時プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に謁見し,作曲を依頼された。帰国後ただちに注文作品を書き始めたが,《プロイセン王四重奏曲》は合計3曲,王女のためのピアノ・ソナタは1曲で停頓。この年の秋には名手アントン・シュタードラーのためにクラリネット五重奏曲(K581)が書かれている。ダ・ポンテと協作のオペラ第3作の《コシ・ファン・トゥッテ Cosi fan tutte, ossia La scuola degli amanti》(K588)もこの年の秋に書き始められ,翌90年1月に完成。この年初めにはヨーゼフ2世が没し,弟のレーオポルト2世が即位している。

この年も演奏活動はうまくゆかず,加えて,コンスタンツェの健康も悪化し,バーデンでの療養を必要としたため,経済状態はさらに危機的になってゆく。10月にはフランクフルト・アム・マインでレーオポルト2世の戴冠式が行なわれ,モーツァルトは自前で同地に赴き,演奏会を開いたが,期待していた収入は得られなかった。この年の作品数はきわめて少ない。イギリス旅行の誘いもこの年の終わり頃あったが,ロンドンに旅立ったのはハイドンであった。

モーツァルトの家族(姉ナンネル、ヴォルフガング、父レオポルト)。1778年に亡くなった母は、絵の中で肖像画として描かれている(クローチェ画、1781)

6. 死の年

1791年の1月最後のピアノ協奏曲(K595)が書かれたが,予約演奏会は開かれず,窮乏はさらにつのっていった。ヴィーデン劇場の興行師シカネーダーからの依頼でドイツ語オペラ《魔笛 Die Zauberflöte》(K620)の作曲が始められ,さらに匿名の依頼主から《レクイエム》(K626)の注文を受けたり,プラハで行なわれるベーメン王としてのレーオポルト2世の戴冠式用の祝典オペラ《皇帝ティートの慈悲 La clemenza di Tito》(K621)の作曲や,上演のために同地に赴いたりしての中断があったりするが,《魔笛》は9月末に初演され,しだいに人気を博してゆく。

一方コンスタンツェはしばしば療養にバーデンに赴き,また7月末に第6子フランツ・クサーヴァーを生んでいる。第2子カルル・トーマスとともに生きのびた末子のフランツ・クサーヴァーはのちにヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト2世を名乗り,音楽家として活躍する。モーツァルトの健康は衰え,11月20日には病床に就き,《レクイエム》の筆を途中で折って,12月5日世を去った。葬儀は翌12月6日に行なわれた。

病因と死因については様々な説が論ぜられており,病死説も多様であるが,最近では直接の原因として瀉血説をとる見方が強くなっている。他方他殺説も広まっており,サリエーリがからむもの,フリーメーソンによるものなどがある。墓所は聖マルクス墓地であり,遺骨とされるものがモーツァルテウムに保管されているが確証はない。

第2子カルル・トーマス(右)と第6子フランツ・クサーヴァー(左)。末子のフランツ・クサーヴァーはのちにヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト2世を名乗り,音楽家として活躍する

7. 妻コンスタンツェのその後

コンスタンツェは後年デンマークの外交官ゲオルク・ニコラウス・ニッセンと結婚し,1842年まで生きのびてザルツブルクで世を去っているが,ニッセンにはモーツァルトに関する大部な伝記的記述があり,またこの夫妻の手で,モーツァルトの楽譜や手紙類が整理されている。なお《レクイエム》の補筆完成は弟子のジュースマイヤーにゆだねられた。

コンスタンツェ・モーツァルト(ランゲによるリトグラフ、1783年)

8. ハイドンときわめて対照的な作曲家

モーツァルトはハイドンとともに古典派を代表する作曲家であるが,きわめて対照的な存在である。ハイドンが比較的晩成であったのに対し,モーツァルトは幼い頃から神童としての誉れが高く,早くも5歳から作曲を試みている。またハイドンが80歳に近い高齢まで長寿を享受したのに対し,モーツァルトはわずか35歳という短い生命を燃焼させて夭逝している。

二人の対照はさらに生活面や創作活動の仕方にも現われ,加えて作品様式の相違も著しい。モーツァルトの天才を見出し,それを神の賜物と受けとめ細心の注意をもって扱い,かつ育て上げたのは父レーオポルトの大きな功績であった。加えてザルツブルクの音楽的環境もないがしろにできない。天才の発現はレーオポルトに息子の幼時からの記録を書き留めさせることになったが,このことも音楽史上稀な事例に属している。息子の神童ぶりをヨーロッパ各地に誇示するために企てた度重なる旅行は,モーツァルトに多様な音楽に接触する機会を与えたが,稀にみる吸収能力と同化力が幼年時代から少年時代にかけての彼に様々な影響を己のものとさせることになった。

さらに青年時代のザルツブルクでの音楽活動とマンハイム・パリ旅行は,彼を大成させるにあずかって力があった。モーツァルトはほとんどあらゆるジャンルの作品を手がけ,またそれらのジャンルのそれぞれで古典派様式の発展と完成の道のりをみずから実際にたどっている。教会作品は主としてザルツブルク時代に手がけられ,大聖堂その他の教会で典礼用に用いられたが,ウィーン時代の少数の作品はむしろ個人的な宗教体験の音化と考えられる。

一方,幼少年時代のイタリア語とドイツ語のオペラ体験は,伝統的なオペラ芸術の表現法に通じさせ,ウィーン時代の作品の個性的表現世界を確立するための長い道程を一途にたどらせることになる。ウィーン時代のオペラはひとつひとつがまさに記念碑的な意味を持ち,また後世の不朽のレパートリーを形づくっている。およそ60曲もの演奏会用アリアは,オペラの表現世界を個別的に披露してくれるものであり,また歌曲はとりわけウィーン時代のものに,陰影の濃い,やがてシューベルトにつながってゆく性格のものが数多い。カノンは家族的でかつ友人との交友を示すポピュラーな輪唱曲であり,モーツァルト自身によるそのテクストは卑猥なものとして生誕200年の時点まで他の歌詞によって歌われていたものさえある。

一方器楽曲の中では交響曲や室内楽曲のジャンルでモーツァルトは先人,なかでもハイドンのあとを追いながらも,独自の境地を開拓している。またみずからの演奏者としての経験を盛り込んだピアノ協奏曲では,このジャンルの生成発展の諸段階を体現し,古典派協奏曲の典型を創造した。特定の奏者を目当てとした他の協奏曲にも優れたものが多い。セレナードやディヴェルティメントはとりわけザルツブルク時代に数多く作曲された社交的な機会作品であるが,中には交響曲と近接する様式のものもあり,ウィーン時代のものには軽やかなジャンルの域を超えるものさえある。モーツァルトとクラヴィーアの関係は特に密接であるが,シュタイン,ヴァルターといった製作者のピアノフォルテを目当てとして書かれた独奏曲,二重奏ソナタなどが多い。

9. モーツァルトの人間像

モーツァルトは19世紀に神童として,あるいはアポロン的音楽家として偶像視され,その音楽と人間の乖離が云々されていたが,とりわけ20世紀以後,伝記面では残された全書簡の公開(3度にわたる「書簡全集」の刊行など),その他の伝記資料の公刊によって,さらに詳細な伝記研究,社会史研究などによって,人間像の解明に大きな進展がみられ,18世紀人としての魅力ある全体像が再構築されるにいたっている。

他方,「生誕200年祝年」を記念して,1955年に刊行が始められ,「没後200年記念年」(1991)に一応の完結をみた《新モーツァルト全集》の編集作業やその後の個別研究の成果は,作曲家モーツァルトの創作過程や個々の作品,さらには各ジャンルにくまなく照明をあて,これまた従来の作曲家像,作品像をくつがえし,スケッチや断片を残していることからも,鋭意辛苦艱難を厭わなかった天才としての一面をも浮き彫りにしている。

こうした近年のモーツァルト研究の進展とあいまって,精神分析的人間解釈,作品解釈も試みられ,あるいはモーツァルト音楽の治癒効果の有効性が指摘され,セラピストによって「治癒師モーツァルト」「モーツァルト・セラピー」「モーツァルト効果(イフェクト)」なる用語まで用いられるに至っている。東洋ではわが国で群を抜いてモーツァルトが演奏され,数多い文献が刊行されており,「モーツァルト王国」を形づくっている。

モーツァルトの主要作品

Kはケッヘルが編集した目録で与えられた作品番号(作曲年順)。()内は,今日よく用いられる第6版での番号

【オペラ】

《アポロとヒアチントゥス》 K38  1767 ; 《バスティアンとバスティエンヌ》 K50(46b) 1767?-68 ; 《ラ・フィンタ・センプリチェ》 K51(46a) 1768 ; 《ポントの王ミトリダーテ》 K87(74a) 1770 ; 《アルバのアスカーニョ》 K111  1771 ; 《シピオーネの夢》 K126  1771 ; 《ルーチョ・シッラ》 K135  1772 ; 《偽りの女庭師》 K196  1774-75 ; 《牧人の王》 K208  1775 ; 《ツァイーデ(後宮)》 K344(336b) 1779-80 ; 《クレータの王イドメネーオ》 K366  1780-81 ; 《後宮からの奪還》 K384  1781-82 ; 《カイロの鵞鳥》 (未完) K422  1783-84 ; 《騙された花婿》 (未完) K430(424a) 1783 ; 《劇場支配人》 K486  1786 ; 《フィガロの結婚》 K492  1785-86 ; 《ドン・ジョヴァンニ》 K527  1787 ; 《コシ・ファン・トゥッテ》 K588  1789-90 ; 《魔笛》 K620  1791 ; 《皇帝ティートの慈悲》 K621  1791

【バレエ音楽と劇付随音楽】

《エジプト王タモス》 K345(336a)  1776-79? ;《レ・プチ・リアン》 K追加10(299b) 1778;  ガヴォット  B  K300  1778 ;  《クレータの王イドメネーオ》のためのバレエ音楽  K367  1780/81

【交響曲】

番号あり :  No.1  Es  K16  1764-65 ,  No.4  D  K19  1765 ,  No.5  B  K22  1765 ,  No.6  F  K43  1767 ,  No.7  D  K45  1768 ,  No.8  D  K48  1768 ,  No.9  C  K73  1769-70 ,  No.10  G  K74  1770 ,  No.12  G  K110(75b) 1771 ,  No.13  F  K112  1771 ,  No.14  A  K114  1771 ,  No.15  G  K124  1772 ,  No.16  C  K128  1772 ,  No.17  G  K129  1772 ,  No.18  F  K130  1772 ,  No.19  Es  K132  1772 ,  No.20  D  K133  1772 ,  No.21  A  K134  1772 ,  No.22  C  K162  1773 ,  No.23  D  K181(162b) 1773 ,  No.24  B  K182(173dA) 1773 ,  No.25  g  K183(173dB) 1773 ,  No.26  Es  K184(161a) 1773 ,  No.27  G  K199(161b) 1773 ,  No.28  C  K200(189k) 1773または1774 ,  No.29  A  K201(186a) 1774 ,  No.30  D  K202(186b) 1774 ,  No.31  D 《パリ》 K297(300a) 1778 ,  No.32  G  K318  1779 ,  No.33  B  K319  1779 ,  No.34  C  K338  1780 ,  No.35  D 《ハフナー》 K385  1782 ,  No.36  C 《リンツ》 K425  1783 ,  No.37  G  K444(425a) 1783または1784 ,  No.38  D 《プラハ》 K504  1786 ,  No.39  Es  K543  1788 ,  No.40  g  K550  1788 ,  No.41  C 《ジュピター》 K551  1788 ;  番号なし :  F  K追加223 (19a) 1765 ,  G 《旧ランバッハ》 K追加221 (45a) 1766 ,  D  K120 (111a) 1771 ,  D  K161+163 (141a) 1773-74 ,  D  K121 (207a) 1775  

【協奏交響曲】

Es  K364 (320d) 1779

【ディヴェルティメント】

No.1  Es  K113  1771 ;  No.2  D  K131  1772 ;  No.3  Es  K166 (159d) 1773 ;  No.4  B  K186 (159b) 1773 ;  No.6  C  K188 (240b) 1773 ;  No.7  D  K205 (167A) 1773 ;  No.8  F  K213  1775 ;  No.9  B  K240  1776 ;  No.10  F  K247  1776 ;  No11  D  K251  1776 ;  No.12  Es  K252 (240a) 1776 ;  No.13  F  K253  1776 ;  No.14  B  K270  1777 ;  No.15  B  K287 (271H) 1777 ;  No.17  D  K334 (320b) 1779ないし1780

【セレナード】

No.1  D  K100 (62a) 1769 ;  No.2  F  K101 (250a) 1776 ;  No.3  D  K185 (167a) 1773 ;  No.4  D  K203 (189b) 1774 ;  No.5  D  K204 (213a) 1775 ;  No.6  D 《セレナータ・ノットゥルナ》 K239  1776 ;  No.7  D 《ハフナー》 K250 (248b) 1776 ;  No.8  D 《ノットゥルノ》 K286 (269a) 1776/77 ;  No.9  D 《ポストホルン》 K320  1779 ;  No.10  B 《グラン・パルティータ》 K361 (370a) 1783ないし84 ;  No.11  Es  K375  1781 ;  No.12  c 《ナハトムジーク》 K388 (384a) 1782 ;  No.13  G 《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》 K525  1787

【カッサシオン】

G  K63  1769 ;  B  K99 (63a) 1769   【舞曲】メヌエット :  7つのメヌエット  K65a (61b) 1769 ,  Es  K122 (73t) 1770 ,  19のメヌエット  K103 (61d) 1772 ,  6つのメヌエット  K104 (61e) 1770ないし71 ,  6つのメヌエット  K164 (130a) 1772 ,  16のメヌエット  K176  1773 ,  C  K409 (383f) 1782 ,  3つのメヌエット  K363  1782ないし83 ,  6つのメヌエット  K461 (448a) 1784 ,  コントルダンスを伴う2つのメヌエット  K463 (448c) 1784 ,  12のメヌエット  K568  1788 ,  12のメヌエット  K585  1789 ,  6つのメヌエット  K599  1791 ,  4つのメヌエット  K601  1791 ,  2つのメヌエット  K604  1791 ;  コントルダンス :  B  K123 (73g) 1770 ,  4つのコントルダンス  K267 (271c) 1777 ,  6つのコントルダンス  K462 (448b) 1784 ,  D  K534  1788 ,  C  K535  1788 ,  C  K587  1789 ,  序曲と3つのコントルダンス  K106 (588a) 1790 ,  2つのコントルダンス  K603  1791 ,  Es  K607 (605a) 1791 ,  5つのコントルダンス  K609  1787-88 ,  G  K610  1782-84? ;  ドイツ舞曲 :  6つのドイツ舞曲  K509  1787 ,  6つのドイツ舞曲  K536  1788 ,  6つのドイツ舞曲  K571  1789 ,  12つのドイツ舞曲  K586  1789 ,  6つのドイツ舞曲  K600  1791 ,  4つのドイツ舞曲  K602  1791 ,  3つのドイツ舞曲  K605  1791 ,  6つのドイツ舞曲  K606  1791 ,  C  K611  1791

【行進曲】

D  K62  1769 ;  D  K290 (167AB) 1772 ;  D  K189 (167b) 1773 ;  D  K237 (189c) 1774 ;  D  K215 (213b) 1775 ;  C  K214  1775 ;  F  K248  1776 ;  D  K249  1776 ;  2つの行進曲  K335 (320a) 1779 ;  D  K445 (320c) 1780 ;  3つの行進曲  K408 (383e,  385a,  383F) 1782

【ピアノ協奏曲】

No.1  F  K37  1767 [ラウパッハ,ホナウァーの作品の編曲] ;  No.2  B  K39  1767 [ラウパッハ,ショーベルトの作品の編曲] ;  No.3  D  K40  1767 [ホナウァー,J.G.エッカルト,C.P.E.バッハの作品の編曲 ;  No.4  G  K41  1767 [ホアフナー,ラウパッハの作品の編曲] ;  No.5  D  K175  1773 ;  No.6  B  K238  1776 ;  No.7  F (3台用) 《ロドロン》 K242  1776 ;  No.8  C 《リュッツォウ》 K246  1776 ;  No.9  Es 《ジュノム》 K271  1777 ;  No.10  Es (2台用) K365 (316a) 1780頃 ;  No.11  F  K413 (387a) 1782または1783 ;  No.12  A  K414 (385p) 1782 ;  No.13  C  K415 (387b) 1782-83 ;  No.14  Es  K449  1784 ;  No.15  B  K450  1784 ;  No.16  D  K451  1784 ;  No.17  G  K453  1784 ;  No.18  B  K456  1784 ;  No.19  F  K459  1784 ;  No.20  d  K466  1785 ;  No.21  C  K467  1785 ;  No.22  Es  K482  1785 ;  No.23  A  K488  1786 ;  No.24  c  K491  1786 ;  No.25  C  K503  1786 ;  No.26  D 《戴冠式》 K537  1788 ;  No.27  B  K595  1791 ;  3つのピアノ協奏曲  K107 (D, G, F) 1772(J.C.バッハの作品の編曲) 

【ヴァイオリン協奏曲】

No.1  B  K207  1773 ;  No.2  D  K211  1775 ;  No.3  G  K216  1775 ;  No.4  D  K218  1775 ;  No.5  A 《トルコ風》 K219  1775

【その他の協奏曲】

フルート協奏曲 :  No.1  G  K313(285c) 1778 ,  No.2  D  K314(285d) 1778 ,  アンダンテ  C (fl, orch) K315(285e) 1780 ;  クラリネット協奏曲  A  K622  1791 ;  ファゴット協奏曲  B  K191(186e) 1774 ;  ホルン協奏曲 :  No.1  D  K412(386b) 1791 ,  No.2  Es  K417  1783 ,  No.3  Es  K447  1787頃 ,  No.4  Es  K495  1786 ,  ロンド  Es (hrn, orch) K371  1781 ;  2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ  C  K190 (186E) 1774 ;  フルートとハープのための協奏曲  C  K299 (297c) 1778

【教会ソナタ】

No.1  Es  K67 (41h) 1772 ;  No.2  B  K68 (41i) 1772 ;  No.3  D  K69 (41k) 1772 ;  No.4  D  K144 (124a) 1774 ;  No.5  F  K145 (124b) 1774 ;  No.6  B  K212  1775 ;  No.7  G  K241 1780 ;  No.8  F  K224 (241a) 1780 ;  No.9  A  K225 (241b)  1780 ;  No.10  F  K244  1776 ;  No.11  D  K245  1776 ;  No.12  C  K263  1776 ;  No.13  G  K274 (271d) 1777 ;  No.14  C  K278 (271e) 1777 ;  No.15  C  K328 (317c) 1779 ;  No.16  C  K329 (317a) 1779 ;  No.17  C  K336 (336d) 1780

【六重奏曲】

音楽の冗談  K522 (2hrn, 2vn, va, vc) 1787

【五重奏曲】

弦楽五重奏曲 :  No.1  B  K174  1773 ,  No.2  c  K406 (516b) 1787-88 ,  No.3  C  K515  1787 ,  No.4  g  K516  1787 ,  No.5  D  K593  1790 ,  No.6  Es  K614  1791 ;  クラリネット五重奏曲  A  K581  1789 ;  五重奏曲  Es  K407 (386c) (hrn, vn, 2va, vc) 1782 ,  Es  K452 (p, ob, cl, hrn, fg) 1784

【弦楽四重奏曲】

No.1  G  K80 (73f) 1770改訂73-75 ;  No.2  D  K155 (134a) 1772 ;  No.3  G  K156 (134b) 1772 ;  No.4  C  K157  1773 ;  No.5  F  K158  1773 ;  No.6  B  K159  1773 ;  No.7  Es  K160 (159a) 1773 ;  No.8  F  K168  1773 ;  No.9  A  K169  1773 ;  No.10  C  K170  1773 ;  No.11  Es  K171  1773 ;  No.12  B  K172  1773 ;  No.13  d  K173  1773 ; 《ハイドン四重奏曲》 [No.14  G  K387  1782 ,  No.15  d  K421 (417b) 1783 ,  No.16  Es  K428 (421b) 1783 ,  No.17  B 《狩》 K458  1784 ,  No.18  A  K464  1785 ,  No.19  C 《不協和音》 K465  1785] ;  No.20  D  K499  1786 ; 《プロイセン王四重奏曲》 [No.21  D  K575  1789 ,  No.22  B  K589  1790 ,  No.23  F  K590  1790]

【その他の四重奏曲】

ピアノ四重奏曲 :  No.1  g  K478  1785 ,  No.2  Es  K493  1786 ;  フルート四重奏曲 :  No.1  D  K285  1777 ,  No.2  G  K285a  1778 ,  No.4  A  K298  1786-1787 ;  オーボエ四重奏曲  F  K370 (368b) 1781

【ピアノ三重奏曲】

No.1  B  K254  1776 ;  No.2  G  K496  1786 ;  No.3  B  K502  1786 ;  No.4  E  K542  1788 ;  No.5  C  K548  1788 ;  No.6  G  K564  1788

【その他の三重奏曲】

三重奏曲  Es 《ケーゲルシュタット》 K498 (p, cl, va) 1786 ;  三重奏曲  B  K266 (271f) (2vn, 低音楽器) 1777

【ヴァイオリン・ソナタ】

No.1  C  K6  1762-64 ;  No.2  D  K7  1762-64 ;  No.3  B  K8  1763-64 ;  No.4  G  K9  1763-64 ;  No.5  B  K10  1764 ;  No.6  G  K11  1764 ;  No.7  A  K12  1764 ;  No.8  F  K13  1764 ;  No.9  C  K14  1764 ;  No.10  B  K15  1764 ;  No.11  Es  K26  1766 ;  No.12  G  K27  1766 ;  No.13  C  K28  1766 ;  No.14  D  K29  1766 ;  No.15  F  K30  1766 ;  No.16  B  K31  1766 ;  No.24  C  K296  1778 ;  No.25  G  K301 (293a) 1778 ;  No.26  Es  K302 (293b) 1778 ;  No.27  C  K303 (293c) 1778 ;  No.28  e  K304 (300c) 1778 ;  No.29  A  K305 (293d) 1778 ;  No.30  D  K306 (300l) 1778 ;  No.31  B  K372  1781 ;  No.32  F  K376 (374d) 1781 ;  No.33  F  K377 (374e) 1781 ;  No.34  B  K378 (317d) 1779または1781 ;  No.35  G  K379 (373a) 1781 ;  No.36  Es  K380 (374f) 1781 ;  No.40  B  K454  1784 ;  No.41  Es  K481  1785 ;  No.42  A  K526  1787 ;  No.43  F  K547  1788

【その他の二重奏曲】

ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲 :  No.1  G  K423  1783 ,  No.2  B  K424  1783 ;  ファゴットとチェロのためのソナタ  B  K292 (196c) 1775

【ピアノ・ソナタ】

No.1  C  K279 (189d) 1775 ,  No.2  F  K280 (189e) 1775 ,  No.3  B  K281 (189f) 1775 ,  No.4  Es  K282 (189g) 1775 ,  No.5  G  K283 (189h) 1775 ,  No.6  D 《デュルニッツ》 K284 (205b) 1775 ,  No.7  C  K309 (284b) 1777 ,  No.8  a  K310 (300d) 1778 ,  No.9  D  K311 (284c) 1777 ,  No.10  C  K330 (300h) 1783 ,  No.11  A 《トルコ行進曲付き》 K331 (300i) 1783 ,  No.12  F  K332 (300k) 1783 ,  No.13  B  K333 (315c) 1783 ,  No.14  c  K457  1784 ,  No.15  C  K545  1788 ,  No.16  B  K570  1789 ,  No.17  D  K576  1789 ,  No.18  F  K533+494  1788

【変奏曲】

グラーフのオランダ語歌曲《われら勝てり》による8つの変奏曲  K24  1766 ;  ヴィレム・ヴァン・ナッサウのオランダ語の歌による7つの変奏曲  K25  1766 ;  サリエーリのオペラ《ヴェネツィアの定期市》のアリア《わがいとしのアドーネ》による6つの変奏曲  K180 (173c) 1773 ;  フィッシャーのメヌエットによる12の変奏曲  K179 (189a) 1774 ;  ボーマルシェによるオペラ《セビリヤの理髪師》のロマンス《私はランドール》による12の変奏曲  K354 (299a) 1778 ;  フランスの歌《ああ,お母さん聞いて》による12の変奏曲(きらきら星変奏曲)  K265 (300e) 1781-83 ;  フランスの歌《美しいフランソアーズ》による12の変奏曲  K353 (300f) 1781-83 ;  ドゼードの《ジュリー》の《リゾンは眠った》による9つの変奏曲  K264 (315d) 1786 ;  グレトリーのオペラ《サムニットの結婚》の行進曲の主題による8つの変奏曲  K352 (374c) 1786 ;  パイジェッロのオペラ《哲学者気取り》の《主に幸いあれ》による6つの変奏曲  K398 (416e) 1783 ;  サルティのオペラ《2人が争えば3人目が得をする》のミニョンのアリア《子羊のように》による8つの変奏曲  K460 (454a) 1784 ;  グルックのオペラ《メッカの巡礼》の《われら愚かな民の思うは》による10の変奏曲  K455  1784 ;  アレグレットによる12の変奏曲  K54 (547b) 1788 ;  デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲  K573  1789 ;  《女ほどすばらしいものはない》による8つの変奏曲  K613  1791

【その他のピアノ作品】

2台のピアノのためのソナタ  D  K448 (375a) 1781 ;  ピアノ連弾ソナタ :  D  K381 (123a) 1772 , B  K358 (186c) 1773-1774 ,  F  K497  1786 ,  C  K521  1787 ;  幻想曲 :  d  K397 (385g) 1782 ,  c  K475  1785 ;  ロンド :  D  K485  1786 ,  F  K494  1786 ,  a  K511  1787

【ミサ】

《孤児院ミサ》 c  K139(47a) 1768 ; 《ドミーニクス・ミサ》 C  K66  1769 ;  《聖三位一体の祝日のミサ》 C  K167  1773 ; 《クレド・ミサ》 C  K257  1776 ; 《戴冠式ミサ》 C  K317  1779 ; 《ミサ・ソレムニス》 C  K337  1780 ;  c (未完) K427(417a) 1782-83 ;  レクイエム (未完) d  K626  1791

【リタニアと晩課】

聖母マリアのためのリタニア  B  K109(74e) 1771 ;  聖母マリアのためのリタニア  D  K195(186d) 1774 ;  主日のための晩課 C  K321  1779 ;  証聖者の盛儀晩課  C  K339  1780

【モテット】

モテット《エクスルターテ・イウビラーテ(踊れ,喜べ,汝幸いなる魂よ)》 F  K165(158a) 1773 ;  モテット《アヴェ・ヴェルム・コルプス(まことの御体)》D  K618  1791   

【カンタータとオラトリオ】

宗教的ジングシュピール《第一戒律の責務》 K35  1767 ;  2部の宗教劇《救われたベトゥーリア》 K118(74c) 1771 ;  汝に,宇宙の魂よ  K429(468a) 1785-86(未完 シュタードラーにより完成) ;  悔悟するダビデ  K469  1785 ;  フリーメイスンの喜び  K471  1785 ;  ドイツ語小カンタータ《無限なる宇宙の創造者を崇敬する汝らが》 K619  1791 ; フリーメイスン小カンタータ《われらが喜びを高らかに告げよ》 K623  1791

【三重唱曲】

いまこそあのむごい時が来た(ノットゥルノ) K436  1787頃 ;  黙しながら嘆こう(ノットゥルノ) K437  1787頃 ;  いとしい人よ,お前が遠くにいると(ノットゥルノ) K438  1787頃 ;  愛らしい二つの瞳が(ノットゥルノ) K439  1787頃 ;  いとしい光,うるわしい光よ(ノットゥルノ) K346  1787頃

【演奏会用アリア】

どうしてあなたが忘れられるだろうか  K505  1786 ;  私のうるわしい恋人よ  K528  1787

【歌曲】(ピアノ伴奏)

さびしく暗い森で  K308(295b) 1777-78 ;  満足(金や財産など私になんのかかわりがあるだろう) K349(367a) 1780-81 ;  おいで,いとしのツィターよ  K351(367b) 1780-81 ;  偉人たちの栄光に感謝せよ  K392(340a) 1781-82 ;  孤独に寄す  K391(340b) 1781-82 ;  希望に寄す  K390(340c) 1781-82 ;  結社員の旅  K468  1785 ;  魔術師  K472  1785 ;  満足(私はここではどんなに落ち着いて感じることだろう) K473  1785 ;  偽りの世  K474  1785 ;  すみれ  K476  1785 ;  自由の歌  K506  1785? ;  老婆  K517  1787 ;  ひめごと  K518  1787 ;  別れの歌  K519  1787 ;  ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いた時  K520  1787 ;  夕べの想い  K523  1787 ;  クローエに  K524  1787 ;  小さなフリードリヒの誕生日  K529  1787 ;  夢の像  K530  1787 ;  小さな紡ぎ娘  K531  1787 ;  春への憧れ  K596  1791 ;  春(春の初めに) K597  1791 ; 子供の遊び  K598  1791

【カノン】

おれの尻をなめろ  K231 (382c) 1782頃 ;  親愛なるフライシュテットラー君,親愛なるガウリマウリ君  K232 (509a) 1787

音楽之友社
音楽之友社 出版社

昭和16年12月1日創立。東京都新宿区神楽坂で音楽の総合出版、並びに音楽ホール運営事業を行なっています。

ONTOMOの更新情報を1~2週間に1度まとめてお知らせします!

更新情報をSNSでチェック
ページのトップへ