友達付き合いとブルックナー
2024年に生誕200年を迎えるオーストリアの作曲家、アントン・ブルックナー。その作曲家像に迫るべく、大井駿さんが人となりにまつわるエピソードを4つのテーマから掘り下げていきます。
第4回は、ブルックナーの交友関係に注目します。ワーグナーとブラームスとは、どのような関係だったのでしょうか?
1993年生まれ、東京都出身。2022年、第1回ひろしま国際指揮者コンクール(旧:次世代指揮者コンクール)優勝。パリ地方音楽院ピアノ科、ミュンヘン国立音楽演劇大学古楽...
音楽への考え方が交友関係にも表れる!?
どの時代の音楽にも、さまざまな考え方が対立していました。とくにブルックナーが生きたのは、ロマン派と言われる時代。古典派と比べるとオーケストラは規模が大きくなり、ハーモニーは複雑化し、音楽美学の分野もそれまでにないほど活発化するなど、さまざまな分野において目まぐるしい発展を遂げました。
そうなると、音楽に対する考え方も、多種多様なものになっていくわけです。ざっくりと言えば、これまでの伝統を守ろうとする保守派、そして新しい形式や発想を推し進めていく革新派に分かれます。もちろん、その範疇に収まらないものもあります。しかしロマン派の時代においては、さまざまな対立が生まれ、激化していきました。
これは交友関係を考えるうえでも、とても大きなポイントとなります。
とくにブルックナーは、華々しい社交界に身を投じたわけでもなく、毎日神に祈りを捧げながら、ひたむきに、そして愚直に作曲活動を行なってきました。強いて言うなれば、唯一の楽しみは大量のビール(参考記事:とんでもない大酒飲みだったブルックナー)でしょうか……?(笑)
ですので、ブルックナーの交友関係を見ていくには、音楽に対しての考え方がひじょうに重要になってくるわけです。
たとえば、このページの最初に登場する絵は、ブルックナーと当時の批評家たちの関係を皮肉った絵です。ブルックナーの後ろを歩く批評家たちは、どちらかというとブルックナーの音楽に否定的な人たちでした。というか、ブルックナーを擁護する批評家はそこまで多くありませんでした。しかし、この絵には続きがあります。なんと、後ろを歩く3人が黒く塗られてしまっているのです。
これは、当時の有名な絵本を元にした風刺画なのですが、少し解説します!
この絵本の話は、黒人の男の子をからかった3人の男の子を、巨人が捕まえて黒いインクに浸し、黒人の男の子よりも黒くしてしまう……という、きわどいものなのですが、この風刺画はそれになぞらえたものなのです。
すなわち、批評家たちはブルックナーのことを揶揄するものの、その後は痛い目を見るという内容になっています。
そこで、今回はブルックナーの交友関係と、同時代の音楽に対しての考えを紐解いていきたいと思います。なかでも、 2人の作曲家との関わりについて見ていきましょう!
ワーグナーに強い気持ちを抱いていたブルックナー
ブルックナーを語るうえで、リヒャルト・ワーグナー(1813〜1883)との関係は切っても切り離せないでしょう!
それはブルックナーが30代の頃、彼が作曲を習っていたオットー・キッツラーが、ワーグナーの音楽をブルックナーに勧めたことに始まります。これによりブルックナーは、まず《タンホイザー》《さまよえるオランダ人》の楽譜を手にいれ、熱心に勉強を始めます。
そして1863年(39歳)、実際に《タンホイザー》のリンツ初演に立ち会い、衝撃を受けたのです。1865年には、ミュンヘンで行なわれた《トリスタンとイゾルデ》の初演をなんとしてでも観るべく、はるばるリンツから赴き、そこでワーグナーに初めて出会ったのです。
しかし、ブルックナーにとって、ワーグナーは常に神のような存在であり続けました。1873年(49歳)に、交響曲第3番を捧げたのちも、ワーグナーの歌劇が上演されるとなれば、そこにはブルックナーの姿がありました。
こうして1882年(58歳)に、ワーグナーの《パルシファル》が初演される場にもブルックナーは現れました。このときの様子を、友人に次のように宛てています。
すでに病を患っていたワーグナーだったが、私の手を取り、「心配しないでください、私は君の交響曲を、そしてすべての作品を演奏するよ」と言ってくれた。私は「おお! マイスター!」と答えると、彼は「《パルシファル》はもうお聴きになられましたか? お気に召しましたか?」と尋ねてきました。私は握ったままのワーグナーの手にキスをし、「マイスター、私はあなたを崇拝しています」と返すと、ワーグナーは「せめて落ち着いてください……ブルックナー……おやすみなさい!」と。これが最後の言葉になってしまった。
(1891年2月11日、ハンス・フォン・ヴォルツォーゲン宛)
この手紙にある「崇拝しています」という言葉は決して誇張ではなく、実際にドイツ語で神様に対して用いる「崇拝する」という意味の「anbeten(anbethen)」が使われており、ブルックナーがどれほどの想いをワーグナーに抱いていたかがよくわかります。
ワーグナー:《パルシファル》第1幕 前奏曲
©︎ OÖ Landes-Kultur GmbH / Sammlung Bibliothek
この想いは、実際に作品に投影されます。
ワーグナーの死期を感じて書かれたとされている、ブルックナーの「交響曲第7番」の冒頭には、《ラインの黄金》の冒頭にとても似たフレーズが使われているうえに、第7番以降の交響曲には、ワーグナーが採り入れた「ワーグナーチューバ」という楽器が使われています。
ワーグナー:《ラインの黄金》より「前奏曲」
ブルックナー:交響曲第7番より第1楽章
スープの好み以外は相容れないが敬意は抱いていたブラームス
同じ時代を代表する作曲家として、ヨハネス・ブラームス(1833〜1897)の存在は欠かせません。
先に述べたワーグナーとブラームスの間には、音楽に対しての考え方に違いがありました。しかし、両者は意外と仲が良く、時折お酒の席を共にしては音楽の議論に花を咲かせ、お互いの音楽には敬意を払っていました。とくにブラームスは、ワーグナーの仕事を手伝うこともありましたし、ブラームスがワーグナーの作品を自身の演奏会で取り上げることもありました。
ですが、ブルックナーとブラームスの繋がりはどうでしょうか。
両者の仲はそこまで良くはなかったでしょう。居酒屋「赤いハリネズミ」で二人が面会し、「ここのレバー団子のスープは美味しいですよねぇ!」との意見が一致し、盛り上がったという逸話は有名な話です。しかし、逆に言えばスープの好み以外の意見は一致しなかったのでしょう。
©︎ Nordico Stadtmuseum Linz
意見の不一致に関しては、いろいろな話があります。ブルックナーのブラームスに関する発言には、次のようなものがあります。
「ブラームスは非凡な芸術家で、対位法の大家だ。しかし、彼にこう言いたい。あんたは作曲家というよりむしろ職人だ、とね」
「私は熱い血潮のカトリック信者だが、ブラームスは冷血なプロテスタント信者だ」
「ブラームスの作品はすべてが作り物じみていて、気取っていて、不自然だ」
「ブラームスはたいへん素晴らしい作品を書く立派な作曲家だ。しかし私のほうが好ましい曲を書ける」
「ブラームスの交響曲なんかよりも、シュトラウスのワルツのほうがよっぽど趣味がいい」
次は逆に、ブラームスによるブルックナーに関する発言を見てみましょう。
「音楽的な理論性が皆無で、無秩序そのもの」
「交響的アナコンダ(Riesenschlangen)」(ブルックナーの交響曲について)
「哀れで狂った生き物だ」
「ベートーヴェンとワーグナーをもとに、雑多な色彩で書かれた絵」
「ゾッとするほど不快な大量生産」(ブルックナーの宗教曲について)
「(交響曲第4番の冒頭を指して)これ、見てみ。この男はシューベルトを取り繕っている。でもこの直後に、やっぱり自分がワグネリアンだったことに気付いたんだ」
いかがでしょうか。かなりの毒舌ですね……しかもブラームスの言葉選びには、かなりの皮肉を感じざるを得ません(笑)。
そうは言っても、ブラームスはブルックナーの音楽には少なからず興味を持っていました。ブルックナーの交響曲の演奏会には足を運び、ブルックナーの交響曲の楽譜もちゃっかり購入し、分析していました。これらはそのうえでの発言だったのです。
1896年10月11日、ブルックナーは72歳で亡くなり、生涯独身でした。14日にウィーンのカールス教会で行なわれた葬儀には、多くの友人や、ブルックナーの音楽を愛する人たちが駆けつけました。
残念ながらブラームスは葬儀に遅刻し、すでに始まってしまったブルックナーの葬儀を遠巻きに見て、彼の死を深く悼んだそうですが、実はこれには続きの逸話があります。17時にウィーンのカールス教会を出発するブルックナーの棺が、ウィーン西駅から特別列車に乗せられて、リンツへ向かうことを知ったブラームスは、絶対に遅れるまいと、葬儀が終わる前にウィーン西駅へ向かい、ブルックナーを見送ったそうです。
ブルックナーの葬儀で演奏された曲
1. シューベルト:リタニ D. 343
2. ブルックナー:ゲルマン人の行進 WAB 70
3. ブルックナー:ミサ曲第1番 ニ短調 WAB 26
4. ブルックナー:交響曲第7番 第2楽章(葬儀の際は管楽版)
5. ブルックナー:リベラ・メ WAB 22
6. メンデルスゾーン:2つの宗教合唱曲 作品115〜第1曲「死にゆく人は幸せである」
ブルックナーが生きた時代は、強い逆風にさらされやすい時代でした。とくにブルックナーのような、当時としてはまれに見るほどに長く、新しい手法を取り入れた交響曲を書いた作曲家であれば、とくに風当たりは強かったでしょう。しかし、それを耐えてでも守りたい信念が、彼の音楽にはあったのです。
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