農民画家、神田日勝の絶筆から聴こえてくる生命の律動――連続TV小説『なつぞら』にも登場する画家の生涯
北海道の大地で、農業の傍ら絵を描きつづけ、過労がたたって32歳の若さで亡くなった農民画家、神田日勝。4月よりNHKで放映中の連続TV小説『なつぞら』で、吉沢亮が演じる登場人物のモデルにもなっている。
《馬(絶筆・未完)》は、日勝が死の間際まで取り組んでいた作品だ。胴体の途中で途切れた馬の姿をじっと見つめていると、生命の律動が聴こえてくる――。
アートライター、藤田令伊さんが、神田日勝の生涯とその作品をご案内します。
アートライター、大正大学非常勤講師。単に知識としての「美術」にとどまらず、見る体験としての「美術鑑賞」が鑑賞者をどう育てるかに注目し、楽しみながら人としても成長できる...
農作業の傍らに絵を描きつづけた画家、神田日勝
読者には突然ながら、今回が本連載の最終回である。これまでお読みくださった方々には心より御礼を申し上げたい。最後に満を持してピックアップするのが、神田日勝(にっしょう)の《馬(絶筆・未完)》という絵である。
神田日勝といってもご存じない人が少なくないかもしれない。日勝は北海道十勝地方に生きた農民にして画家という人である。1937年東京に生まれ、8歳のとき北海道へ。中学校に入学すると美術部へ入部。兄の影響で油絵を描き始めた(その兄は東京藝術大学へ進学している)。中学を卒業する際には「特に美術に優れていた」という異例の賞を受け、卒業後農業を継ぐ。以降、日々の農作業の傍ら独学で絵を描き続けた。
この日勝がモデルとなった人物が、4月から放送されているNHKの朝ドラ「なつぞら」に登場する。山田天陽という人物で、イケメン俳優の吉沢亮が演じている。主人公に絵の手ほどきを施すキーパーソンで、どのような存在として位置づけられていくか、今後の展開が興味深い。
身近なもの――農民たちや家畜を題材に描く
さて、いわゆる農民画家だった日勝だが、農家をやりながら絵を描くというのは、いったいどういう営みだったろうか。農作業については私なんぞにはよくわからないが、まだ機械化がいまほど進んではいなかった時代だから、相当な重労働であったことは間違いないだろう。その合間を縫って、なお、絵を描くというのは、よほどの想いがなければ続けられなかったのではないか。日勝に限らないが、地方にはときどきそういう兼業画家がいる。そんな人たちのほうが、なまじな中央の画家より芸術というものに純粋で熱い想いを抱いていたのではないか、と思うときがある。
日勝が描いたのは、もっぱら身の回りのものごとである。人々が農作業に励む姿や、家畜、農場、サイロ、家、アトリエ、ゴミ箱なんかも題材にしている。雄大な十勝の自然は意外に描かれていない。美しい風景画というものは日勝にとってリアリティがなかったのだろうか。
この《馬(絶筆・未完)》も身近な存在を描こうとしたものである。全体をざっくり描いてから部分部分を仕上げていくといった描き方ではなく、馬の頭部から徐々にうしろのほうへと仕上げ進めるという方法を日勝は採っている。本作の制作途中、日勝は32歳の若さで亡くなった。過労がたたってのことだったという。その結果、絵は馬の上半身のみが残され、腰部にさしかかろうというあたりでぷつりと途切れてしまった。そして、これは日勝が狙ったものではなかっただろうが、他に類を見ない特異なインパクトをもたらす作品となった。
生命体として具体的な形態を持つ以前の、静かな律動
初めてこの絵と向き合ったとき、私は驚きに唸った。2本しかない前足で大きな体躯を支える馬。実際には起こり得ない、重力を無視した姿である。また、腰のところで終わっているため、見ようによっては、まるで中空から馬が突如として出現したところに見え、特別な印象を一層強くしている。さらに、未完成であるため、まだ命を宿し切っていない目の曰く言い難い表情……。かくして、一度見たら決して忘れることのできない一枚となっているのだ。
これに聴覚を働かせればどんな鑑賞が可能だろうか。読者は本作にどんな音を聴くだろうか。私の場合、この絵から聴こえてくるのは、馬のいななきといったものではない。時間をかけてこの絵を見つめているうちに私が本作に聴くのは、ごく微かに響く、唸りのような、モーター音のような、静かな律動が発するが如き音である。それは機械音といってもいいような音のイメージで、有機的というよりはむしろ無機的。そんな音のイメージが本作を見ていると広がってくる。突拍子もないことをいっているように思われるかもしれないが、実際そうなのだ。
では、その音のイメージが表すものが何かというと、あえていえば、それは「生命の音」である。もし生命の本質に音があるとすれば、こういう音ではないかというものだ。まだ生命体として具体的な形態を持つ以前に、原生命体が発する音。生命体が発する「声」や「言葉」になる前段階の、まだしっかり固まっていないノイズに近いものだ。本作は制作の途上で画家が亡くなったため未完成である。つまり、生命体として完成されていない。それだけにかえって生命の本質が際立ち、完成すると見えなくなってしまうもの、聴こえなくなってしまうものが伝わってくるように感じるのだ。無生命から生命へと移ろうとする瞬間が凍結された稀有な表現性がこの絵には潜んでいるように思う。
もっとも、それは画家の死という偶然によってもたらされたのではあるが、芸術とはしばしば偶然によってもたらされるものでもある。思えば画家が命を賭して描いたものなのだから、命の本質を感じるというのも必然なのかもしれない。ぜひ一度、朝ドラの聖地巡礼を兼ねて、この驚異の絵の実物をご覧いただきたいと思う。
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