読みもの
2022.02.19
2月の特集「カーニバル」

謝肉祭から花開いたウィーンの舞踏会文化〜独自のカーニバル文化はどう形成された?

ウィーンの謝肉祭は一味違う! 隣国ドイツのにぎやかなお祭りとは対照的に優雅な舞踏会が開催されるようになった歴史を、ウィーン文化史研究者の山之内克子さんが実体験をもとに解説します。マリア・テレジアの仮装好き、仮面と仮装禁止令、ウィンナ・ワルツの誕生……独自の謝肉祭文化がどのように形成されたのか、見てみましょう。

山之内克子
山之内克子 西洋史学者

神戸市外国語大学教授。オーストリア、ウィーン社会文化史を研究、著書に『ウィーン–ブルジョアの時代から世紀末へ』(講談社)、『啓蒙都市ウィーン』(山川出版社)、『ハプス...

謝肉祭に開催されるオペラ座舞踏会。
写真提供:オーストリア政府観光局
©WienTourismus/Peter Rigaud

この記事をシェアする
Twiter
Facebook

トラウマ級の衝撃イベントだったドイツのカーニバル

ドイツ西部のラインラントで過ごした小学生時代、筆者にはどうしても苦手な年中行事があった。年明けから2月にかけて祝われるカルネヴァル、すなわち謝肉祭である。

続きを読む

学校では、祭がクライマックスを迎えるローゼンモンターク(薔薇の月曜日)の直前の木曜日、いつもは冷淡と感じられるほどクールな女性事務スタッフたちが高笑いを上げながら校長室や男性管理職の部屋に乱入し、手にした大きなハサミで彼らのネクタイを結び目からざっくりと切り落とすサプライズが、年ごとにくり返された。ライン川沿岸地方を中心にいまも続くこの慣習は、週末から始まる「無礼講」を前に、日常の常識や堅苦しさを脱ぎ捨てるようにと促す象徴的な行為にほかならない。

男性たちがこの日は特別にカルネヴァル用の派手で安価なネクタイをつけて出勤し、また、暴徒を演じた女性が「餌食」となった相手に後日、新品のネクタイをプレゼントすることなど、ネクタイ狩りに関するいわば「オトナの決まり事」を知るのは、筆者もまた大人になってのちのことである。

学校でのこの騒乱劇のあと、週末に入ると、街の目抜き通りでいよいよカルネヴァルのパレードが始まる。派手な装飾の山車が多数繰り出すパレード、そして思い思いの仮装を身につけ、泥酔して練り歩く人びとの姿は何ともグロテスクで、あたかも地の底から湧いてきた魑魅魍魎のように感じられてならなかった。学校の事務スタッフも都市の住民も、祭りの期間はふだんの顔を捨てて何か別の恐ろしい存在へと変身してしまったかのようで、それが子どもだった筆者の胸に言いようのない不安を煽ったのだった。

《1906年の薔薇の月曜日〜王子のカーニバルのお披露目》
道化や男装、女装などの仮装が見られる。
(ケルン・カーニバル博物館蔵)

対照的なウィーンの謝肉祭

それから10年あまりが経過し、機会を得てオーストリア、ウィーンに長期留学することになった。ウィーンで最初の年明けを迎えたあと、大学の冬学期も終わる2月半ばになって、街全体がかつて暮らしたラインラント地方とはまったく異なる雰囲気に包まれていることに、おのずと気づかされた。謝肉祭期間のラストを飾るローゼンモンタークを迎えても、街頭で仮装する人の姿は一度も見かけなかった。謝肉祭の到来を感じさせるものといえば、わずかに、菓子店のウィンドウの銀の盆に完璧なピラミッド型をなして並べられた「ファッシングス・クラプフェン(謝肉祭の揚げパン)」くらいであろう。

ファッシングス・クラプフェン。某ドーナツチェーンのエ○ゼルクリームを思わせる見た目ですね。

ラインラント地方で「ネクタイ狩り」が荒れ狂う期間の最後の木曜日、当地では毎年、世界的に有名な「オペラ座舞踏会」が開催され、前日にはウィーン中心部のリングシュトラーセ沿いの劇場出入口に鮮やかなレッドカーペットが敷きつめられる。ただし、高価な入場料と厳しいセキュリティなどからして、オペラ座舞踏会は市民参加型のイベントとはほど遠く、多くのウィーンっ子にとっては、国営放送(ORF)が4時間の生中継を通じて伝えるデビュタント(初めての参加者)のダンスやセレブリティの華やかな衣装を自宅のソファで見物するのが何よりの楽しみとなっている。

上:ウィーン国立歌劇場がオペラ座舞踏会の装いに。
筆者撮影
左:オペラ座舞踏会オープニングの様子。
写真提供:オーストリア政府観光局
©WienTourismus/Peter Rigaud

謝肉祭は無礼講が許される「逆さまの世界」に!

カトリック教会は古来、復活祭前の40日間を「四旬節」とし、これをキリストの受難と死を悼む期間と定めて、肉食や飲酒、歌舞音曲を厳しく禁じてきた。禁欲を苦にした民衆は、やがて四旬節直前の数週間、十二分に肉を食べ酒を飲み、踊り歌って楽しみ尽くしておこうと、乱痴気騒ぎを繰り広げるようになる。こうして各地に自然発生的に出現した通俗的な祝祭が、謝肉祭であった。

祭りの名称にはドイツ語圏でも地方によって違いがあり、ドイツ北西部ではカルネヴァル(Karneval)、ドイツ南部およびオーストリアではファッシング(Fasching)と呼び習わされてきた。カルネヴァルが通俗ラテン語で「肉よさらば」を意味する carne vale の語に由来するのに対し、ファッシングは古いドイツ語でFastenschank、すなわち「断食(Fasten)前の酒の一杯」という語源を持っている。どちらも、40日もの厳しい精進期間を横目で睨みつつ暴飲暴食を繰り広げた人びとの、切ない気持ちを反映した呼称と言えるだろう。

だが、禁欲期間を前にして人びとに許されたのは、度を越した飲食ばかりではなかった。四旬節を控えた数週間、謝肉祭という祝祭の時空では、日常の常識や決まりごとを覆す「逆さまの世界」が支配し、男性は女性の、富裕な商人は物乞いの、また愚者は王の扮装をして浮かれ騒いだのである。謝肉祭が呼び覚ます「逆さまの世界」の魅力はけっして民衆層だけにはとどまらず、ハプスブルク家の宮廷でも、皇帝レオポルト1世(在位1658~1705)の治世には、皇帝夫妻が田舎の宿屋の主人とその妻に扮し、貴族や廷臣、女官らをもてなす風習が定着していた。

《レオポルト1世の宮廷食事会》(1666年、美術史美術館蔵)
向かって左側の上席についているのが、レオポルト1世とその妃であるスペイン王女マルガリータ。通常であれば黒服の式部官によってなされる給仕(U字型テーブルの真ん中の隙間に立っている集団)が、いかにもくだけた風情で、しかも、同席する多くの人が、農民がかぶるような平たい帽子をつけていることから、おそらく謝肉祭時期の祝宴の一コマを描いたものなのではないかと推察される。

この「逆さまの世界」こそが、現代の「ネクタイ狩り」やカルネヴァルのパレードにみる「無礼講」の底流となっていることは言うまでもない。現実とは真逆の扮装をして飲食に耽り、普段ないほどに踊り歌って騒ぎ回るという行動パターンは、まさしく謝肉祭の起源にかかわるファクターであり、ドイツ北西部からニース、ヴェネツィア、さらに南米リオデジャネイロまで、世界中のカーニバルの中にいまも受け継がれているのだ。

さて、こうして謝肉祭の起源と歴史を振り返ってみるとき、なお理解しがたい問いとして残るのが、他の地方や都市と一線を画すかのように静まり返ったウィーンの様相である。ドイツ、フランス、イタリアの諸都市とはまったく異なるウィーンの静かな謝肉祭のたたずまいは、ハプスブルク家の宮廷都市としての長い伝統と歴史のなかで紡ぎ出されたものにほかならない。

ウィーンではトラブルや悪用が相次ぎ、仮装と仮面が禁止される

古来、ウィーンの民衆もまた、謝肉祭の訪れとともに、つかの間許された「逆さまの世界」を最大限に堪能していた。1627年にポーランドから当地を訪れた旅行作家は、仮面の貴婦人を乗せた豪奢な馬車の後ろを女装した男たちが多勢、奇声を発しながら追っていく情景に身の危険すら感じたと記している。こうした乱痴気騒ぎがトラブルを引き起こすたびに、ウィーン市から仮装禁止令が出されたが、禁令が徹底されることはけっしてなかった。

ウィーンの「逆さまの世界」に決定的な終止符を打ったのは、1682年の仮装禁止令であった。この法令は、謝肉祭の時季に限らず年間、そして昼夜ともに、戸外での仮装と仮面の装着を身柄拘束をもって厳しく禁じたのであった。その理由として市当局は、市内での殺人や暴行事件の多くが、「仮面をつけ、仮装をほどこした者」の仕業であったという事情を強調している。この時代になると、謝肉祭の楽しさを演出した仮装の習慣を悪用する者が後を絶たなかったようだ。

都市ウィーンはこれより3年前にペスト大流行を経験しており、その際、多くの説教僧が謝肉祭の浮かれ騒ぎを悔い改めるよう強く説いた。かれらの警句が、その後も人びとの心に大きな影響を残したのか、この禁令を境にウィーンの街頭から仮装と仮面がぱったりと姿を消したという。これ以降、謝肉祭の仮装と仮面は、禁止令の対象外とされた高位貴族や宮廷人だけが興じることのできる、特権的な娯楽のツールとなっていく。

実は仮装が大好きだったマリア・テレジア

一般の都市民に対して発せられた禁令ののちも、ウィーンの宮廷では謝肉祭の時期、週2回のペースで仮面舞踏会が開催され、皇帝夫妻が田舎風の扮装で人びとをもてなす習慣も、なお継続して行なわれた。

そして、17〜18世紀に君臨した君主の中でも、仮装と仮面というツールをことさら好み、心から楽しんだのは、女帝マリア・テレジア(在位1740〜1780)であった。公式の宮廷舞踏会のスケジュールをこなしながら、マリア・テレジアは、当時流行したトルコ風の艶やかな仮装に身を包み、夫フランツ・シュテファン公と連れ立って、貴族だけでなく市民階層も多く訪れるダンスホールに足繁く通ったのであった。

トルコ風の仮装に身を包んだマリア・テレジア。
(1744年頃、シェーンブルン宮殿蔵)

彼女にとってとりわけ痛快だったのは、仮面と仮装を身につけている限り、周囲の人びとが、女帝の正体を知りながら、一切の宮廷儀礼を棚上げして気さくに話しかけてくることだった。仮面と仮装は「逆さまの世界」へのパスポートであり、君主が仮装すれば、周囲はその人物にもはや君主として接する必要はなくなるのである。謝肉祭時期のお忍びの外出は、マリア・テレジアにとって、堅苦しい宮廷社会からつかの間逃れるための格好の気分転換となったようだ。

だが、仮装した犯罪者が市内を横行したように、ウィーンの上流社会においても、仮面と仮装はそれがもたらす笑いと楽しさの反面、社会的秩序を崩壊させる危険性をも含む、いわば諸刃の剣の性質を保ち続けていた。

マリア・テレジアの傷心

1747年2月の謝肉祭明け、マリア・テレジアは宮内長官に宛てて後悔の念を込めた1通の親書をしたためた。この公式書簡が伝えるのは、謝肉祭期間中の宮廷で、仮面をつけ、身分を偽った者による「好ましくない行為」が発生したという事実である。この出来事が、自身あれほど仮装に夢中になった女帝の心に深いショックを与え、翌年の謝肉祭では、宮廷舞踏会を含め、すべての催事における仮面と仮装が禁じられたのであった。

このとき、具体的にどのような事件が起こったのかについては知る由もないが、関係する書簡や日記の口調から、マリア・テレジアとその側近たちの懸念が、おそらく風紀や道徳にまつわるものであったことは推測できる。

しかし、謝肉祭の仮面・仮装と「逆さまの世界」は、それがエスカレートすれば、道徳的問題にとどまらず、騒擾(そうじょう)や暴動、あるいはクーデターなど、現実の内政混乱にもつながりかねないことは、歴史が教えるところであろう。

後年、ジュゼッペ・ヴェルディが《仮面舞踏会》(1859年初演)の主題として取り上げたスウェーデン王グスタフ3世の仮面舞踏会場での暗殺事件は、体制側に立った人びとに、つぎの謝肉祭シーズンに自国で起きても不思議がないほどリアリティに満ちた恐怖を感じさせたにちがいない。

ヴェルディ《仮面舞踏会》

ヴェルディの作品が完成から2年、検閲局との気の遠くなるような交渉を経てようやく、物語の舞台をアメリカに移すことを条件に上演を許可された経緯は、19世紀になってもなお、仮面と仮装、とりわけそれが導く「逆さまの世界」がいかに政治的・社会的に危機感をもって見られていたかを明示するだろう。

ウィーン会議と「ワルツの時代」

マリア・テレジアが逝去してのち10年を経ずして、ヨーロッパは激動の時代に突入する。フランス革命は全欧を震撼させ、それに続くナポレオン戦争は多くの国を戦乱に巻き込んだ。混乱の時代のなか、ウィーンの人びとは古くからのカーニヴァル文化から切り離され、その存在すら忘れていったという。

他方、この歴史の怒涛のなかで、政治的混迷が生み出したひとつの潮流が、新たにウィーン独自の謝肉祭文化を形成していくことになる。

1812年、ナポレオンがロシアで大敗を喫したのを機に、フランス革命とナポレオン戦争後の秩序再建を目的とする国際会議がウィーンで開催された。だが、総勢143ヶ国が参加したウィーン会議では、各国の利害が複雑に対立しあい、会期は結局1年半にも及ぶことになる。業を煮やしたオーストリア宰相メッテルニヒは、会議場での議論を少しでもスムーズに進行させるために、各国の代表を招いて毎夜のように晩餐会や舞踏会を開催し、相互の寛いだ会話と交際を促そうとした。

ウィーン会議の風刺画。

こうして1814年から翌年にかけて、王宮内の大広間をはじめ、市内の豪奢なダンスホールは連日、着飾った貴人たちで埋め尽くされることになった。そしてこのとききわめて重要な役割を果たしたのが、ウィンナ・ワルツである。

ワルツは18世紀にはすでに「庶民の舞踏音楽」として広く知られていた。なかでもウィーン風ワルツは、男女が身体を密着させて軽やかに旋回することから、一時は不道徳なダンスとして批判を浴びることもあった。

しかし、ヨーロッパ各国からあらゆる身分の代表が参集したウィーン会議の舞踏会で、複雑なステップと格式張った所作の多い伝統的な宮廷舞踊を導入するのは論外だった。誰もが容易に、楽しく踊れる音楽としてウィンナ・ワルツが改めて注目を集め、そしてこの音楽に夜ごと親しんだ貴賓らによって、全ヨーロッパの上流社会へと伝播したのである。

その後、ウィンナ・ワルツは、創始者と呼ばれるミヒャエル・パーマー、そして彼の楽団員であったヨーゼフ・ランナー、ヨハン・シュトラウス1世、さらにその子ヨハン・シュトラウス2世やフランツ・レハールらによってより洗練された舞踏音楽へと整えられた。かれらの作品は、その美しく親しみやすいメロディによって人びとの心を強くとらえ、また、オペレッタという他ジャンルの音楽とも連携しながら、息の長いワルツ・ブームの流れを形成したのだった。

ウィンナ・ワルツ集

さまざまな舞踏会の起源となった謝肉祭

他方、19世紀半ば、オーストリアに自由主義の時代が到来すると、公共の場でワルツを踊るためのいわばインフラがつぎつぎと整備された。ウィーン市内には多くのダンスホールが成立し、市民階層によって設立されたさまざまなクラブや団体が、それぞれ謝肉祭のイベントとして盛んに舞踏会を催すようになる。

こうして首都の謝肉祭は、20世紀の中頃には華やかな舞踏会の季節として定着していった。「オペラ座舞踏会」と並んでいまもウィーンの謝肉祭を彩る多くの格式ある舞踏会、例えばカフェオーナー舞踏会、菓子職人舞踏会、そしてウィーン・フィルハーモニー舞踏会などは、いずれもこの時代に最初の起源をもち、華やかな舞踏会文化の歴史と真髄を確実に今日に伝えている。

2018年のカフェオーナー舞踏会
写真提供:オーストリア政府観光局
©Bruckner
カフェオーナー舞踏会
写真提供:オーストリア政府観光局
©H.Prammer
2019年のカフェオーナー舞踏会
写真提供:オーストリア政府観光局
©Andi Bruckner
菓子職人舞踏会
写真提供:オーストリア政府観光局
©Richard Großschädl
菓子職人舞踏会
写真提供:オーストリア政府観光局
©Richard Großschädl

宮廷都市という環境のなかで生まれた仮面や仮装に対する鋭い警戒心、ウィンナ・ワルツという舞曲形式の誕生、そしてウィーン会議と舞踏会ブーム。数世紀の歴史のなかで都市ウィーンが経験した独自の歴史的事象が、当地の謝肉祭を北西ドイツに見るような土俗的なカーニバル文化から引き離し、四旬節前の数週間を典雅な舞踏会シーズンへと変化させていったのである。

クリスマス前、イルミネーションに彩られたウィーン旧市街の小路を行くとき、オーバーコートの下にタキシードやドレスをのぞかせて白い息を吐く若者たちに行き合わせることがある。彼らが吸い寄せられるように姿を消すのは、伝統あるダンス学校の建物である。中上流家庭の子どもたちにとっては、いまも格式ある舞踏会でデビュタントとして踊ることは大切な人生のイニシエーションであり、晴れの舞台で見事なワルツを踊るために、すでに秋口からダンス学校での猛特訓に勤しむのだ。

ただし、謝肉祭のワルツは、上流家庭の子女たちだけに許された特権的な愉しみではけっしてない。謝肉祭シーズンには、さまざまな職業団体主催の舞踏会や地区ごとのダンスパーティなど、風格も客層も異なる舞踏会が市内で毎年500件以上開催されるという。そこでは、年齢も特別な参加資格も問われることなく、皆が日付が変わるのも忘れてワルツのステップに夢中になるのである。

オペラ座舞踏会オープニングでのデビュタントたち。
写真提供:オーストリア政府観光局
©WienTourismus/Peter Rigaud

表面は静かなウィーンの謝肉祭。だが、リングシュトラーセ沿いの瀟洒(しょうしゃ)な建物内では、春の花々で飾られたホールを舞台にウィーンっ子たちがいまも当地ならではの謝肉祭を心から楽しんでいる。その優雅な世界は、通りすがりの観光客や、到着したばかりの留学生にとっては到底あずかり知らぬところであろう。

山之内克子
山之内克子 西洋史学者

神戸市外国語大学教授。オーストリア、ウィーン社会文化史を研究、著書に『ウィーン–ブルジョアの時代から世紀末へ』(講談社)、『啓蒙都市ウィーン』(山川出版社)、『ハプス...

ONTOMOの更新情報を1~2週間に1度まとめてお知らせします!

更新情報をSNSでチェック
ページのトップへ