読みもの
2021.08.06
高坂はる香の「思いつき☆こばなし」第73話

村上春樹『古くて素敵なクラシック・レコードたち』で思い出すポゴレリッチのステージ

高坂はる香
高坂はる香 音楽ライター

大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動...

この記事をシェアする
Twiter
Facebook

普段、有名人に遭遇してテンションが上がることがあまりないほうなのですが、今思い出すなかで、そういう機会が2度ほどあります。

続きを読む

一度は、2年前にモスクワのチャイコフスキーコンクールの会場で、宇宙飛行士の野口聡一さんにお会いしたとき。

そしてもう一度は、数年前のイーヴォ・ポゴレリッチのコンサートで、私の真ん前の席に村上春樹さんが座っていたときです(もう結構前のことなので書いてしまいます)。

村上さんの後頭部を眺めながら、ポゴレリッチの弾く、異世界への入口のようなリストのロ短調ソナタを聴く……こんなこと、人生で滅多に起きることではない! 平静を装いつつも、内心大興奮でした。

リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調(ピアノ:イーヴォ・ポゴレリッチ)

さて、先日、本とクラシックが好きな人ならおそらくどうしたって反応してしまう、そんな村上春樹さんのクラシック音楽に関する本『古くて素敵なクラシック・レコードたち』(文藝春秋)が発売されました。

村上さんが、ご自宅の棚にある好きなレコード、面白いレコードを486枚選び、紹介するというもの。ジャケット写真と書き下ろしの「クラシック音楽語り」が載っている、オールカラーの1冊です。

私も、これは手にとってみなくてはと思い、遅ればせながら読みました。最近本は電子版があればそちらを求めることが多いのですが、これは紙だよなと思って、紙の本を入手。

ストリーミングサービスで音楽を聴く日常の中では、もはやジャケット買いという概念自体が失われつつあるとは思いますが、それでも視覚的に味わい深いもの、古くて新しいデザインには、どんな世代でも心ひかれるはず。パラパラとページをめくり、レコードのジャケットを眺めるだけでも楽しい。

そして、特に好きな盤だけをセレクトしているわけではないところが、この種の案内本としては珍しいですね。村上さんが何かひとこと言いたいことがあるものを取り上げている模様。世界的に知名度の高い演奏家ばかりでなく、かなりシブい人もたくさん出てきます。特に、日本人ピアニストのセレクトがシブい。

村上春樹が取り上げた日本人ピアニストのうちの一人、2022年に生誕100周年を迎える安川加壽子(1922-1996)のドビュッシー

読んでいて、聴いてみたい、聴きなおしてみたいと感じる瞬間も多く、さすがの村上春樹節。しかも、村上さんがあまりおもしろくないとおっしゃっている盤のほうが、ちょっと聴いてみたくなります。村上さんはああ言っていたけど、自分はいいと思うかもしれしれない。冒頭でご自身でも書いていらっしゃいます。「他人の下す評価よりは、自分の耳の方を信用する」と。

そして、中古店で1ドルで買った、名演なのにたった50円だったなど、レコードを手に入れたときのエピソードも差しはさまれているのですが、村上さんが店をうろついて棚を漁っている様子を想像すると、少しほほえましいです。お金なんていっぱい持ってらっしゃるでしょうけど(言い方!)、そういうのは自分で探して買うのが楽しいんですよね。

ちなみに話の中には、件のポゴレリッチも出てきます。

「この人と一度会って話したことがある」というくだり、それってもしかして、私が村上さんに遭遇したあの日のことなのでは!? そう思ったら、村上さんの後頭部越しのポゴレリッチのステージの情景が、ありありと目に浮かびました。私にとって忘れられない思い出なのです。後頭部後頭部いわれて、村上さんは迷惑かもしれませんが。

高坂はる香
高坂はる香 音楽ライター

大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動...

ONTOMOの更新情報を1~2週間に1度まとめてお知らせします!

更新情報をSNSでチェック
ページのトップへ