ミヨーの名作「屋根の上の牡牛」の名をもつカクテルを復刻! 1920年代のパリを味わう
1920年代のパリでは、製氷機の発明により身近になった氷を使ったカクテルが大流行。カクテルとジャズの流行に一役買ったのが、フランス近代の作曲家ダリウス・ミヨーの代表作の名を借りたキャバレー「屋根の上の牡牛」。クラシック音楽バー「bar valse」オーナー齊藤容平さんが、そんな「屋根の上の牡牛」の名前を冠したカクテルを発見! 現代に蘇らせてくれました。
東京都出身。國學院大學 文学部卒。 酒類メーカーや様々な飲食店を経験後、 ライブハウスBlues Alley Japanに入社。 さまざまなジャンルの音楽に...
ブラジルの想い出を書いた「屋根の上の牡牛」からキャバレーが誕生
近代フランスに活躍したグループ、6人組で知られる作曲家ダリウス・ミヨー(1892-1974)の代表作「屋根の上の牡牛」(Le Boeuf sur le Toit)。
ブラジルのさまざまな旋律がおもちゃ箱のようにギュッと詰まった、なんとも楽しい曲ですが、1920年代にこの曲と同じ名前のお店があり、カクテルがあったことを皆様ご存じでしょうか?
ダリウス・ミヨーは、この曲を作曲する数年前にブラジルを訪れていて、著書の中でこう述べています。
絶えずブラジルの思い出に付きまとわれているような感じだったので、私は民謡やタンゴやマシ―シェやサンバ、更にポルトガルのファドまでを一つの主題のまわりに寄せ集め、主題がアリアの間で繰り返されるロンドのようなものを作り、この幻想曲に《屋根の上の牡牛》という名をつけました
『ダリウス・ミヨー 幸福だった私の一生』ダリウス・ミヨー著、別宮貞雄訳/音楽之友社/1993年
そもそもミヨーはこの音楽をチャップリンの無声映画の伴奏に使えるのではないかと考えていたようですが、盟友のジャン・コクトーに反対され、コクトーの筋書きによって一幕物のパントマイム・バレエとなりました。美術家ラウル・デュフィが作った大きな仮面、コクトーの奇抜なストーリーや振り付けに、1920年初演時のパリの聴衆からは賛否両論、一大騒動が巻き起こるのでした。
バレエの騒動を聞いた経営者のモイーズという男は、ミヨーとコクトーに自分が次に出す店の名を「屋根の上の牡牛」にしたいと願い出ます。
1922年、こうしてキャバレー「屋根の上の牡牛」が誕生するのですが、ミヨーが思ってもみない事態を引き起こします。
それは面白いと思って承知したのですが、これが誤解の元になるとは思いもよりませんでした
『ダリウス・ミヨー 幸福だった私の一生』ダリウス・ミヨー著、別宮貞雄訳/音楽之友社/1993年
そう、ミヨーとコクトーが店を出したと勘違いして、多くの作曲家や芸術家が店を訪れるようになったのです。コクトー、ミヨーほかフランス6人組はもちろん、サティやラヴェル、ストラヴィンスキー、ヘミングウェイやピカソ、ココ・シャネルなども訪れたそうです。
こうしてキャバレー「屋根の上の牡牛」は一気に、パリで一番の人気店になり、芸術家たちの「たまり場」としての地位を確立しました。
キャバレーとジャズの流行
さて、1920年代のキャバレーとはどんな所だったのでしょうか。
まず演奏されていた音楽はジャズをはじめとしたアメリカの大衆音楽でした。ジャズはアメリカで生まれて間もない当時としては最新の音楽だったわけで、お酒を飲みかわしながら芸術家が最新の音楽について議論していたのでしょう。
「屋根の上の牡牛」にも出演していたクレマン・ドゥーセというピアニストの作品「イゾルディーナ(ワーグナー《トリスタンとイゾルデ》の主題による)」
そしてこの時期キャバレーに入り浸った作曲家がジャズやラグタイム、フォックストロットといったアメリカのダンスミュージックを作品に取り入れました。
製氷機の発明、カクテルの誕生
こうしてパリのキャバレーは、多くの作品を生み出す大きな原動力となっていたわけですが、それではキャバレーに集まっていた芸術家は何を飲んでいたのでしょうか?
20世紀の初頭、パリの人々が飲んでいたお酒といえばシャンパンやワイン、ワインにハーブを漬け込んだヴェルモット、アブサンなどのリキュールなどが代表的ですが、1920年頃になるとヨーロッパではカクテルが大ブームとなります。
カクテルの歴史を最初から話すと長くなってしまいますので割愛しますが、一般的に私たちが想像する“逆三角形のカクテルグラスに注がれる色彩豊かな冷たいお酒”としてのカクテルの歴史は、実はそれほど長くはありません。
昔は冷たい飲み物を一年通して楽しむことができませんでした。近代まで、一年中氷を使うことができるのは、自然の氷を貯蔵しておくことができる「氷室」をもてるような王侯貴族などの特権階級だけ。19世紀後期、カール・フォン・リンデというドイツの学者が人工製氷機を開発し、製氷機が普及することで、一般でも一年を通して冷たい飲み物が提供できるようになったのです。
また、19世紀まではアメリカを中心にカクテルが発展していましたが、1920年の禁酒法の施行によりアメリカのバーテンダーが職を失い、パリ、ロンドン、ローマなどヨーロッパに移り住んだことで、ヨーロッパにアメリカ・スタイルのバーが立て続けにオープンし、カクテルがヨーロッパの社交界の花形になっていきました。
『サヴォイ・カクテルブック』という1930年にイギリスで出版された、現在でも多くのバーテンダーに読み継がれるレシピ本があるのですが、マティーニ、サイドカー、マンハッタン、ホワイトレディなど今でも親しまれているカクテルが多数紹介されています。
古いレシピ本に発見! カクテル版「屋根の上の牡牛」
さて、1929年にフランスで出版された『カクテル・ド・パリ』という本に、カクテル「屋根の上の牡牛」(Le Boeuf sur le Toit)が紹介されています。
レシピを見てみますと……
1/2 Gordon’s dry Gin
1/4 Prunelle Cusenier
1/4 Curaçao blanc Focking
Une tombée jus de citron
上から順に、Gordon’s dry Ginは今でもよく飲まれているイギリスのゴードン社のジンです。Prunelle Cusenierはフランス、キューゼニア社のスピノサスモモというプラムの一種で作られたリキュールですが現在は製造されていません。
Curaçao blanc Fockingが謎のリキュールで、Curaçao blancはオレンジの皮を浸漬して作るホワイトキュラソーのことですが、Fockingというメーカーがいくら調べてもわからないのです。想像としてはWynand Fockink社というオランダのメーカーがあるので、Fockingは誤植でこちらのリキュールではないかと思います。ただ、残念ながらこちらのリキュールも、現在日本では入手困難です。
最後のUne tombée jus de citronは、レモン果汁を一絞り/振りかけるといった意味でしょうか。
1/2 ゴードン ドライジン
1/4 ボルス スロージン
1/4 コアントロー
1tsp レモンジュース
ゴードン ドライジンはそのまま同じものを使い、Prunelleの代わりは同じスピノサスモモのリキュール、スロージンにしました。
インターネットで調べたところ1950年代のPrunelle Cusenieがアルコール度数36度だったようですので、比較的入手しやすくアルコール度数も33度とキューゼニア社と近いボルス社のものを選びました。
Curaçao blancは、ホワイトキュラソーの中でも、もっとも人気の高いフランスのコアントローを使い、レモンジュースを少量。シェイクしてカクテルグラスに注いだものがこちらです。
しっかりとしたアルコール感と、リキュールの豊潤な甘さが贅沢な一杯です。
作曲家のラヴェルは大のカクテル好きで、自らオリジナルカクテルを制作していたくらいの凝りようだったそうですので、もしかしたらこのカクテルも飲んでいたかもしれません。
ジン、スロージン、ホワイトキュラソーは多くのバーが定番で置いているアイテムですので、馴染みのバーなどで1920年代のパリを追体験していただくのも楽しいのではないでしょうか。
もちろん、当店「bar valse」でも現代版「屋根の上の牡牛」ご用意しております!!
東京都目黒区目黒1-5-19 目黒第一ビル 2F(目黒駅西口 徒歩5分)
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