没後150年のヨーゼフ・シュトラウス《最初で最後》~兄の代打から生まれた名ワルツ
ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...
2020年はヨーゼフ・シュトラウス(1827-1870)の没後150年にあたる。ヨーゼフは、「ワルツの父」ことヨハン・シュトラウスI世の次男にして、「ワルツ王」ことヨハン・シュトラウスII世の弟だ。
《天体の音楽》や《オーストリアの村つばめ》といった彼のワルツには、兄とは異なる澄んだ美しさがあり、現在でもよく演奏されている。
ところで、彼の最初のワルツは《最初で最後》というタイトルだ。最初はともかく、なぜ最後なのか。これには、彼のちょっと特殊なデビューの事情がかかわっている。
兄同様、幼いころから音楽の才能を発揮したヨーゼフだが、音楽家になる気はまったくなかった。彼は「人間として人類に、市民として国に有益でありたいのです」と宣言して、高い志をもってエンジニアになった。エンジニアとしての彼は、水道設備の設計者として、また紡績工場の主任技師として働き、たくさんの特許を持ち、数学関係の著書も2冊あったというから、相当に優秀だったようだ。
ところが1852年12月、当代随一の人気音楽家として多忙な日々を送っていた兄ヨハンが過労で倒れてしまう。これによってヨーゼフの運命は大きく変わる。
ヨハンの率いていたオーケストラはシュトラウス家のオーケストラだ。他人に託すわけにはいかない。ヨハンは、母親を通じて、ヨーゼフに代役に立ってくれるよう頼む。ヨーゼフは何度も断ったが、母や兄に再三にわたって懇願されては引き受けないわけにはいかなかった。だが、音楽はそれまでアマチュアとして楽しむ程度だったヨーゼフに、すぐに指揮ができるわけはない。あわてて指揮とヴァイオリンのレッスンを受けて、1853年7月23日、彼はなんとか指揮台に立った。
さて、シュトラウス・オーケストラの指揮者となれば作曲もできなければならない。兄ヨハンはその年の8月29日に行なわれる舞踏会のためにワルツを書くことを約束していたのだが、できていなかった。そこでヨーゼフは、兄のかわりにしぶしぶワルツを書いた。この曲に彼が付けたタイトルが、《最初で最後 Die Ersten und Letzten》だ。
ワルツの作曲はこれっきり、二度とやるつもりはないというわけだ。ところがこれが大成功。聴衆は大喝采、批評は絶賛。「あれはすごくいい音楽だったよ」、やがて体調が回復して戻ってきた兄は言った。
「最初で最後」にするつもりだったヨーゼフの思惑に反して、ワルツの神は、もうヨーゼフを離そうとはしなかった。こうなれば覚悟を決めるしかない。1854年夏、ヨーゼフは新しいワルツを書き上げた。それはこんなタイトルだった。
《最後のあとの最初 Die Ersten nach den Letzten》。
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