オントリちゃんとゆく! 日本全国オンガクの旅 File.04 長崎

「ハートの街」長崎を“ある晴れた日に”旅する~《蝶々夫人》の足跡をたどって

読みもの
2018.12.16

長崎を旅することになった音楽ライター小島綾野さん。異国情緒にあふれ、歴史的な出来事をたどるのも意義深い長崎で、選んだ旅のテーマは「愛」。オントリちゃんとともにオペラゆかりの地をめぐり、主人公の愛の深さに思いを馳せるのでありました。

旅した人
小島綾野 音楽ライター
小島綾野
旅した人
小島綾野 音楽ライター
専門は学校音楽教育(音楽科授業、音楽系部活動など)。月刊誌『教育音楽』『バンドジャーナル』などで取材・執筆多数。近著に『音楽の授業で大切なこと』(共著・東洋館出版社)...

行き先は長崎!

長崎に行ける。さぁ、オントリとともに音楽の鳴るほうへ……と、どこを巡ろう? 某とオントリが思い至ったのは、プッチーニ不朽の名作《蝶々夫人》! アメリカ人による短編小説の原作や戯曲をもとに、イタリア人が作曲した100年以上昔のオペラは、日本が舞台なのだ。

いくつかの本を参考にしながら、世界中のオペラファンに愛され続ける名作の世界を肌で感じてみるべく、旅に最適の秋、物語の舞台・長崎を訪ねた。

参考文献にした『オペラ対訳ライブラリー/プッチーニ 蝶々夫人』(音楽之友社)とオントリちゃんが旅のお供。

飛行機が長崎空港に降り、機内からビルへの連絡ブリッジを抜けると、荷物を受け取るよりも先に聴こえてきたのは《蝶々夫人》を代表するアリア、『ある晴れた日に』の旋律だった。オルゴール調にアレンジされたBGMが、長崎の玄関で旅人たちを迎える。

しかし、そんな晴れがましい扱いとは裏腹に、物語のあらすじは切ない。

《蝶々夫人》のあらすじ

明治35年(1895年)頃の長崎。

アメリカ海軍の士官として来日したピンカートンは、「現地妻」として芸者の蝶々さんと「結婚」する。名家の娘でありながら実家が没落し、身売り同然でピンカートンの妾となった蝶々さんだが、15歳の彼女は戯れの結婚を本気の恋だと信じて彼を心から愛してしまう。

「駒鳥が巣をつくる頃には帰る」と調子のいい口約束を告げて船出した彼の言葉を心に留め、彼との間にできた子とともに何年も彼の帰りを待つ蝶々さん。

だが、彼には既にアメリカで結婚した「本当の妻」がいて——

ピンカートンって、なんてひどい人! とオントリが烈火のごとく怒っているが、もちろん当時の欧米諸国と日本との不平等な力関係や、男尊女卑・児童労働にまつわる考え方など社会的な背景は現代とは異なる。

また、「蝶々夫人は実在したか」「蝶々さんとピンカートンが暮らした家は本当にあるのか」などの研究もあるが、諸説ある中で本稿では1つの説に基づくのではなく、オペラの舞台を「なんとなく旅することを楽しむ」ことをお許し願いたい。

蝶々さんの「生まれ故郷」大村を散策

閑話休題。空港があるのは長崎県大村市……オペラの中で大村は「Omara」という名で登場する。蝶々さんは大村のお殿様に仕える武家の娘として生まれたものの、やがて父親が自刃して家は没落してしまうのだ。

某は、蝶々さんの出生地・大村を散策することにした。

江戸時代の大村藩主が築いた玖島城(くしまじょう)は現在「大村公園」として整備され、その周辺の武家屋敷群も、歴史を感じながら散歩を楽しめる観光スポットになっている。重厚な石垣に守られた城の周辺は、春には桜の名所になるそうだ。

整然とした風格ある街並み……そんな環境に暮らした蝶々さんだからこそ礼儀正しく誇り高く、かつ豊かで幸せだった人々から愛情たっぷりに育てられることで「疑うことなく一途に人を愛する」純真な女性に成長したのではなかろうか。

玖島城周辺のお濠を整備した大村公園。
玖島城の石垣。お城の建物自体は残っておらず、神社になっている。
大村藩の藩校跡「五教館御成門」。現在は市立大村小学校の入学式・卒業式で開門する。
武家屋敷街にある「愛宕山」の中腹から。整然とした街の向こうに大村湾を望む。

武家屋敷の1つ、旧楠本正隆屋敷は公開されており、上がり込んで拝見することができる。幕末から明治期にかけて活躍した楠本正隆は、大村藩の敏腕武士として倒幕運動に加わり、やがて衆議院議長も務めた人物。

明治3年に建てられた楠本邸は時代背景から察するに、蝶々さんが生まれ育った家とも似たようなつくりだろう。障子や欄間に繊細な意匠を施した座敷、家人が使う玄関とは別に設けられた「客人を迎えるための玄関」、離れから眺める美しい日本庭園……大村の武家の生活、当時の家庭の幸せな日々を想像し、そんな暮らしが永遠に続くものと無邪気に信じていた幼き蝶々さんを思うと、さっそく目頭が熱くなる。

旧楠本正隆屋敷
旧楠本正隆屋敷。地元のガイドさんが各部屋を案内してくれる。
旧楠本正隆屋敷
旧楠本正隆屋敷では、土間や風呂など、当時の生活ぶりも伺い知れる。
旧楠本正隆屋敷
趣ある中庭。この日は和装で結婚写真の前撮りをするカップルもいた。
旧楠本正隆屋敷

開館時間: 9:00~17:00

休館日: 月曜日(月曜が祝日の場合その翌日)、年末年始

入場料: 大人(高校生以上)200円、小人(小・中学生)100円

住所: 長崎県大村市玖島2-291-4 Tel. 0957-52-9885

《蝶々夫人》ゆかりのグラバー園へ

さて、いよいよオペラの舞台である長崎市へ。鉄砲伝来の頃からいち早く海外との交流が開かれ、また江戸時代の鎖国中にも出島を設けて外国とつながり続けていた長崎は、昔も今も日本有数の港町だ。

まず向かったのは、開国当時に多くの外国人が住んだ南山手地区。中でもイギリスの商人・グラバーの邸宅を中心にして整備されたグラバー園は、長崎観光で必須のスポットでもある。グラバー邸はかつて、港を眼下に望む眺めから「蝶々夫人の家のモデルではないか」と考えられた説もあったことから、グラバー園にはプッチーニの像が据えられ、蝶々夫人に思いを馳せて長崎を訪う旅人の巡礼地にもなっている。

ここでは、蝶々夫人を演じた2人のソプラノ歌手の功績に触れることもできる。プッチーニ像と同じ並びに建つのは三浦環(1884~1946)の像だ。明治から昭和にかけて活躍した三浦は欧米でも人気を集め、在りし日のプッチーニも彼女の蝶々夫人を観たそうで、ここでもプッチーニ像は蝶々夫人を演じる三浦の像を、少し遠くから微笑ましく見守っている。

グラバー邸
グラバー園のシンボル、グラバー邸。「明治日本の産業革命遺産」の一部として世界遺産に登録。
白亜のプッチーニ像
白亜のプッチーニ像。この視線の先には三浦環像が。
三浦環像
《蝶々夫人》の一場面を演じる三浦環像。息子とともに見据える先は長崎港だ。

そしてもう1人が喜波貞子(1902~1983)。日本とオランダの血を引く彼女もまた、蝶々夫人役でヨーロッパを中心に愛された歌手であり、グラバー園では現在、園内にある旧リンガー住宅で、蝶々夫人の衣装など彼女にまつわる品々の展示を行なっている(2018年10月現在、終了未定)。

蝶々夫人の面影が色濃いグラバー園で、しばし蝶々さんになりきって長崎港を眺めてみよう。

蝶々さんはピンカートンが借りた「東の丘の家」で彼とつかの間の幸せな日々を過ごし、そして彼がアメリカに戻った後もその帰りをひたすらに信じて、家から見下ろす港に入る船を毎日望遠鏡で確かめ続ける……。

港の真上に位置するグラバー園からは、停泊する船が想像よりずっと間近に見える。「見間違いなどしようもないから、愛する人の乗る船はまだ来ていないとはっきりわかる」のも酷なものだ。

グラバー園から長崎港を望む。停泊する船は目と鼻の先だ。

それでも彼女は、明日こそ明日こそと、ピンカートンの乗る船を待ち続ける。周りの人々にいくら「あなたは捨てられたのだ」と説かれても耳を貸さず……そんな彼女の心情を歌ったのが『ある晴れた日に』だ。

『ある晴れた日に』歌詞の概略

ある日、海の彼方に見える一筋の煙。

やがて見えてくる白い船体、迎える人々の群れから1人、この丘を上がってくる。

あの人は遠くから私の名を呼ぶ、でも私は返事をせずに隠れているの。

それは彼を驚かすためでもあるし、会えた嬉しさのあまりに私が死んでしまわないようにするため。

そしてあの人は「かわいい妻よ」と私を呼ぶの……必ずその通りの日が来るわ、私はそれを心から信じている!

そう歌われる幼妻の愛くるしい願望、それをひたむきに信じる強さは、その先に待つ結末と相まって胸をつぶすほど切なく響く。

物語ではその後、本妻を伴ったピンカートンの乗る船が寄港する。そうとは知らぬ蝶々さんは、港に入る船を見つけて喜びにあふれ、花の香りで彼を迎えるために、庭中の花を摘んで家に飾る。

このグラバー園もまた、それぞれの邸宅から港を望む庭には、細やかに手入れされた花々が咲き誇っている。彼の喜ぶ顔が見たくて、すべての花を飾りに供してしまった蝶々さんの庭は、きっと見るも無残に成り果ててしまっただろう。だが、それもまた、この恋の結末を暗示する情景なのだ。

咲き誇るグラバー園の花々。花壇を背景に写真を撮ればインスタ映えもばっちり!
グラバー園

開園時間: 8:00~18:00 年中無休

入園料: 大人610円、高校生300円、小・中学生180円

住所: 長崎県長崎市南山手町8-1 Tel. 095-822-8223

蝶々さんの足跡を追って

さて、蝶々さんの足取りを、想像に任せてもう少し辿ってみよう。グラバー園に隣接した大浦天主堂は、開国の後に長崎へやってきた外国人用の教会として江戸末期に創建された。大浦天主堂ができたことで、隠れキリシタンたちもそれまで命がけで秘め続けた信仰を告白できたという、信教の自由・心の自由を獲得するための壮絶なドラマの舞台ともなった場所だ。

深みのある木の柱と白壁の天井、ステンドグラスから入る陽の光と温かみのあるランプ……目にも美しい聖堂を拝観するほか、付設するキリシタン博物館ではキリスト教の弾圧、信者たちが味わった苦しみの歴史を学べる。

大浦天主堂。「長崎・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一部として世界遺産に登録されている。

蝶々さんはピンカートンと結婚するにあたり、「夫になる人が信じる神様を共に拝むのが私の運命」と先祖代々の信仰である仏教を捨て、1人で教会に行ってキリスト教に改宗した(それはきっと大浦天主堂ないしは周辺に林立する教会のいずれかだろう)。改宗を知った住職の叔父をはじめ、親戚・友人から酷い罵りと絶縁を叩きつけられる彼女。夫となったピンカートンがそれを優しく庇ってくれたこと、そうして彼女が家族や友人をすべて捨ててピンカートンの愛を選択したことも、彼女の想いを深める1つの要因になった。

「改宗する」とはどれだけ重大で覚悟のいることなのか……宗教によって血や汗を流した人の数知れぬ長崎の地で、彼女の一途な想いの強さも改めて知ることができよう。

さらに、物語中の「東の丘」というキーワードを頼りに、南山手からもほど近い東山手地区にも「蝶々さんの家」を探してみる。東山手も港に面した高台にある旧外国人居留地で、「オランダ坂」と名付けられた急坂を汗かきながら上りつつ、同じように坂を上って丘の上の家に嫁いだ蝶々さんのセリフを思い返す。

 

オランダ坂
オランダ坂。明治初期は居留地に住む西洋人を皆「オランダさん」と呼んでいたそう。

先に到着していたピンカートンに「上り坂は大変だったでしょう」と労われるも、彼女は「花嫁にとっては、はやる心を抑えるほうが辛いですから」と微笑む。坂の街・長崎の急峻な地形すらも、彼女の愛情を表現するエピソードに織り込まれているのだ。

東山手には、各国の領事館として使われた洋館もいくつか残っている。そのうちの1つ、アメリカ領事館であった時期も長かったという東山手十二番館は、現在では当地周辺に点在する私立学校の系譜を紹介する資料館として公開されている。

東山手十二番館
かつてアメリカ領事館だった東山手十二番館。洋風建築に日本の瓦。

物語の中で、妾として斡旋された蝶々さんは「結婚式」の前にアメリカ領事館を訪ねている(ただし、物語の背景である1895年頃には、この東山手十二番館ではなく別の場所に移転していたとの情報も)。ルーバーのついた観音開きの窓、日本家屋とは違う高い天井……何もかも見知らぬ異国の領事館に、彼女は緊張して足を踏み入れたことだろう。未だ知らぬ外国人の夫に自分の運命が預けられることを知りながら。

今の東山手には一般の住宅やマンションが立ち並び、物語に出てくるような「港を望む家」はなかなかない。急坂を上り下りしながら洋館群を一巡してお腹ペコペコの某は、長崎名物・ちゃんぽんで元気を取り戻した。

東山手
長崎名物ちゃんぽん
左:活水女子大学や海星学園はじめ、キリスト教に系譜のある学校も多く並ぶ東山手。校舎の間を通る坂道からわずかに海が見えた。
上:長崎名物ちゃんぽん。当地では中華料理店の看板メニューだ。

フィクションとノンフィクションが交錯する

ところで、劇中の印象的なシーンの1つは、ピンカートンの乗る船の寄港を知った蝶々さんが、上陸の手続きを終えて我が家に帰ってくるはずの彼を夜通し待ち続ける場面だ。彼女は『ある晴れた日に』で歌ったとおり、茶目っ気たっぷりに隠れて彼を驚かすつもりで、障子に3つの穴を開け(自分と女中のスズキ、愛息の分だ)、そこから外を窺いながら彼を待つ。

このエピソード、あるいは冒頭でピンカートンが襖を開け閉めしている通り、「蝶々さんの家」は洋館ではなく日本家屋だ(ピンカートンは自分が「住む」ためではなく、蝶々さんとの短期的な愛の巣として小さな家を借りたのだから)。さらにはピンカートンの帰りを待つ蝶々さんは彼の「椅子」を花で飾っている。

オペラでも和洋折衷の舞台装置が設けられることが多く、某もそのような「日本家屋に西洋のインテリア」というイメージを抱いて「蝶々さんの家」を探していたのだが、ここまでの南山手・東山手散策ではそういった趣の家に出会うことはなかった。

そんな和洋折衷のイメージを伺い知れるのが、「出島」だ。鎖国政策で外国との交流が絶たれていた江戸時代、唯一の窓口として1643年に開かれた当時の様子を復元して公開されており、オランダ商人たちの暮らしを物語っている。

出島で観覧できる商館長・カピタンの邸宅は、板張り・畳敷き・障子の日本家屋に華やかな壁紙を貼り、テーブルや椅子を設えて洋食器を並べる、まさに和洋折衷のつくりだ。《蝶々夫人》の時代からはもちろん遡るものの、このような摩訶不思議なオリエンタリズムが、情報の著しく制限された時代において「極東の島国」をよりファンタジックにヨーロッパへ伝えていたのではなかろうか。

出島。社会科の教科書でもおなじみだが、今ではビル街の一角だ。
カピタン邸。鮮やかな色の障子格子、襖にカラフルな壁紙……むしろポップで新鮮!

とはいえ、今回の旅でも伺い知れたとおり、プッチーニが描いた「当時の長崎」の様子はかなり克明で正確だといえよう。

オペラ《蝶々夫人》はアメリカの劇作家・ベラスコによる同名の戯曲を元にしており(たまたまその上演を観たプッチーニは、感激のあまり即断でオペラ化を申し出たそう)、そのさらに元になったのは弁護士で小説家のロングによる同名小説(ちなみに、ロングの姉は長崎に滞在)、またそのインスピレーションになったのはフランス人のロティが記した《お菊さん》という小説だった。

海軍将校でありながら執筆活動も行なっていたロティは、自らが長崎に滞在した折に肌身で感じた日本文化、そして蝶々さんのような運命に翻弄される女性のことも、半ばノンフィクションとして子細に伝えており、それらもプッチーニや脚本のイッリカらが極東の小国の港町を鮮明に思い描く手がかりとなったようだ。

また、作中には、『君が代』をはじめ『さくらさくら』『お江戸日本橋』などの日本の旋律がしばしば登場する。プッチーニはこれらの情報をイタリアに居ながらにして、日本から当地に来ていた駐在公使夫人・大山ひさ子氏から得たそうだ。

それらのリサーチを経てつくられた、フィクションとノンフィクションが絶妙に入り混じるような《蝶々夫人》の世界……それが架空の人物にもかかわらず、蝶々さんという1人の女性が明治のこの地で実際に生き、喜び・悲しみ・泣き・笑っていたかのような錯覚を起こさせるのかもしれない。

「愛の街」で愛に散った蝶々さんを思う

長崎は近年「ハートの街」としても人気を上げているようだ。観光名所・眼鏡橋のたもとに埋め込まれたハート型の石が「恋の叶うパワースポット」として話題を呼んだのを皮切りに、グラバー園の石畳にまぎれるハートの石探しや、世界三大夜景・長崎の夜景を望む稲佐山展望台のハート型の照明、挙句には「『グラバー(GLOVER)』にはLOVEが入っている」などというこじつけ(?)まで揃え、恋に恋する若い女性やカップルを歓迎する。

眼鏡橋
市内の観光名所「眼鏡橋」。現存する日本最古のアーチ型石橋。
眼鏡橋至近の護岸に埋め込まれたハート型の石は、元は石工の遊び心だったそう。
東山手の洋館「甲十三番館」の庭にも、ハート型の蔓が。
グラバー園の石畳にまぎれるハート。長崎では「ハート探しの散歩」も楽しい。

オペラの終盤で、ピンカートンが本妻と結婚したこと、さらに息子をアメリカに引き取りたいと考えていることを知った蝶々さんは、父の形見である短刀を取り出し、そこに彫られた「誇りを持って生き遂げられない者は誇りを持って死ぬ」という言葉通りに、その短刀で自害する。

傍から見れば、戯れの愛を本気にし、それに命をかけてしまった哀れな少女の物語なのかもしれない。だが、最愛の人に愛されたという最高の思い出を胸に、彼の愛を疑うことなく信じて、ここ長崎で彼を待ち続けていた彼女自身は、本当に幸せだったのだと思う。

愛の街・長崎のそこここに流れる『ある晴れた日に』が多くの人々に親しまれているのは、その秀逸な旋律に加え、内容がとても普遍的な……自分と愛する人との幸せな未来を心から願う1人の女性の、純粋な恋の歌であるから……なのではなかろうか。

参考文献

・『オペラ対訳ライブラリー/プッチーニ 蝶々夫人』(音楽之友社)

・『世界歌劇全集 蝶々夫人』(音楽之友社/絶版)

・『スタンダード・オペラ鑑賞ブック イタリア・オペラ(上)』(音楽之友社)

・『蝶々夫人を探して―歴史に見る心の国際交流』(クリエイツかもがわ)

・『プッチーニのすべて (みやざわじゅういち・オペラシリーズ)』(芸術現代社)

・『もうひとりの蝶々夫人―長崎グラバー邸の女主人ツル』(毎日新聞社)

・『お蝶夫人』(新潮社)

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