プッチーニの修業時代~《マノン・レスコー》大ブレイクまでの波乱の道のり
2024年に没後100年を迎えたジャコモ・プッチーニ、現代においてもっとも上演回数が多く、たくさんの人々に愛されるオペラ作曲家です。記念すべき今年、オペラ・キュレーターの井内美香さんが彼の作品と人生を併せて「大解剖」していきます。
第1回はプッチーニが生まれてから、《マノン・レスコー》で大ブレイクするまでの道のり。音楽一家に生まれ、オペラ作曲家を目指したプッチーニの青春時代は波乱の連続!?
学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...
音楽一家に生まれたサラブレッドがオペラと出会う
ジャコモ・プッチーニは1858年にイタリアのトスカーナ地方にある古くからの音楽の町ルッカに生まれました。プッチーニ家は代々音楽家の家系で、ジャコモはその五代目にあたります。父ミケーレはワーグナーやヴェルディと同じ1813年生まれ。町の大聖堂のオルガニスト兼、音楽学校(後のボッケリーニ音楽院)で作曲を教え、校長になった人でした。
ところがジャコモがまだ5歳の時に父親が急逝してしまいます。残されたのは祖母、母アルビーナ、長男ジャコモ、姉4人妹2人、それに加えてアルビーナのお腹に宿っていたジャコモの弟でした(父の名をとってミケーレと名付けられる)。アルビーナは彼女の弟でありやはり一流の音楽家だったフォルトゥナート・マージやほかの親戚の助けを借り、一家を切り盛りします。
ジャコモは幼い頃からソルフェージュと歌を習い、9歳で音楽学校に入学し、弦楽器、ピアノ、オルガン、和声、作曲を学びます。町の教会の合唱隊で歌ったり、教会でオルガンを弾いたりして家計を助けつつ、21歳の時にルッカの音楽学校を優秀な成績で卒業しました。
その時に書いた「4声とオーケストラを伴うミサ(通称グローリア・ミサ)」はドラマチックな宗教曲で、すでに誰もがプッチーニの才能を感じ取れる作品でした。
しかしプッチーニは、家業を継いでルッカで働くつもりはありませんでした。彼自身が後に「17歳の時にピサで(ヴェルディの)《アイーダ》を聴き、私は音楽の扉が開くのを感じた」(1897年E・ケッキへの手紙)と述べているように、プッチーニはいつしかオペラと出会い、オペラの世界で成功することを夢見ていたのです。
ミラノでのオペラ修行
1880年秋、21歳のプッチーニは、奨学金や親戚からの援助金を取り付けて、ミラノに旅立ちます。すでに作曲家としての基礎は完成していましたが、彼はミラノ音楽院でさらに3年間の研鑽を積みました。オペラ作曲家ポンキエッリに師事し、またスカラ座で上演されていた最先端のオペラを吸収します。時には母に仕送りの追加を求める手紙を書きながらの切り詰めた日々でした。
1883年、24歳のプッチーニの卒業制作は「交響的奇想曲」でした。現在でもよく演奏されるこの短い管弦楽曲は、音の多彩さと自由な表現が特徴です。ちなみにプッチーニのオペラ《ラ・ボエーム》の中にはこの曲の一部分が使われています。《ラ・ボエーム》が好きな人ならすぐ分かるはず。
オペラ処女作、コンクール落選、スキャンダル......
プッチーニはこの年(1883年)に音楽出版社ソンツォーニョが開催した一幕ものオペラ・コンクールに応募し、彼の初めてのオペラ《妖精ヴィッリ》を書きます。台本作家は師匠ポンキエッリが紹介してくれました。
プッチーニはこのコンクールに落選。その理由としては彼が書いた楽譜が汚くて読めなかったためだとされています。しかし審査員の1人がポンキエッリだったことや、その後プッチーニがソンツォーニョ社のライバルであるリコルディ社と契約した事実などから、今では作為的な落選だったのでは? と考えられています。
1884年、ミラノ音楽界の名士たちの協力で《妖精ヴィッリ》は初演され好評を博します。
次のオペラを発表するまでの5年間に、プッチーニにはプライヴェートで重大な出来事が起こっていました。《妖精ヴィッリ》初演のすぐ後に最愛の母を亡くし、失意のプッチーニはその翌年に生涯の伴侶となる女性エルヴィーラと出会ったのです。プッチーニは26歳。彼女はプッチーニの一歳年下の子どもが2人もいる人妻で、プッチーニの子を宿していました。2人は駆け落ちのようにして一緒に住み始めます。
経済的にも厳しい時期が続き、この間、リコルディ社の株主たちはプッチーニの才能に疑問を呈しますが、オーナー社長ジュリオ・リコルディはプッチーニを信じ続けます。ジュリオはプッチーニに毎月、前払金を支払い続け、それに加えて彼を社費でバイロイトに派遣し、ワーグナー作品のイタリア上演用のアレンジを依頼してプッチーニの生活を支えました。
台本の重要度に気づき、《マノン・レスコー》の大成功へ
次のオペラ《エドガール》は、1889年にスカラ座で初演されますが、台本が荒唐無稽だったこともあり成功には至りませんでした。《エドガール》の失敗により、プッチーニは台本の重要さを身に染みて理解します。
左: オペラ《エドガール》リブレットの表紙
次作がアベ・プレヴォー原作の《マノン・レスコー》に決まった時に、プッチーニは台本について妥協ない姿勢で臨みます。5人ほどの手を煩わせ、物語の起承転結と見せ場の配置に納得のいく台本が完成しました。
《マノン・レスコー》は1893年にトリノで初演されました。プッチーニは34歳。イタリア・オペラらしい甘美な旋律と、ワーグナーばりに張り巡らされた音楽モチーフと調性によって、プッチーニはマノンの魅力を余す所なく描きました。このオペラは観客と評論家の両方から大絶賛され、ついにプッチーニは一流のオペラ作曲家の仲間入りを果たします。
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