マンガでたどるラフマニノフの生涯#11 ラフマニノフ、最期の輝き
作曲家の創作マンガを数多く手がけてきた創作マンガユニット・留守keyが、ラフマニノフの生涯を全12回でたどるマンガ連載。連載も残すところあと1回となりました。今回は、アメリカでピアノ演奏に多忙なラフマニノフが、《パガニーニの主題による狂詩曲》を契機にようやく作曲家としてのペースを取り戻していく過程をお届けします。
http://rusukey.blog.jp主な作品:『B(ベー)〜ブラームス二十歳の旅路』コミックス全3巻(DeNA/小学館クリエイティブ)、学研マンガジュニア名作...
作曲家としての時間がとれない苛立ち
ラフマニノフがアメリカ・ニューヨークに降り立った1918年からもう何年も過ぎた。当初から慣れぬ生活環境のなかで、家族が食べていくための演奏活動と縁ある人々との会食や会合が続き、疲労困憊の日々であったはずだ。
とりわけラフマニノフを苦しめたのは、皮肉にもスケジュールを埋めていくピアノ演奏の機会だった。
もともと幼少期から続けてきたピアノである。厳しいズヴェーレフ先生のレッスンにも応え、モスクワ音楽院では首席でピアノ科を卒業している。ピアノを弾くことが苦なわけがない。
アメリカに来てからは呼ばれればどこへでも出向き、期待されればリクエスト曲にも応えてピアノを弾いてきた。もちろん相応のギャランティは手に入るのだが、そのことと引き換えに、学生時代から今日までになんとか築き上げてきた「作曲家」ラフマニノフの時間がとれない。その苛立ちが日に日にラフマニノフ自身を追い詰めていたのだろう。
さらにラフマニノフにはもう一つの重大な問題があったのではないか。活気ある経済新興国アメリカでは思うような作曲ができないことを悟っていたように思えるのだ。
「……ここには白樺のざわめきもなく、心をときめかすライ麦畑もない。このような環境でどうして(わたしは)作曲できようか……?」このように書き残した記録もある。
故郷ロシアの季節、空気、情緒、人、食事、豊かな大地……ありとあらゆる「ロシア的なもの」がラフマニノフの作曲の源泉であり、動機であり、支えであった。経済都市ニューヨークの生活が続き、そのことにあらためて気がついたようだ。
ルツェルンで《パガニーニの主題による狂詩曲》を完成
気分転換も兼ねて他の国々へ旅行することもあった。とくにスイスのルツェルンはお気に入りの場所となり、たびたび訪れたらしい。
1934年、この地でラフマニノフはピアノと管弦楽のための作品を作曲した。それが《パガニーニの主題による狂詩曲》作品43だった。
▼ラフマニノフ《パガニーニの主題による狂詩曲》
その少し前には「ピアノ協奏曲第4番」ト短調作品40をすでに作曲していたが、納得のいく仕上がりとはならずに改訂を考えていた。そんな事情からか、協奏曲の枠から外れた作品を進めることになった。
アメリカでの初演は人気の指揮者ストコフスキーによるフィラデルフィア管弦楽団との共演で行なわれた。もちろんピアノ独奏はラフマニノフ自身が担当した。
ようやく作曲のペースを取り戻す
これでようやく作曲のペースを取り戻したかのように、ラフマニノフは続いて新しい交響曲にも着手する。「交響曲第3番」イ短調作品44は1936年に完成。評価が高かった「交響曲第2番」ホ短調作品27を作曲してから実に30年近くもの歳月が経過していた。
初演はアメリカで親交を深めたラフマニノフお気に入りの指揮者ユージン・オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団によって行なわれたと記録にある。
▼ラフマニノフ「交響曲第3番」(トラック7~9)
「作曲家ラフマニノフ」はアメリカで再び脚光を浴び始めていた。その時、年齢はすでに60歳を超えていた。創造の苦しみを経たあとでもあり「これが最期の交響曲になるかもしれない……」そんな気持ちを抱いてのことだったのではと思う。
「交響曲第3番」の初演を終えたあと、久しぶりの高揚感を覚えたラフマニノフの中では、とある思いが膨らんでいた。「そうだ……」「わたしにはもう一つの大切な交響曲がある。あの作品をもう一度蘇らせることはできないか?」「ロシアではなく、この新しい地で!」
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