マンガでたどるラフマニノフの生涯#6 ラフマニノフ、絶望する
ラフマニノフの生誕150周年にちなみ、その生涯を12ヶ月、全12回でたどるマンガ連載がスタート! 作曲家の創作マンガを数多く手がけてきた創作マンガユニット・留守keyが、ラフマニノフの音楽について綴るコラムとともに、その劇的な人生をお届けします。
http://rusukey.blog.jp主な作品:『B(ベー)〜ブラームス二十歳の旅路』コミックス全3巻(DeNA/小学館クリエイティブ)、学研マンガジュニア名作...
ラフマニノフが自信をもって世に送り出した「交響曲第1番」
ラフマニノフが発表した最初の交響曲「交響曲第1番ニ短調(1895)」は、不遇な運命をたどる。
モスクワ音楽院を卒業し、晴れて世に問う重要な大曲となったこの曲は、彼なりに力を注いだ意欲作だった。劇的表現を高めるため、大胆なオーケストレーションに挑戦した。
また、当時付き合っていたアンナからの影響か、ロマの音楽が感じられるように微妙な工夫を施した。これは交響曲をアンナに捧げるための、ラフマニノフにとっては大切な仕掛けだった。古くから伝わるロシア聖歌のイントネーションも参考にした。
そして仕上がった「交響曲第1番」に、ラフマニノフは自信を持っていたようだ。しかし、初演を迎えるには2年近くかかった。その長い時間が徐々にプレッシャーを与えたのではないか。
「わたしの最初の交響曲は成功しなければならない」
「ロシア音楽の伝統を新しい表現で進めなければならない」
「そして人々から喝采を受けなければならない」
「さらに音楽家の仲間からも温かく迎えてもらわなければならない」
なによりも
「アンナに気に入ってもらわなければならない」
初演における2つの不吉な予感
初演は1897年3月、ベリャーエフが主催する交響楽演奏会において、重鎮アレクサンドル・グラズノフ(1865〜1936)が指揮すると決まった。場所はペテルブルク。
この段階でラフマニノフには、2つの不吉な予感があったのではないかと推察できる。
まず、指揮のグラズノフ。グラズノフはいうまでもなく「ロシア五人組」きっての才能ある音楽家リムスキー=コルサコフに学んだ俊英であり、その後は作曲を続ける傍らペテルブルク音楽院で教鞭をとるなどして、今やロシア音楽のアカデミズムを象徴する音楽家でもあった。ラフマニノフからすれば、仰ぎ見る大ベテランの一人だろう。
しかし、グラズノフはペテルブルクの人だ。モスクワで学び育ったラフマニノフとの積極的な接点は、無い。チャイコフスキーのように絶賛はなくても、公平に扱ってくれるだろうか。
また、2つ目の不吉は初演がモスクワではなくペテルブルクであるということ。モスクワ音楽院で学び卒業したラフマニノフにとって、ペテルブルクは決して居心地の良い場ではなかったはずだ。
ロシアにおける芸術の中心地であり、また最先端の芸術の街を自認するペテルブルクの批評家や観客には、当時はまだ地方の一都市でしかなかったモスクワからやってくる新人音楽家がどのように評価されるのか、不安ばかりが膨れ上がっていたに違いない。
公演前のリハーサルに参加したラフマニノフは、不吉な予感の的中に震えていた。指揮者のグラズノフは最初からスコアを信頼しておらず、いくつかのカットや変更をオーケストラに指示していた。
また、公演は他にもアレンスキーやチャイコフスキーの交響曲などもプログラムされており、ラフマニノフの「交響曲第1番」ばかりに時間をかける余裕がなかった。演奏するオーケストラにとって十分なリハーサルになったのか、疑わしい。
酷い演奏と酷評に打ちのめされる
迎えた本番は、さらにひどい演奏となった。お世辞にも、モスクワからやってきた新進気鋭の作曲家による「新作の交響曲」をよく聴かせようという誠意や熱意がまるで感じられなかった。
ラフマニノフは聴くに耐えなかっただろうが、観客は、いま目の前で演奏された「酷い演奏」をラフマニノフの新作として受け止めるのだ。終演後も好意的な拍手はなく、手厳しい非難やブーイングに湧いたとも言われている。
さらにラフマニノフを絶望の底に突き落としたのは、公演後の新聞などに投稿された専門家らによる酷評の数々だった。とくにペテルブルクで陣を張っていた「ロシア五人組」の一人、ツェーザリ・キュイ(1835〜1918)が書いた批評は峻烈を極めた。
「もし地獄に音楽学校があったなら、(中略)このような交響曲は大いに地獄の住人を喜ばせるだろう……」というような書き出しから始まる有名な投稿文は、ラフマニノフの「交響曲第1番」をこの上なく貶めたあと、さらにラフマニノフの音楽的な素養についても言及し、「破綻したリズム」「不明瞭で漠然とした形式」「無意味な繰り返し」「臭い響き」「崩壊する低音域」「全体を覆う病的なハーモニー」「テーマの完全なる欠如」……など、およそ考えられるあらゆる否定の表現が並んだ。
酷評であった。ラフマニノフは耐えることができず、この日から心を固く閉ざし塞ぎ込んでしまった。
意気揚々と作曲した記念すべき「交響曲第1番」は、ラフマニノフにとって忌まわしいものの象徴として、生涯にわたり胸の奥に痛みを持ってしまい込まれることになった。
なお、グラズノフは後に自身が指揮をした初演の不備を認めていたという。また、「交響曲第1番」の譜面は行方不明になっていたが、奇跡的に発見されたオーケストラのパート譜などにより復元され、1945年に復活上演された。ラフマニノフが没した2年後のことだった。
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