『レント』と《ラ・ボエーム》〜元となった名作オペラから読み解く伝説のミュージカル
世界中で大ヒットを巻き起こし、今なお愛される伝説のミュージカル『レント』。この作品、実は19世紀を舞台にした名作オペラ《ラ・ボエーム》が下敷きになっているのです。しかも、細かくみていくと登場人物の名前や設定、ストーリーやメロディまでそこかしこに原作へのリスペクトが散りばめられています。オペラ・キュレーターの井内美香さんが、2つの作品を比較するとともに、なぜこれほどまで愛されるのか考察します。
学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...
オペラ《ラ・ボエーム》の愛と青春の世界を、舞台と時代を移してミュージカルに
プッチーニのオペラ《ラ・ボエーム》をベースにしたミュージカルを作ろう! 最初にそう考えたのはニューヨーク出身の劇作家ビリー・アロンソンだった。“プッチーニの甘美で輝かしい世界を荒っぽくて騒々しい現代のニューヨークに移し替えてみたい”という考えが彼の頭に浮かんだのだ。
このアイデアを実現したのがジョナサン・ラーソンだ。ニューヨーク州にユダヤ人の両親から生まれ音楽と演劇を学んだラーソンは、長い間、レストランのウェイターとして働きながらミュージカルの脚本を書き、作曲を続けた。そして彼自身が友人たちと住んだニューヨークのイーストヴィレッジを舞台に、映像作家、ミュージシャン、大学講師、ドラァグクイーン、ダンサー、パフォーマーなどが主人公となるミュージカル『レント』が誕生する。
舞台は20世紀末のニューヨーク、イーストヴィレッジ。
荒廃したアパートに住み、家賃(レント)も払えない貧しい生活を送るマークとロジャー。映像作家を目指すマークは、女性弁護士ジョアンと付き合い始めた元恋人のパフォーミング・アーティスト、モーリーンに今も振り回されている。
シンガーソングライターを目指すロジャーは、曲が書けず悶々とした日々を過ごしているが、ナイトクラブダンサーのミミと出会い、互いに愛し合うものの、心はすれ違う。共にHIVポジティブのエンジェルとコリンズは永遠の別れを迎える。
ある日、行方不明になっていたミミが手遅れの状態で発見される。真っ直ぐな気持ちでミミに向きあうロジャーが、やっと書き上げたラブソングを捧げると……。
成功を夢見る若きアーティストたちの青春は、はたから見ればまぶしいばかりに輝いているけれど、彼らの実際の日々には多くの苦難がある。どうやって毎日の暮らしを支えるか、自分には才能がないかもしれないという不安との戦い、そして時には冒険をしすぎて人に打ち明けることが難しい傷を負ってしまうこともある…….。
プッチーニのオペラから生まれたミュージカルとしては《蝶々夫人》をベースとした《ミス・サイゴン》も名作だが、原作の世界からの借用は『レント』の方が断然多い。そこにはオペラ《ラ・ボエーム》への大いなるリスペクトも感じられるのだ。
1830年代、パリ。カルチェエ・ラタン街の安アパートの屋根裏部屋に、詩人のロドルフォ、画家マルチェッロ、音楽家ショナール、哲学者コッリーネ、家賃も払えない、若く貧しいボヘミアン仲間が暮らしていた。クリスマスイブの夜、ロウソクの明かりをもらいに訪れたお針子のミミは、ロドルフォと惹かれ合い恋仲に。(第1幕)
お祭り騒ぎのクリスマスの街。仲間たちとカフェで食事をしていると、マルチェッロは元恋人の歌手ムゼッタ(ソプラノ)と再会し、よりを戻す。(第2幕)
2か月後、ミミが、最近ロドルフォとうまくいかないとマルチェロに悩みを打ちあける。実はミミは結核で、貧しくて医者も呼べないロドルフォは、自分では彼女を救えないからと彼女と別れようとしていた。ミミは別れを受け入れた。マルチェッロとムゼッタも口論の末に喧嘩別れしてしまった。(第3幕)
数か月後、別れた恋人を懐かしむロドルフォとマルチェッロの屋根裏部屋に、ムゼッタが駆け込んでくる。子爵の愛人になっていたミミが、最期は愛する人の腕の中で死にたいと訪ねてきたところ、アパートの戸口で倒れてしまったのだ。ベッドに担ぎ込まれて、初めて出会った日のことを語り合う2人。医者を呼びに走る友人たちの努力も虚しく、ミミは静かに息を引き取る。(第4幕)
時代を越えて芸術と愛に生きる若者たちを描く
主人公たちの名前はできるだけ元の名前を想起できるようになっている。ヒロインのミミだけは同じ名前だ。
画家マルチェッロは『レント』の映像作家マーク、詩人ロドルフォはミュージシャンでソング・ライターのロジャー。
哲学者のコッリーネは大学で哲学を教えるトム・コリンズ、音楽家のショナールはゲイのアーティスト(ドラマー)であるドラァグクイーンのエンジェル・ドゥモット・シュナールド。自由恋愛を標榜するムゼッタは、バイセクシャルのパフォーマンス・アーティストのモーリーンだ。
元々ボヘミアン仲間だったけれど今や富裕層の仲間入りをしたベニーはミミの元カレ(そして彼女がロジャーと別れたあとに少しだけよりを戻す)ということで、《ラ・ボエーム》の子爵に似た立場だが、ボヘミアンたちに立ち退きを要求するところは、家賃の取り立てをする家主ベノアに近い部分があったり、モーリーンの新しい恋人は女性弁護士ジョアンだったりと、周辺の設定にはいくつか違う点もある。
主人公たちの置かれた状況も共通点が多い。世界中の誰もがあこがれる大都会、19世紀半ばのパリと20世紀末のニューヨーク。芸術家として自分の納得いく成功を目指す若者たちが、アパートの屋根裏部屋で共同生活をしている。
当時パリで多かった肺結核にかかり命を落とすミミ。『レント』では、当時ニューヨークで猛威を振るったHIVポジティブなのはミミだけでなく、ロジャー、トム・コリンズ、そしてエンジェルも。ここで病で命を落とすのはエンジェルである。病におかされていても、もしくは命が短いことを知っているから、なおのこと登場人物たちが愛に燃えるのも共通している。
細かいセリフにまで込められた原作へのリスペクト
物語の細かい描写にも、《ラ・ボエーム》への言及がたくさん埋め込まれている。暖房がない部屋で、自分たちの作品を燃やして暖を取るマークとロジャー。クリスマス・イブにロジャーが一人部屋に残っていると、同じアパートの下の階に住むミミが訪ねてきてロウソクの火を求める。
《ラ・ボエーム》第1幕〜「よくなりましたか?」鍵を探すシーン
『レント』第1幕〜「ライト・マイ・キャンドル」
ドラァグクイーンのエンジェルが初めてマークとロジャーの部屋を訪れた時に歌い踊る「Today 4 U」で説明するのは、《ラ・ボエーム》に出てくるオウムが死ぬまで演奏する依頼ではなく、秋田犬エヴィータが窓から飛び出すまでドラムを叩く仕事なのである。
《ラ・ボエーム》第1幕〜「クビだ! 作者殿」ショナールのオウム退治自慢のシーン
『レント』第1幕〜「Today 4 U」
『レント』ではトム・コリンズとエンジェルは恋仲。《ラ・ボエーム》で、コリーネはいつも哲学書をたくさん詰め込んでいる大切な外套(コート)をミミの薬を買うために手放すが、トム・コリンズがエンジェルの思い出として握りしめるのも彼女がプレゼントしてくれたコートなのだ。
《ラ・ボエーム》第4幕〜コリーネのアリア「さらば古い外套よ」
『レント』第2幕〜エンジェルの葬儀でコリンズがコートを抱きしめて歌う「アイル・カヴァー・ユー(リプライズ)」
センス抜群! ストーリーの重要な場面で流れるプッチーニのメロディ引用
さて、《ミス・サイゴン》にはプッチーニの《蝶々夫人》の音楽は出てこないが、『レント』には《ラ・ボエーム》の音楽が使われている。それがオペラの第2幕、ムゼッタの登場の場で彼女が歌う有名な「ムゼッタのワルツ」だ。
《ラ・ボエーム》第2幕〜「ムゼッタのワルツ」
「私が街を行くと、みんなが立ち止まって私を見つめるの」という歌詞は、『レント』では別の場面でモーリーンの台詞の中にも出てくるし、このワルツの印象的なメロディは3回出てくる。
開幕直後、死ぬ前に一曲だけでも名曲を書きたいと悩むロジャーが、途中までエレキギターを弾くと停電で中断。
次はモーリーンのパフォーマンスの後で皆が集まったカフェで、ロジャーがギターでワン・フレーズ弾くと、マークがすかさずそこで「それムゼッタのワルツじゃないよね!(=That doesn’t remind us of “Musetta’s Waltz” )」と皮肉なツッコミを入れて中断。
そして物語の最後、瀕死のミミが屋根裏部屋にたどり着き、ロジャーが彼女に捧げる歌を歌い、ミミがついにこと切れたかと思われる瞬間に、再びムゼッタのワルツのメロディが、今度は最後まで流れるのだ。
『レント』第2幕〜「ユア・アイズ」
普遍的な物語をオペラでもミュージカルでも楽しもう
ラーソンの『レント』の素晴らしいところは、プッチーニ《ラ・ボエーム》とは結末が違うところである。そしてムゼッタのワルツの引用の仕方にもラーソンの音楽へのセンスの良さが示されているが、すでに初演から26年もたった今日、《レント》の音楽がちっとも古びて聴こえないのはラーソンが書いた詩と音楽が持つ普遍性のおかげだ。
『レント』を愛する人は《ラ・ボエーム》を見なければ人生の損だし、《ラ・ボエーム》を愛する人は『レント』を見なければやはり同じくらい損! である。
プッチーニもラーソンも、自分の青春の喜びと苦しみを作品に反映させた。社会派と呼ばれるミュージカルのジャンルは、ラーソンをいち早く認めて彼のキャリアを助けたソンドハイムが作詞者として関わった《ウエスト・サイド・ストーリー》から『レント』に引き継がれ、今はまた、ラーソンを敬愛するリン=マニュエル・ミランダの《イン・ザ・ハイツ》に受け継がれていると言えるかもしれない。
垣根を取り払って、オペラもミュージカルも体験してみることが、きっと明日への糧になる。
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