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2022.10.21
特集「昭和レトロ×音楽」~対談 林田直樹×山崎浩太郎 

音楽の昭和レトロって何だろう?~クラシックがもっとも熱かった時代を探る! 後編

「昭和レトロ」を音楽面から探求する対談の後編では、“ヒーロー”、もしくは“スター”の存在から見ていこう。

お話を伺った人
林田直樹
お話を伺った人
林田直樹 音楽之友社社外メディアコーディネーター/音楽ジャーナリスト・評論家

1963年埼玉県生まれ。慶應義塾大学文学部を卒業、音楽之友社で楽譜・書籍・月刊誌「音楽の友」「レコード芸術」の編集を経て独立。オペラ、バレエから現代音楽やクロスオーバ...

山崎浩太郎
山崎浩太郎 音楽ジャーナリスト

1963年東京生まれ。演奏家の活動とその録音を生涯や社会状況とあわせてとらえ、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。『音楽の友』『レコード芸術』『モーストリーク...

ききて・まとめ
長井進之介
ききて・まとめ
長井進之介 ピアニスト/音楽ライター

国立音楽大学演奏学科鍵盤楽器専修(ピアノ)卒業、同大学大学院修士課程器楽専攻(伴奏)修了を経て、同大学院博士後期課程音楽学領域単位取得。在学中、カールスルーエ音楽大学...

写真:各務あゆみ

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音楽界のスター、そしてゲテモノ

山崎 昭和の音楽界には、圧倒的な存在の典型として“帝王”カラヤンがいましたね。彼の場合、たくさんのアンチもいましたが、これは野球でいうと巨人に常に「アンチ巨人」がいるような状態でしたね。今では絶対的な存在であるグレン・グールドが当時はゲテモノ的な扱いだったのも特徴的でした。

林田 彼がシベリウスのピアノ曲集、そしてグリーグとビゼーをカップリングしたピアノ曲集のLPを出したときは、「何それ」とザワつきましたね。とにかく変わり者というイメージが強くて、権威からは大きく外れた存在。人気もそれほどなかった。

今年生誕90周年、没後40年ということで話題を呼んでいるグールド。今では伝説的な存在としてバッハ演奏といえばまず彼の名前が挙がってくるほどだというのに、大きく見方が違ったというのは驚きである。

グレン・グールドが50年の生涯の末期に再挑戦した《ゴルトベルク変奏曲》のLPを見ながら

山崎 グールドの《ゴルトベルク変奏曲》はまあ名盤として認められているんだけれど、他のバッハ作品やモーツァルト、ベートーヴェンのおすすめを尋ねられると、グールドはまず薦められない存在でしたね。

林田 当時はグールドというピアニスト自体が、名曲のファーストチョイスにはなりえなかった。《平均律》だったらリヒテルですし、ベートーヴェンを聴くならバックハウスケンプでした。

ここでスターの話に戻りますが、カラヤンのほかにはバーンスタインベームが挙がってきますね。彼らの存在感の大きさは、現代のスターとはまったく違うものだったと思います。あの頃は相撲でいえば横綱が何人もいる状態。もちろん現代の大物だって実力は決して彼らに引けは取らないのですが、やはり横綱じゃなくて大関という気がします。

山崎 LPの帯やジャケットの裏面に書かれていた強烈なコピーの影響も大きかったかもしれません。

林田 そう、あの頃は評論家の発言力というのも大きかった。志鳥栄八郎黒田恭一三浦淳史出谷啓……強烈な人たちがガイド役をしていました。

開いて眺めることができるLPは、まさにアルバムと呼ぶのにふさわしい

一つひとつが“大事件”だった来日公演

林田 昭和を振り返るにあたってはもう一つ重要なことがありますね。一つひとつの来日公演が大事件じゃありませんでしたか? 

いちばん記憶に残っているのは1977年のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演。カール・ベームがベートーヴェンの交響曲第5番と第6番を指揮したのですが、テンポが遅くて曲がなかなか前に進まなかった。今振り返ってみるととてもいい演奏だったと思うのですが、当時は「遅すぎる」と物議を醸したものです。

山崎 私は1980年の人見記念講堂のこけら落とし公演での、第2、第7番が印象に残っています。NHKが生中継していたこともあって、全国的に注目を集めていました。

林田 そうでした。固唾をのんでベームが指揮台に上がるのを見守っていました。コンサートの疑似体験のような感じで……。

当時はとにかく来日公演に熱中した時代でもあったと思います。 私も学生時代、いろいろな大物の来日公演のチケットが発売されるたびに、朝から必死に列に並んでチケットを買ったものです。 

 

1975年のウィーン・フィル来日公演で、カール・ベームが12年ぶりに来日。切符を買うための往復ハガキの抽選に16万6千通もの応募があり、競争率はなんと8倍だった(月刊誌「音楽の友」1975年5月号より)

林田 物議をかもした1983年のホロヴィッツ初来日もそうですが、これくらいの時期から国際コンクールでアイドル視されるピアニストも出てきましたね。75年にクリスチャン・ツィメルマン、80年にイーヴォ・ポゴレリチ、そして85年にはスタニスラフ・ブーニン

山崎 ブーニンの存在は、一種の社会現象を巻き起こしました。そういえば、当時の公演キャンセルの多さも今とは比べ物になりませんね。アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリカルロス・クライバーなんてキャンセルは当たり前で、コンサートをやってくれたら儲けもの、というレベル。今では考えられませんが、あの時代は契約履行しないことに神秘性があって、なんだかよかったんですよね(笑)。だからこそ余計に「凄いんだ」と思ってしまうというか……。

ウラディミール・ホロヴィッツが1983年に初来日し、東京のNHKホールで2回のみのコンサートを行なった。当時ホロヴィッツは79歳で、“幻の人”の演奏には賛否両論が沸き起こった。5万円の入場券を求めて徹夜で並ぶ人々、すぐ翌日にテレビ放映された視聴率は14%越えという世紀の公演。舞台につめかける観客が、クラシックに熱狂した時代を物語る(「音楽の友」1983年8月号より)
1985年に開催された第11回ショパン国際ピアノ・コンクールには32か国から124名が参加、第1位に輝いたスタニスラフ・ブーニン(写真右上)は、リヒテルやギレリスの師として名高いゲンリヒ・ネイガウスを祖父にもつことでも話題を呼び、その風格や力量が日本でも一大フィーバーを巻き起こした(「音楽の友」1985年12月号より)

林田 アーティストが崇拝する対象だった、ということもあるかもしれません。クラシックはエンターテインメントじゃなくて教養であり権威でしたから。

社会全体で見ても、冷戦やベルリンの壁など、巨大な存在や対立など、大きな物語のようなものがありました。平成に入り、そういうものがなくなって、だんだん自由な時代になりましたが、方向も見失っていった気もします。 J-POPの売り方でクラシックを売るような動きがでてきたのもその頃からです。

山崎 よくわからなくても、とにかく教養に対して敬意を払うようなところがありました。ホロヴィッツの演奏がテレビで流れればとりあえず見る、というような。堅苦しくていやなところもあったけれど、それがいい部分もたくさんありましたね。

昭和の時代、クラシック音楽はエンターテインメントじゃなくて教養でしたから、それに対して敬意を払うようなところがありました(山崎)

心静かに音楽と向き合う名曲喫茶の存在

音楽を心豊かに味わう、昭和を代表するスポットに「名曲喫茶」も挙げられる。

林田 昭和は、都心はもちろんですが、地方都市にも名曲喫茶が点在していましたね。クラシック好きな人は自然とそこに集まってくる。曲のリクエストができたし、オシャレな雰囲気もありましたから。独特の雰囲気があって、みんなで聴いている感じがありました。疑似コンサート体験とでもいうような……。

山崎 群衆の中の一人で、とても集中しやすい環境でしたよね。

林田 常にクラシックが鳴っていて、気位の高そうなマスターがいて、高いヒールでカツンカツンと床を鳴らし、タイトなスカートをはいたウェイトレスが水を置く……という空間にドキドキしたりもしました。“お高い”感じがよかったんですよ。

山崎 数こそ減ってしまいましたが、いまも愛されている名曲喫茶はありますね。教養ある文化を味わうことができ、街の文化的な風景を作り出していると思います。

林田 そういう場に集まる人々が醸し出す空間の雰囲気の良さというのもありますね。

渋谷区道玄坂で今も営業を続ける「名曲喫茶ライオン」の店内(撮影/国井美奈子)

昭和から平成へ―変わっていったクラシックの在り方

昭和から平成へと移行していくと、演奏会のホールにも大きな変化が見られた。

林田 ざっくり言えば、昭和を象徴するホールは東京文化会館、平成の象徴はサントリーホールだったと思います。 東京文化会館は“クラシックの殿堂”で、入れていただく場所、という雰囲気があって、 チケットもぎりの人もぶっきらぼうでした。

サントリーホールができてから、コンサートホールは豊かな時間を過ごす、贅沢な場へと変わりました。教養から豊かさへの移行は、昭和から平成に代わって表れた大きな変化でしょう。

いま、昭和レトロが注目されているのは、そこにおもしろさや学ぶべきものがあると感じられているからではないでしょうか。

若い方たちが何を面白いと思ったり、感じるところがあるのかを、ぜひ知りたいですね。あの時代を体験していた我々は、「あの頃はよかったよね」だけじゃなくて、今に活かせるヒントを探すべきだと思うんです。

山崎 インターネットのおかげでいろいろなものがすぐに手に入ることもあって、情報に対する渇望感やエネルギーというものが薄まっているかもしれません。だから「有料にすればいい」という問題でもなくて。ただ、集中して何かに向かう時間を大切にすることは、大きな果実を与えてくれるのではないかと思います。

確かに「不便」なことや、目的に向かうために数々のステップを踏んだり集中して取り組むことにはエネルギーを要するが、たどり着いたときの喜びは大きい。

例えば、コンサートは約2時間という時間を音楽を聴くことだけに集中し、名曲喫茶は他の人々の存在を感じながら、自分一人で音にだけ向き合う時間を与えてくれる。時間に追われる現代人にとっては、様々なものから解放される貴重な時間ではないだろうか。

一つの目的だけに向かう時間を作ることは、心豊かな時間を与えてくれるはずだ。「昭和レトロ」は、いまを生きる上での大切なヒントを与えてくれるものなのかもしれない。

林田&山崎の 昭和語録

*登場順

〈音楽家〉
★ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~1989)

オーストリアの指揮者。1956年ベルリン・フィルの終身指揮者に就任、57~64年ウィーン国立歌劇場の音楽監督。再生メディアにも関心をもち、映像を含む収録活動につねに積極的だった。

★グレン・グールド(1932~1982)

カナダのピアニスト。トロント音楽院で学び12歳で卒業、14歳でデビュー。1955年以降アメリカ各地にも活動を広げる。1964年に一切のコンサート活動を中止し、以降レコード録音のみの活動を続けた。ピアノによるバッハ演奏に独自の世界をつくり上げた。

★スヴャトスラフ・リヒテル(1915~1997)

ロシアのピアニスト。ピアノはほぼ独学で学び、1934年にデビューした後モスクワ音楽院でG.ネイガウスに師事。50年代にはじめてヨーロッパに登場し、各地でセンセーションを巻き起こした。20世紀を代表する巨匠のひとり。

★ヴィルヘルム・バックハウス(1884~1969)

ドイツのピアニスト。16歳のときロンドンで大成功をおさめ、若い頃はその強靭で雄大な演奏から「鍵盤の獅子王」と称された。ドイツ古典派、ロマン派音楽の大家として知られた。

★レナード・バーンスタイン(1918~1990)

アメリカの作曲家、指揮者、ピアニスト。57年の《ウエスト・サイド・ストーリー》の大ヒットと翌年のニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督就任により、生粋のアメリカ人音楽家としての名声を不動のものにした。ニューヨーク・フィルを辞任後は作曲活動と客演指揮活動に専心し、ヨーロッパの名オーケストラを指揮して数々の名録音を残す。最晩年は「パシフィック・ミュージック・フェスティバル札幌」の主唱者として、若手音楽家の育成に尽力した。

★カール・ベーム(1894~1981)

オーストリアの指揮者。ウィーンで学び、1917年に指揮デビュー。ドレスデンとウィーンの国立歌劇場の音楽総監督をつとめ、とくにウィーン・フィルと密接な関係を続けて、67年にその名誉指揮者となっている。

ウラディミール・ホロヴィッツ(1903~1989)

ウクライナ生まれのアメリカのピアニスト。生地で学び1922年にデビュー、ロシアで活躍した後25年からヨーロッパで活躍、40年にアメリカに移る。健康上の理由でしばしば演奏活動を中止したが、そのつど奇跡的に復帰した。鋭敏な感覚と磨き抜かれた技巧をもち、ロマン派やロシア音楽を得意とした。

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(1920~1995)

イタリアのピアニスト。ヴェルディ音楽院で学び、1939年ジュネーヴ国際コンクールで優勝。コルトーに称賛された。50年代は病気のためほとんど演奏活動を中止。復帰後もしばしば演奏会がキャンセルされた。ピアノの響きを究めた天才的奏者で、徹底した完全主義者としても知られる。

カルロス・クライバー(1930~2004)

ドイツ生まれのオーストリアの指揮者。名指揮者エーリヒ・クライバーの息子。デュッセルドルフ、チューリヒ、シュトゥットガルトの歌劇場で活躍、68年にはバイエルン国立歌劇場とも契約、歴史的名演を聴かせる。79年にはウィーン・フィルの指揮台にも立つ。特定の歌劇場やオーケストラに属さず,稀にタクトをとる公演は常にセンセーショナルな話題を呼んだ。

 

〈評論家〉
志鳥栄八郎(1926~2001)

昭和・平成期の音楽評論家。「レコード芸術」誌の新譜月評、「朝日新聞」の〈視聴室〉を担当するなど難病と闘いながら第一線で活躍。平成4年に私財を投じてクラシック音楽興隆会を設立し、理事長に就任。アマチュアオーケストラや合唱団を支援し、志鳥音楽賞を設けた。著書多数。

黒田恭一(1938~2009)

音楽評論家。早稲田大学在学中に雑誌・新聞への執筆をはじめ、以後、音楽専門誌のみならず一般誌・紙での連載を多数担当。またNHKでの「20世紀の名演奏」「ベスト・オブ・クラシック」をはじめ、FM、ラジオ、テレビ等で音楽番組解説者としても活躍、Bunkamuraオーチャードホールのプロデューサーをつとめるなど、その活動は多岐にわたった。

三浦淳史(1913~1997)

音楽評論家。ディーリアス、エルガー、ヴォーン・ウィリアムスなど英国近代の作曲家を紹介したことで知られ、英国音楽に関する文章で今なお熱心なファンを持つ。

お話を伺った人
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林田直樹 音楽之友社社外メディアコーディネーター/音楽ジャーナリスト・評論家

1963年埼玉県生まれ。慶應義塾大学文学部を卒業、音楽之友社で楽譜・書籍・月刊誌「音楽の友」「レコード芸術」の編集を経て独立。オペラ、バレエから現代音楽やクロスオーバ...

山崎浩太郎
山崎浩太郎 音楽ジャーナリスト

1963年東京生まれ。演奏家の活動とその録音を生涯や社会状況とあわせてとらえ、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。『音楽の友』『レコード芸術』『モーストリーク...

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長井進之介
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長井進之介 ピアニスト/音楽ライター

国立音楽大学演奏学科鍵盤楽器専修(ピアノ)卒業、同大学大学院修士課程器楽専攻(伴奏)修了を経て、同大学院博士後期課程音楽学領域単位取得。在学中、カールスルーエ音楽大学...

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