
交響詩とは何か? マーラーとリヒャルト・シュトラウスから見る交響曲への潮流

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、オーケストラ音楽の潮流は大きな転換期を迎えます。リストが生み出した「交響詩」は、その自由な表現で多くの作曲家に影響を与えながらも、やがて「交響曲」という伝統的ジャンルへと移行していきました。なぜ交響詩は姿を消し、交響曲が再び主流となったのでしょうか? グスタフ・マーラーとリヒャルト・シュトラウスという2人の巨匠の歩みを軸に、交響詩から交響曲への歴史的な転換の意味を読み解きます。

青山学院大学教授。日本リヒャルト・シュトラウス協会常務理事・事務局長。iPhone、iPad、MacBookについては、新機種が出るたびに買い換えないと手の震えが止ま...
この記事では、19世紀後半に全盛を極めた管弦楽曲のジャンルのひとつ、交響詩が、20世紀に入るにしたがって、18世紀以来の歴史あるジャンル、交響曲へと吸収されていったのはどうしてなのか、その過程を追いかけてみたいとおもう。
そもそも交響詩ってなに? リストが始めた“音の詩”
まずは辞書的な定義において、交響詩 Symphonische Dichtungを振り返ってみよう。19世紀後半から20世紀初頭にかけて多用されたオーケストラのための標題音楽。楽章数は大抵ひとつ。交響詩(音による詩、Tondichtung、という表現もドイツ語圏では多く用いられた)という言葉をはじめて用いたのはフランツ・リストだが、その曲は実際の物語を順番に追いかけるというよりは、詩の雰囲気を音楽によって喚起するものだったことには注意が必要だろう(このことはシュトラウスがのちに忠実に引き継ぐことになる)。
このリストの新機軸は、おもに東欧の作曲家たちが好んでこの形式を使うことによって引き継がれた。チェコではベドジフ・スメタナの《わが祖国》、アントニン・ドヴォルザークの《野ばと》、ロシアではリムスキー=コルサコフの《シェエラザード》、北欧ではシベリウスの《フィンランディア》などが代表例と言えるだろう。
よき仲間、よきライバルであったマーラーとリヒャルト・シュトラウス
1890年代になって、リヒャルト・シュトラウスが極めて複雑かつ洗練された管弦楽法を駆使して、《ドン・ファン》など多くの作品を生み出したが、交響詩は徐々に作曲されなくなり、交響曲そのものに取って代わられるようになる。
リヒャルト・シュトラウス《ドン・ファン》
その流れを生み出したのは、他ならぬシュトラウス、そしてグスタフ・マーラーであったと考えられる。グスタフ・マーラーの生年は1860年、リヒャルト・シュトラウスの生年は1864年。マーラーが4歳年長ではあったが、もっともよきライバルとして、そして19世紀末から20世紀初頭のドイツ音楽界を率いる同志として、両者は互いの才能と活動を認め合う仲であり、その人生の歩みも各所で交わり、軌を一にしている(年表参照)。
マーラーとシュトラウスの1900年前後の動き
| 1897年10月 | マーラー | ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督 |
| 1898年8〜12月 | シュトラウス | 《英雄の生涯》を作曲 |
| 1898年11月 | シュトラウス | ベルリン宮廷歌劇場の第1カペルマイスター |
| 1899年3月3日 | シュトラウス | 《英雄の生涯》フランクフルトにて初演 |
| 1901年夏 | マーラー | 「交響曲第5番」作曲 |
| 1902年1月29日 | マーラー | シュトラウスの歌劇《灯の消えた街》を指揮 |
| 1902年夏 | マーラー | 「交響曲第5番」作曲・完成 |
| 1903年夏 | マーラー | 「交響曲第6番」第1〜3楽章作曲 |
| 1903年12月 | シュトラウス | 《家庭交響曲》完成 |
| 1904年3月21日 | シュトラウス | 《家庭交響曲》、ニューヨークにて初演 |
| 1904年夏 | マーラー | 「交響曲第6番」第4楽章、「交響曲第7番」第2、4楽章作曲 |
| 1904年11月23日 | マーラー | シュトラウス《家庭交響曲》を指揮 |
| 1905年夏 | マーラー | 「交響曲第7番」第1、3、5楽章作曲、完成 |
| 1905年秋 | マーラー | シュトラウス《サロメ》をウィーンで初演しようとするも果たせず |
| 1905年12月9日 | シュトラウス | 《サロメ》ドレスデンにて初演 |
このあたりの両者のやりとりは、数は少ないながらも往復書簡として遺されているので、お互いがお互いを良き友にしてライバルと見なしていたことが窺える。ただ、そのやりとりは主にお互いの作品を指揮者として演奏・上演する際の近況報告が多く、以下に論じるような創作上の影響関係を窺い知ることは難しい。というよりは、おそらくそのような話題は手紙では意識的に避けていたのではないか、とすら思えるのである。
指揮者・作曲家としてキャリアを着々と積み重ねてきた同年代の両者が、キャリアの頂点に立ったのも同じような時期であったのは偶然ではない。指揮者として、マーラーはウィーンの、シュトラウスはベルリンの、それぞれトップの地位に君臨した。20世紀初頭に、ドイツ語圏における二大文化都市の最高の地位を、このふたりが占めていたことになる。
夏に作るマーラー、年中無休のシュトラウスが共同戦線を張る
ただ、作曲家としての名声と人気は、おそらくシュトラウスのほうが先行していたと思われる。それはひとえに、夏の休暇の時期しかまとまった作曲の時間が取れないマーラーとは異なり、シュトラウスのほうが作曲家としては通年で生産的であったということによる。シュトラウスは1880年代までに歌曲や室内楽曲で注目を浴び、80年代末から1890年代にかけては《ドン・ファン》から《英雄の生涯》まで、「交響詩」「音詩」と題される作品をすべて書き終え、作曲家としても大きな評価を獲得していた。ベルリンでのカペルマイスター職に就任したのち、さまざまな仕事に忙殺されたシュトラウスの創作ペースは徐々に鈍り、管弦楽曲の作曲は1904年の《家庭交響曲》まで数年の間が空く。
マーラーとシュトラウスは、互いの作品の演奏機会を増やすべく、一種の共同戦線を張っていた。指揮者としての名声を得ていたマーラーは、1902年1月にシュトラウスの2作目となるオペラ《灯の消えた街》をみずから手がけ、紹介の労を執った。一方、一般ドイツ音楽協会の総裁職を務めていたシュトラウスは、1902年6月、ドイツ西部クレーフェルト(デュッセルドルフ近郊)で開催された同協会主催の音楽祭をマーラーの新しい「交響曲第3番」を披露するための機会とした(指揮はマーラー自身)。この時の演奏会は大成功を収めたと言われ、その後、熱狂的なマーラー・ファンを生み出すひとつのきっかけとなった。
マーラー:交響曲第3番
マーラーにとっての交響曲作曲の意義とは?
初期のマーラーの「交響曲第1番」「第2番」は、作られた交響詩から数度の改訂を経て交響曲へと仕立て直される過程を経る。その世界観は深く歌曲(とりわけ《子どもの不思議な角笛》)と結びつき、「第2番」から「第4番」までの交響曲は、各ジャンルの混淆様式、すなわち一種の「ハイブリッド」作品となった。だが、ウィーンでの生活に至って、マーラーは純粋な、声楽を含まない「交響曲」の作曲へと徐々にシフトしていく。
マーラー《子どもの不思議な角笛》
「第5番」「第6番」は、まさにシュトラウスの(管弦楽作品の)作曲の筆が鈍っていた1901〜04年にかけて作曲されている。まるで交響詩はもう時代遅れ、これからは交響曲が復権する時代、と言わんばかりに。マーラーにとって、「第1番」から「第3番」の改訂の歴史は、換言するならば、交響詩として付された表題をすべて取り外し、交響曲としての体裁をより確固たるものにするための努力とも見なせよう。来たる時代に自分の作品を遺すには、時代の徒花となった交響詩ではなく、これから生き残っていくであろう交響曲に変えるに如くはなし、と。
マーラー:交響曲第5番、第6番
マーラーの創作活動がリヒャルト・シュトラウスに影響した?
ここからは、ひとりの研究者の想像である。こうしたマーラーの創作活動によって、1900年代以降のシュトラウスは「交響曲」の創作に再び目を向けた、とも言えないだろうか。若いときに習作として2作の交響曲を書いて以来、自身が交響詩というジャンルを牽引してきたという自負もあったはずのシュトラウスは、ライバルが立て続けに純粋な交響曲を書いたのを横目で眺めつつ、自身もマーラーのように、交響詩と交響曲の「ハイブリッド」作品で時代に追いつきたい、と考えた。そのようにして生まれたのが《家庭交響曲》であった、と。
マーラー《家庭交響曲》
筆者の想像はさらに飛躍する。この《家庭交響曲》を、マーラーは1904年11月に指揮している。シュトラウスの自画像癖については、おおっぴらには称賛こそしないものの、その意図は十分理解していたであろう。
「第5番」「第6番」ともに、結婚したばかりのアルマ・マーラーに対する想いがあちこちに詰まっているとはよく説かれるところ。同様に、シュトラウスが妻パウリーネについて明るい筆致で描き出した《家庭交響曲》を研究したマーラーは、そのエッセンスを多少なりとも作曲中の「第7番」に活かしたのではなかろうか、と。《家庭交響曲》と「第7番」を並べて聴いたとき、夜から朝へと向かう音楽のありように同じ精神を感じてしまうのは、筆者だけだろうか。
マーラー:交響曲第7番
オーケストラ作品から離れていくリヒャルト・シュトラウスとその後の「もしも」
1907年秋、ウィーンでの陰謀に敗れたマーラーは同地を去り、シュトラウスとの交流も一旦は途絶えてしまう。1905年に初演された《サロメ》の成功に力を得たシュトラウスは、オーケストラ作品から離れ、ホフマンスタールという強力な台本作家を得たこともあって、《エレクトラ》に続くオペラの作曲に邁進。結果的に交響詩からは離れていく。
この後、シュトラウスが手がけた純粋な管弦楽曲はたった1曲だが、やはり交響曲と交響詩のハイブリッドであるような作品には《アルプス交響曲》という名前が冠された。20世紀において交響曲は不死鳥の如く蘇り、交響詩は徐々にその本流からはずれる存在となった。
リヒャルト・シュトラウス《アルプス交響曲》
シュトラウスの最大のヒット作となった《ばらの騎士》が初演された1911年、マーラーはこの世を去った。シュトラウスはこのあともなお40年近くも生き、第一次世界大戦後は、かつてマーラーがつとめたウィーン「国立」(ハプスブルク家の「宮廷」は消え失せた)歌劇場の監督職も経験することになる。歴史にIFを持ち込むのは詮無いことだが、それでもマーラーがシュトラウスと同じくらいの長命を保っていたとしたら、その後の音楽史はどのような過程をたどっただろうか。
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