チャイコフスキーの生涯と主要作品
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの生涯と主要作品を音楽学者・森田稔が解説!
文―森田 稔(音楽学者)
チャイコフスキーの生涯
1. 幼年時代から法律学校へ進むまで
ロシアの作曲家。カムスコ=ヴォトキンスク鉱山区の長官の家に生まれた。7人兄弟の3番目で,次男。両親は音楽の愛好家ではあったが,特に音楽的な家庭ではなかった。4~8歳までフランス人家庭教師ファニー・デュルバッハに教わり,フランス語とドイツ語に熟達した。1892年の終わりにチャイコフスキーはフランスに住む彼女を訪れ,深い感銘を受けているが,彼女の残した手紙や子供たちの記録は,チャイコフスキーの幼年時代を知る上で貴重な資料となっている。それによると彼は音楽に対して異常ともいえる感受性を示していたという。48年一家はモスクワを経てサンクトペテルブルクに移り,チャイコフスキーは兄と共に寄宿学校へ入れられた。翌49年には父親がアラパエフスクに新たな職を得て,チャイコフスキーもそこへ移る。しかし50年には再びサンクトペテルブルクへ来て,法律学校の予備クラスに入った。52年に一家もサンクトペテルブルクに帰ってきて,彼は本科に進む。
2. 音楽への志望を断ち切れずサンクトペテルブルク音楽院へ
1854年6月に母がコレラで死に,チャイコフスキーは深い衝撃を受け,この頃から音楽に専念するようになった。これまでにも断続的にピアノのレッスンを受けたことはあったが,55年早々にルードルフ・キュンディンゲルにピアノを習い始める。この教師はドイツから来た新進の本格的なピアニスト・作曲家で,のちにサンクトペテルブルク音楽院教授になった。声楽や音楽理論も習い,59年に法律学校を卒業する頃には,職業的な音楽家への道を選ぶべきかどうか迷うほどになった。卒業と同時に九等文官として法務省に採用されたが,音楽への志望は断ち切れず,61年ロシア音楽協会の開設した音楽教室に入ってニコライ・ザレンバに音楽理論を学び始め,それが62年にサンクトペテルブルク音楽院に改組されると,そのままその学生になる。
3. モスクワ音楽院の教師に
1863年には法務省を辞め,音楽の勉強に専念し,音楽院院長A.G.ルビンシテインの作曲クラスで徹底的に腕を磨く。64年の夏休みの宿題として作曲した序曲《嵐 Groza》は今でも演奏されることがあるし,65年末に卒業作品として提出したカンタータ《歓喜に寄す K radosti》も充実した曲であった。これらの作品は保守的な教師たちにはあまり評価されなかったが,作曲技術は認められ,最高の栄誉である銀メダルを与えられた。卒業と同時に開設準備中のモスクワ音楽院の教師に招かれ,66年首都サンクトペテルブルクに未練を残しながらモスクワへ移る。モスクワでは音楽院院長のN.ルビンシテインをはじめ多くの優れた同僚を得ると同時に,劇作家アレクサンドル・オストロフスキー,出版者ピョートル・ユルゲンソンなど重要な知遇を得た。同地では慣れない教職の仕事に悩まされながらも,意欲的に作曲活動を行った。最初の年の6月に早くも交響曲第1番の下書きを完成し,夏にはサンクトペテルブルクの旧師に見せることができた。先生たちの批判をいれて改訂し,12月には部分的に初演されて好評を得た。この曲には民謡的要素が広く利用されている。引き続き作曲したオストロフスキーの原作によるオペラ《地方長官 Voyevoda》もまた民謡的素材を多く採り入れたものであった。このオペラは69年の初めにモスクワで初演され,その時は好評であったが,長続きはせず,のちに作曲家自身がスコアを破棄した。
4. 幻想序曲《ロメオとジュリエット〉、ピアノ協奏曲第1番などの傑作群
既に1868年初頭にモスクワで「力強い一団」の指導者バラキレフと面談する機会を持ったが,それ以後チャイコフスキーは五人組の作曲家たちとも交遊を始める。69年夏バラキレフの提案で幻想序曲《ロメオとジュリエット Romeo i Dzhul’etta》に着手し,彼の批判をいれて幾度か書き直した後,同年秋に完成した。この曲はさらに2度ほど改訂されるが,彼の最初の傑作になった。この頃《50のロシア民謡》のピアノ編曲も行っており,スターソフが彼を6人目の「力強い一団」の作曲家と呼ぶほどであった。実際71年の〈アンダンテ・カンタービレ〉を含む弦楽四重奏曲第1番,72年の交響曲第2番《小ロシア》,73年のスターソフの提案による交響幻想曲《テンペスト Burya》やオストロフスキーの劇への付随音楽《雪娘 Snegurochka》,そして74年の民話的なオペラ《鍛冶屋のヴァクーラ Kuznets Vakula》と,民族的な要素を採り入れた国民主義的な作品を書く。しかしこの後76年までの2年間には,ピアノ協奏曲第1番(1974-75),バレエ音楽《白鳥の湖 Lebedinoe ozero》(1875-76),交響幻想曲《フランチェスカ・ダ・リミニ Francesca da Rimini》,チェロと管弦楽のための《ロココ風の主題による変奏曲》(いずれも1876)といった,国民主義的というよりは,むしろ古典的な形式の探求や主観的な感情の表出を主とする作品が目立ち,彼の独自な語法が初めて確立されたことを示す作品群が続いた。
5. 富裕な未亡人メックからの年金が作曲生活の支えに
1876年の末に富裕な未亡人メックと知り合う機会に恵まれ,翌年から14年間,年額6000ルーブルの年金を保障されることになった。このことはチャイコフスキーの経済的自立の支えとなり,その後の作曲生活に重大な影響を与える。彼は77年には不幸な結婚で深い精神的痛手を負うが,この年金のおかげで,外国へ逃れて作曲を続けることができた。このように身辺多忙な同年に,彼の最大傑作であるオペラ《エヴゲニー・オネーギン Yevgeny Onegin》と交響曲第4番という2つの大作が作曲されたことは信じ難い事実である。翌78年にはヴァイオリン協奏曲や有名な歌曲集《6つのロマンス》op.38などがある。
6. 晩年に名作を次々と生み出したのち急死
1878年秋に音楽院を辞職して,1年の半分を外国で,あとの半分をロシアの別荘地などで過ごすという生活のパターンが決まり,着実な作曲活動が続いたが,人との接触は少なくなり孤独な芸術家の雰囲気を持つようになった。その後管弦楽曲《イタリア奇想曲 Capriccio Italien》,《弦楽セレナード》,序曲《1812年》(いずれも1880),ピアノ三重奏曲《偉大な芸術家の思い出 A la mémoire d’un grand artiste》(1881-82)などがあるが,しばし創造力の停滞に悩む。交響曲《マンフレッド Manfred》(1885)や交響曲第5番(1888)に至って,創作力の回復が明らかになり,バレエ音楽《眠れる森の美女 Spyashchaya krasavitsa》(1888-89)と《くるみ割り人形 Shchelkunchik》(1891-92),オペラ《スペードの女王 Pikovaya dama》(1890)と《ヨランタ Iolanta》(1891),そして交響曲第6番《悲愴 Pathétique》(1893)と,晩年の名作を次々と生み出した。また85年からはモスクワ近郊に自分の邸宅を持ち,社交的な場面にも顔を出すようになり,87年からは自ら指揮棒をとるようになった。この後,自作の指揮者として毎年のように欧米に登場して大成功を博したことはよく知られている。交響曲第6番をサンクトペテルブルクで自ら初演した直後の93年11月6日に急死した。死因は生水を飲んでコレラにかかったためと言われているが,同性愛者としてのスキャンダルが暴露されることを恐れて,ヒ素毒物による自殺であったとする見方もある。
7. 絶望と歓喜との間を大きく行き来する音楽
チャイコフスキーは五人組に対立する西欧派,サンクトペテルブルク楽派に対立するモスクワ楽派として,バラキレフやリムスキー=コルサコフとは相いれない作風であったかのように語られることもあるが,それは誇張であって事実ではなく,むしろ彼らとの共通点を指摘する方が容易である。ロシアで最初の音楽院第1回生として早くから職業意識に目覚めていたことは確かで,30年足らずの創作生活に比して作品の量は極めて多い。通俗性を指摘されることも多いが,革命的な1860年代から反動的な80年代と揺れ動く時代の精神を反映してか,あるいは矛盾を含んだロシア精神を反映してか,絶望と歓喜との間を大きく行き来する彼の音楽は,独特な語法に支えられて,大衆の心に深く刻み込まれた。
チャイコフスキーの主要作品
【オペラ】
《地方長官》 op.3 1867-68 ;《オプリーチニク》 1870-72 ; 《鍛冶屋のヴァクーラ》 op.14 1874[85年《チェレヴィチキ》に改作]; 《エヴゲニー・オネーギン》 op.24 1877-78 ; 《オルレアンの少女》 1878-79改訂82 ; 《マゼッパ》 1881-83 ; 《チャロデイカ(魔女)》 1885-87 ; 《スペードの女王》 op.68 1890 ; 《ヨランタ》 op.69 1891
【バレエ音楽】
《白鳥の湖》 op.20 1875-76 ; 《眠れる森の美女》 op.66 1888-89 ; 《くるみ割り人形》 op.71 1891-92
【付随音楽】
《ボリス・ゴドゥノフ》 1863-64?[噴水の場面,楽譜消失]; 《雪娘》 op.12 1873 ; 《ハムレット》 op.67a 1891
【交響曲】
No.1 g《冬の日の幻想》 op.13 第1稿1866, 第2稿74 ; No.2 c《小ロシア》 op.17 第1稿1872, 第2稿79-80 ; No.3 D《ポーランド》 op.29 1875 ; No.4 f op.36 1877-78 ; No.5 e op.64 1888 ; No.6 h《悲愴》 op.74 1893 ; No.7[未完] Es 1892 ; マンフレッド op.58(1.レント・ルグーブレ 2.アルプスの仙女 3.村の生活の情景 4.アリマンの地獄) 1885
【管弦楽曲】
組曲 : No.1 D op.43(1.序奏とフーガ 2.ディヴェルティメント 3.間奏曲 4.小行進曲 5.スケルツォ 6.ガヴォット) 1878-79, No.2 C op.53(1.音の遊び 2.ワルツ 3.ユーモラスなスケルツォ 4.子供の夢 5.ダンス・バロック――ダルゴムイシスキー風に) 1883, No.3 G op.55(1.悲歌 2.憂鬱なワルツ 3.スケルツォ 4.主題と変奏) 1884, No.4 G《モーツァルティアーナ》 op.61(1.ジーグ 2.メヌエット 3.祈り 4.主題と変奏) 1887 ; 序曲《嵐》 op.76 1864 ; 序曲 F 第1稿1865(小orch), 第2稿66(orch); デンマーク国歌による祝典序曲 op.15 1866 ; 交響詩《運命》 op.77 1868 ; 幻想序曲《ロメオとジュリエット》 第1稿1869, 第2稿70, 第3稿80 ; 交響幻想曲《テンペスト》 op.18 1873 ; スラヴ行進曲 op.31 1876 ; 交響幻想曲《フランチェスカ・ダ・リミニ》 op.32 1876 ; イタリア奇想曲 op.45 1880 ; 祝典序曲《1812年》 op.49 1880 ; 戴冠式祝典行進曲 1883 ; 幻想序曲《ハムレット》 op.67 1888
【弦楽合奏曲】
弦楽セレナード C op.48 1880
【協奏曲】
ピアノ協奏曲 : No.1 b op.23 1874-75, No.2 G op.44 1879-80, No.3 Es op.75 1893 ; 協奏的幻想曲 G op.56(p, orch) 1884 ; アンダンテと終曲 op.79(p, orch B, Es) 1891着手?[未完]; ヴァイオリン協奏曲 D op.35 1878 ; 憂鬱なセレナード h op.26(vn, orch) 1875 ; ワルツ・スケルツォ C op.34(vn, orch) 1877 ; ロココ風の主題による変奏曲 A op.33(vc, orch) 1876 ; カプリッチョ風小品 h op.62(vc, orch) 1887
【室内楽曲】
弦楽六重奏曲《フィレンツェの思い出》 D op.70 1887-90改訂91-92 ; 弦楽四重奏曲 : No.1 D op.11 1871[第2楽章〈アンダンテ・カンタービレ〉は88年vc, str用に編曲], No.2 F op.22 1873-74, No.3 es op.30 1876 ; ピアノ三重奏曲 a 《偉大な芸術家の思い出》 op.50 1881-82 ; 懐かしい土地の思い出 op.42(vn, p 1.瞑想曲 2.スケルツォ 3.メロディ) 1878
【ピアノ曲】
ピアノ・ソナタ : cis op.80 1865, G op.37 1878 ; 2つの小品 op.1 1863-67 ; ハープサルの思い出 op.2(1.城の廃墟 2.スケルツォ 3.無言歌) 1867 ; ワルツ・カプリス D op.4 1868 ; ロマンス f op.5 1868 ; ワルツ=スケルツォ A op.7 1870 ; カプリッチョ Ges op.8 1870 ; 3つの小品 op.9(1.夢 2.サロンのポルカ 3.サロンのマズルカ) 1870 ; 2つの小品 op.10(1.ノクターン 2.ユモレスク) 1871-72 ; 6つの小品 op.19(1.夕べの夢 2.ユーモラスなスケルツォ 3.アルバムの綴り 4.ノクターン 5.カプリッチョーソ 6.創作主題と変奏) 1873 ; 同一主題による6つの小品 op.21 1873 ; 四季 op.37b(1月,炉端にて 2月,謝肉祭 3月,ひばりの歌 4月,松雪草 5月,5月の夜 6月,舟歌 7月,刈り入れの歌 8月,収穫 9月,狩 10月,秋の歌 11月,トロイカ 12月,クリスマス) 1875-76 ; 子供のアルバム――24の易しい小品 op.39 1878 ; 中級程度の12の小品 op.40(1.練習曲 2.悲しい歌 3.葬送行進曲 4.マズルカ 5.マズルカ 6.無言歌 7.村で 8.ワルツ 9.ワルツ 10.ロシアの踊り 11.スケルツォ 12.途切れた夢) 1878 ; 6つの小品 op.51(1.サロンのワルツ 2.少し踊るようなポルカ 3.メヌエット・スケルツォーソ 4.ナタ=ワルツ 5.ロマンス 6.感傷的なワルツ) 1882 ; ドゥムカ――ロシアの農村風景 c op.59 1886 ; 18の小品 op.72(1.即興曲 2.子守歌 3.優しい非難 4.性格的舞曲 5.瞑想曲 6.踊りのためのマズルカ 7.演奏会用ポロネーズ 8.対話 9.少しシューマン風に 10.幻想的スケルツォ 11.火花のワルツ 12.いたずらっ子 13.田舎のこだま 14.悲しい歌 15.少しショパン風に 16. 5拍子のワルツ 17.遠い昔 18.踊りの情景――トレパークへの誘い) 1893
【カンタータ】
歓喜に寄す 1865 ; ピョートル大帝生誕200年 1872 ; モスクワ 1883
【無伴奏合唱曲】
聖ヨハネ・クリソストムスの典礼 op.41 1878 ; 夕べ 1881 ; 晩祷 op.52 1881-82 ; 聖キリルと聖メソディウム尊崇の賛歌 1885 ; 金色の雲は眠りにつき 1887 ; 夜鳴きうぐいす 1889 ; 楽しい声絶えし時 1891 ; 松林で鳴いたのはかっこうではない 1891 ; 暇もなく,時もなく 1891
【四重唱曲】
夜(S, A, T, B, p) 1893
【二重唱曲】
ロメオとジュリエット 1878?[未完,タネーエフが完成]; 6つの二重唱曲 op.46(1.夕べ 2.スコットランドのバラード 3.涙 4.浅瀬のそばの庭で 5.情熱は去り 6.夜明け) 1880
【歌曲】
6つのロマンス op.6(1.信じるな,わが友よ 2.語るな,わが友よ 3.苦く甘く 4.震える涙は 5.なぜ 6.ただ憧れを知る人だけが) 1869 ; 6つのロマンス op.16(1.子守歌 2.待って 3.ただ一度だけ 4.その歌を歌って 5.なぜそんなに 6.新しいギリシアの歌) 1872 ; 6つのロマンス op.25(1.和解 2.熱い灰の上で 3.ミニョンの歌 4.カナリア 5.私は彼女と一度も話さなかった 6.愚かな者と言われ続けて) 1875 ; 6つのロマンス op.27(1.眠りゆく時に 2.見よ,あそこに雲が 3.私から離れないで 4.夕べ 5.母が私を産んだのか 6.私のやんちゃ娘) 1875 ; 6つのロマンス op.28(1.いいえ,決して言わない 2.サンゴの飾り 3.なぜ 4.彼は私をとても愛し 5.返事も,言葉も,挨拶もなく 6.恐ろしいひととき) 1875 ; 6つのロマンス op.38(1.ドン・ファンのセレナード 2.それは早春のこと 3.騒がしい舞踊会の中で 4.おお,お前がそうできたら 5.死者の愛 6.ピンピネッラ) 1878 ; 7つのロマンス op.47 (1.もし私が知っていたら 2.魂は安らかに天の高みに昇った 3.地上に闇は垂れ込め 4.眠れ,悲しむ友よ 5.祝福あれ,森よ 6.支配するのは昼か 7.私は野辺の草ではなかったのか) 1880 ; 16の子供のための歌 op.54 1883[第16曲は1881]; 6つのロマンス op.57(1.語れ,枝の陰で起きたことを 2.黄金の畑に 3.聞かないで 4.眠れ 5.死 6.ただ君ひとり) 1884 ; 12のロマンス op.60(1.昨夜 2.私はお前に何も話すまい 3.おお,お前が知っていたら 4.夜鳴きうぐいす 5.飾らない言葉 6.狂おしい夜 7.ジプシーの歌 8.許して 9.夜 10.木陰の窓の向こうに 11.偉業 12.星は穏やかに私たちを照らし) 1886 ; 6つのロマンス op.63(1.初めはあなたを好きではなかった 2.私は窓を開け 3.私はお前の気に入らない 4.最初の出会い 5.もう部屋の明かりは消え 6.セレナード) 1887 ; 6つのメロディ[フランス語の歌詞] op.65(1.セレナード 2.失望 3.セレナード 4.冬よ来れ 5.涙 6.ロンデル) 1888 ; 6つのロマンス op.73(1.私たちは共に座り 2.夜 3.この月夜に 4.太陽は沈んだ 5.暗い日に 6.再び,前のように,ただひとり) 1893
【編曲】
50のロシア民謡(4hds) 1868-69
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