ショパン国際ピリオド楽器コンクールの思い出~本大会編
第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクールで第2位に入賞された川口成彦さんが綴る、「古楽」をめぐるエッセイ。同コンクール第2回が開催される2023年10月まで、古楽や古楽器に親しみましょう!
1989 年に岩手県盛岡市で生まれ、横浜で育つ。第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール第2位、ブルージュ国際古楽コンクール最高位。フィレンツェ五月音楽祭や「ショパン...
個性が異なるさまざまな楽器が用意された本大会
2018年9月2日から14日にかけてワルシャワのフィルハーモニアで開催された第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクールは、僕にとって20代の集大成のような時間でした。動画による予備審査を経てワルシャワで演奏できる30名に選ばれただけで夢のようだったので、1次および2次予選も通過してファイナルで憧れの18世紀オーケストラと共演できたこと、さらに第2位に入賞したことは自分でも信じられないような出来事でした。
本大会に出場した30名の大半はポーランド人でしたが、日本、中国、ルーマニア、ロシア、ウクライナ、フランスなど、さまざまな国籍の方がいました。楽器は主催者である国立ショパン研究所のコレクションのみならず、ポーランドの歴史的鍵盤楽器の修復家アンジェイ・ヴウォダルチクの楽器や、国外の重要な修復家および復元家であるポール・マクナルティ(チェコ)、クリス・マーネ(ベルギー)、エドウィン・ボインク(オランダ)の楽器も集い、それらを審査員が試弾したうえで練習室用と大会用に割り振られました。
コンクールのステージにはマクナルティ復元のグラーフ(1819年)およびブッフホルツ(1825年頃)、マーネ修復のブロードウッド(1847〜48年)、ボインク修復のプレイエル(1842年)およびエラール(1837年)が並び、ファイナルでは第3位入賞のクシシュトフ・クションジェクが練習室に振り分けられていた1849年のショパン研究所のエラールを例外的に使用しました。
グラーフは1829年のウィーンデビューで、ブロードウッドは1848年のロンドンでの演奏会でショパンが弾いたと言われています。ブッフホルツはワルシャワ時代にショパンが所有し、「ピアノ協奏曲第2番」の初演でも使い、プレイエルは1831年以降フランスでの彼の創作活動の相棒でした。エラールはプレイエル同様にパリを代表するメーカーで、ショパンも演奏する機会があったでしょう。
このようにショパンと縁の深い楽器が揃っているわけですが、1台1台の個性はまったく異なります。特にグラーフやブッフホルツのような1820年代頃までのウィーン式(跳ね上げ式ハンマーアクション)の楽器は、1840年代のプレイエルやエラール、ブロードウッドに比べても鍵盤が浅いうえに軽く、弾きこなすには極めて緻密な演奏技術が必要です。
ショパンが「ピアノ協奏曲第1番」を献呈したフリードリヒ・カルクブレンナー(1785〜1849)は、「手首を動かすことなく、指だけで演奏する」ことを促す「ギド・マン Guide-mains」と呼ばれる練習用器具を推奨しましたが、その背景に古典派からロマン派初期における楽器の鍵盤の繊細さもあったのではないかと思います。
ギド・マンは鍵盤の前に装着する横棒で、学習者はその棒の上に手首を乗せて練習します。そして1831年にカルクブレンナーは『手導器を用いてピアノを学ぶためのメソッド op. 108』を出版し、同じ頃に彼はショパンを弟子として受け入れようとしました。ショパンはそれを断ったそうですが。
ところでコンクールには古楽器の経験があまりない人も参加して、ブッフホルツに付いているモデレーターという装置(弦とハンマーの間にフェルトを挟んで音色を変換する)を、ソフトペダルのように多用している人が何人かいました。その度にアレクセイ・リュビモフやアンドレアス・シュタイアーなど古楽系の審査員が首を傾げていたことは印象的でした。しかし、コンクールをきっかけに若い演奏家が古楽器の世界に新しく足を踏み入れるということ自体が貴重なことでしたし、参加者だけでなく聴衆も含めて、数多くの人を古楽器の世界に誘った点においてもこのコンクールは大変意義深いと思いました。
楽器選びの大変さとファイナル前夜の英断
さて、コンクールの中で特に大変だったのが「楽器選び」でした。各ステージごとにどの作品をどの楽器で演奏するのか、また楽器をどのように配置するのかを事務局に提出しなければならないのですが、さまざまな可能性に、参加者一人一人がすごく悩んでいるように思いました。楽器は予選では最大3台まで使用可能で、僕は1次予選ではブッフホルツ、エラール、プレイエルを、2次予選ではブロードウッド、エラール、プレイエルを使用し、両ステージ共にプレイエルでメイン曲を演奏しました。
そして、かなり迷ったのがファイナルです。僕は「ピアノ協奏曲第2番」を選曲しましたが、2018年3月17日にワルシャワで行なわれたブッフホルツの復元楽器のお披露目会(第10回参照)を聴いてから、「コンクールでファイナルまで残ったらブッフホルツで『ピアノ協奏曲第2番』の初演再現をする」ことが古楽器奏者としての夢になっていました。ファイナルの使用楽器をブッフホルツと事務局に伝え、18世紀オーケストラ、指揮者グジェゴシュ・ノヴァークとの初合わせを本番前日にブッフホルツで終えました。しかし自分の中にもやもやが残り、さらには繊細な鍵盤に対する恐怖心が本番前夜に襲いかかったのです。
もやもやの原因は、本選会場の大ホールで音量の小さいブッフホルツとオーケストラのバランスが悪かったことです。団員の皆さんにも「音を抑制すること」が演奏の目的になるような息苦しさを感じさせてしまいました。そもそも19世紀前半頃まで、トゥッティを除いたピアノ独奏部では弦楽は各パート1人で演奏していたという説もあります。ショパンやモーツァルトは協奏曲の「室内楽版」の楽譜も残していますが、特に19世紀後半以降にピアノの音量増幅に伴ってオーケストラの規模が拡大されるまで、協奏曲は室内楽の延長線上に捉えうるものでした。例えば、フォルテピアノ奏者アルテュール・スホーンデルヴルトが自ら結成したEnsemble CristoforiとリリースしたCDでは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲を弦楽五重奏と管打楽器という編成で古楽器で演奏しています。
アルテュール・スホーンデルヴルト&Cristofori『ベートーヴェン:ピアノ協奏曲全集』
しかし、コンクールで弦楽器奏者を減らす指示を自ら出して本選に挑むほどの勇気はなかったし、本番の緊張の中、コンチェルトのような大曲でブッフホルツを堂々と操れる自信がそのときの自分にはありませんでした。舞台に上がることに対する恐怖心でいよいよ精神がおかしくなりそうになったときに、思い切って事務局に「やはりプレイエルにします!」とメールを送りました。OKと返事をいただいたときの安堵感といったらありません。おかげで本番は大舞台で音楽を奏でる喜びと共に乗り切ることができました。ブッフホルツで演奏していたらきっと悲劇が起きていただろうし、入賞は確実に逃していたでしょう。
川口成彦さんのファイナルの演奏
このコンクールは僕の20代の締めくくりとしてとても思い出深く、準備期間から表彰式、入賞者記念演奏会まですべての時間が、心の中で今でも色褪せていません。あれから5年が経ち、今年の10月5日から15日にかけて第2回が開催されます。年齢制限が幅広いのも良い特徴で2005年から1988年生まれの方まで出場できます。予備審査の動画提出を含めた申し込みの締め切りは6月1日です。
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