ヴァン・クライバーンとはどんな人物? アメリカの英雄となったコンクール創始者の人生
若いピアニストにとって重要な登竜門の一つ、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール。その冠名となっているアメリカ人ピアニスト、ヴァン・クライバーン(1934〜2013)とは一体どんな人物なのか。アメリカ、テキサス州フォートワースでスタートしたコンクールの創始者について、改めてご紹介したいと思います。
大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動...
若くして頭角を現す
ヴァン・クライバーンは、1934年7月12日、ルイジアナ州シュリーブポート生まれ。本名はハーヴィー・ラヴァン・クライバーン・ジュニアで、ヴァン・クライバーンは通り名。
彼の母は、フランツ・リストの高弟だったアルトゥール・フリートハイムの弟子で、クライバーンは3歳でピアノを始めると、17歳まではその母から教育を受けました。6歳の頃、石油産業で働く父の仕事の都合でテキサス州のキルゴアに移住。9歳でオーケストラデビューするなど、若くして頭角を現します。
そして1951年、17歳でニューヨークのジュリアード音楽院に入学し、ロジーナ・レヴィンに師事。彼女はモスクワ音楽院で学び、同門のピアニストで夫であるヨゼフ・レヴィンと1919年にアメリカに亡命、夫の没後はジュリアード音楽院で教授を務めた人物です。中村紘子が18歳で留学した際に師事し、日本で学んだ奏法を「基礎からやりなおしましょう」と言われたエピソードが知られる、名教師でもあります。
冷戦のさなかチャイコフスキー国際コンクールで優勝
レヴィンはあるとき、第1回チャイコフスキー国際コンクールの募集要領を偶然手にし、会場が学生時代を過ごしたモスクワ音楽院の大ホールだと知ります。すると懐かしい気持ちがこみ上げ、同時に、ロマンティックな演奏が好かれるロシアでは、弟子のクライバーンの演奏が評価されるのではと思い、彼に出場を勧めたのだそう。
1958年、時は共産主義と資本主義が対立する冷戦真っ只中。それが外交や経済だけでなく、宇宙開発や芸術分野の競争にまで影響をおよぼしていました。ソ連は1957年に人工衛星「スプートニク」の打ち上げで科学技術の優位を示したばかり。続いて芸術文化面でアピールをしようと立ち上げたのが、チャイコフスキー国際コンクールでした。
そのピアノ部門で、地元聴衆の人気、そして審査員の賞賛をほしいままにしたのが、23歳だったアメリカ人青年、クライバーンだったわけです。ファイナルでは演奏に熱狂したモスクワの聴衆が8分間にわたり拍手を送ったとか、審査員のリヒテルがクライバーンに満点をつけて絶賛したという話も伝えられています。
なかでも有名なのは、コンクール関係者が、アメリカ人を優勝させてよいかと当時の第一書記フルシチョフに尋ねたところ、「そいつが最高なのか? それなら優勝させろ」と言ったというエピソードです。当時の政治的な背景を考えれば、これはとても大きな出来事でした。
ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールの創設
クライバーンは一躍アメリカの英雄となり、帰国した際にはニューヨークで盛大なパレードが行なわれました。アメリカにおいてクラシックの音楽家でこのような栄誉が与えられた人物は、後にも先にもクライバーン一人だといいます。
そんな彼の類稀な才能を讃え、石油産業により富裕層の多いテキサス州フォートワースで1962年に創設されたのが、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールです。ちなみにこの第1回で優勝したのはアメリカのラルフ・ヴォタペック。続く2位にはニコライ・ペトロフ、3位にはミハイル・ヴォスクレセンスキーとソ連勢が入賞。日本からも中村紘子が参加し、着物姿で舞台に立ってファイナルまで進出しましたが、体調不良で途中棄権となっています。
波乱の演奏家人生
さて、話をクライバーンの生涯に戻しましょう。
優勝後の彼は、アイゼンハワー大統領からホワイトハウスに招かれて演奏したり、メディアから引っ張りだことなったり、とにかく人気でした。キリル・コンドラシンの指揮で録音したチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」はクラシックで世界初のミリオンセラー、1958年にはグラミー賞を受賞しています。同じ頃やはりコンドラシンと録音したラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」は、美しいタッチと爽やかなロマンティシズムが生きた名演です。
クライバーンの出演料は高騰、それでも世界中から呼ばれてツアーを行い、多くの録音をリリースしました。一方で、ハードなスケジュールでチャイコフスキーとラフマニノフのピアノ協奏曲ばかりを繰り返し弾かされるなか、批評家の手厳しい評が散見されるようになります。それも影響してか、クライバーンの演奏にも波が出るようになっていきました。
そして1978年、父とマネージャーのソル・ヒューリックが相次いで亡くなったことのショックにより、クライバーンは第一線での演奏活動からほぼ引退状態となってしまいます。まだ40代前半、これから音楽が成熟してくる時期のことでした。
1987年、レーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長のためにホワイトハウスで演奏するという機会に復帰しますが、以後の活動は、ごく限られたものとなってしまいました。フォートワースの大邸宅に暮らし、高齢の母の面倒を見つつ、時折、政府関係の行事や文化的イベントで役割を果たしていくという生活。しかしその物腰おだやかで愛情にあふれた人柄は、多くの人から愛されました。
クライバーンさんの忘れられない思い出
彼が存命中のクライバーン・コンクールでは、私ももちろんそのお姿を拝見する機会がありました。2009年に辻井伸行さんが優勝した際には、辻井さんについて「まったくの奇跡としか言いようがない。その演奏には人を癒す力がある。まさに、神業のような音楽だ」というコメントを残しています。受賞セレモニーで辻井さんを抱擁する姿からは、愛の光が放たれているようでありました。
さらに私のなかで記憶に残るのは、2011年のチャイコフスキー国際コンクールの際、クライバーンさんがゲストとして会場を訪れていた時のことです。クライバーンがそこにいるとアナウンスされたときのモスクワの聴衆のあたたかく盛大なリアクションは、感動的なものでした。半世紀もの時が経っても、彼の存在は伝説として語り継がれているのでしょう。
クライバーンさんがモスクワ音楽院大ホール裏のエレベーターで移動しようとしているところを一般の聴衆に発見されてしまった場面も、なぜかよく覚えています。次々とサインを求められて若干あたふたしながらも、長身の体を二つに折り、廊下の手すりをテーブル代わりにサインに応じる優しそうなお姿は、サインをもらった親子の満面の笑みとあわせて忘れられません。
クライバーンの功績を物語るコンクールが開幕
2012年8月、クライバーンさんは骨の癌を患っていることを公表。翌2013年の2月27日、78歳で永眠されました。その年の6月に行なわれたヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールの開幕パーティでは、参加者に配られた赤いバラに、追悼の黒いリボンが結ばれていました。
演奏家としての活動は必ずしも順風満帆ではなかったかもしれませんが、後世の音楽家のために多くのものを残したクライバーンさん。今年もまたその功績の一つであるコンクールから、優れたピアニストが世界に羽ばたいてゆくことになります。
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