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2022.09.24
ONTOMO作曲家辞典

ワーグナーの生涯と主要作品

リヒャルト・ワーグナーの生涯と主要作品を音楽学者の稲田隆之が解説!

音楽之友社
音楽之友社 出版社

昭和16年12月1日創立。東京都新宿区神楽坂で音楽の総合出版、並びに音楽ホール運営事業を行なっています。

リヒャルト・ヴァーグナー
(Wilhelm) Richard Wagner
1813・5・22 ライプツィヒ─1883・2・13 ヴェネツィア

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文―稲田隆之(音楽学者)

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ワーグナーの生涯

少年時代~作曲の師との出会い

19世紀ドイツを代表するオペラ作曲家。リヒャルト・ワーグナーは,警察署書記でアマチュア劇団の俳優だった父フリードリヒと母ヨハンナの第9子(末子)として,ライプツィヒで生まれた。父はリヒャルトの生後半年で亡くなり,母ヨハンナはその1年後に俳優ルートヴィヒ・ガイヤーと再婚する。リヒャルトは生涯,自分の父親がフリードリヒなのかガイヤーなのかについて確信が持てなかったという。このガイヤーも,リヒャルトが8歳のときに亡くなる。

9歳の時ドレスデン聖十字架学校に入学し,この頃ウェーバーの《魔弾の射手》に感激する。10代では劇作に夢中になる他,ベートーヴェンの交響曲第9番のピアノ編曲も行った。15歳でライプツィヒのニコライ教会付属学校に転入し,18歳で作曲の師クリスティアン・テーオドール・ヴァインリヒと出会う。いくつかのピアノ曲を作曲する他,19歳で交響曲ハ長調を完成させた。また同時期にオペラ《婚礼 Die Hochzeit》の台本を書くが,姉に批判されて創作を断念している。

音楽監督の歴任と最初の結婚

1833年に兄アルベルトの斡旋もあって,ヴュルツブルク歌劇場の合唱指揮者となる。当地でウェーバー,D.-F.-E.オベール,ベートーヴェンなどのオペラ公演を準備する傍ら,34年にオペラ《妖精 Die Feen》を完成させた。上演に向けて奔走したが実現しなかった。同年,マクデブルクを拠点に各地を巡回して活動するベートマン劇団の音楽監督に就任する。ここで歌手ミンナ(本名:ヴィルヘルミーネ)・プラーナーと出会い翌年結婚した。また,次のオペラ《恋はご法度 Das Liebesverbot》を完成させ36年に初演。37年,ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)劇場を経て,ロシア領(現ラトヴィア)リガ劇場の音楽監督に就任する。この頃からパリでの成功を夢見て,当時グランド・オペラで大成功を収めていた作曲家マイヤベーアに接触し始める。

ワーグナーは生涯を通じて浪費癖があった。リガでは借金取りに追い立てられ,夜逃げ同然に逃げ出した。その後,東プロイセンのピラウから船に乗り,ロンドン経由でパリに到着した。この船旅の途中で嵐に巻き込まれたことが,のちのオペラ《さまよえるオランダ人 Der friegende Holländer》のインスピレーションにつながっている。

ワーグナーの最初の妻ミンナ

パリからドレスデンへ

パリでのワーグナーは,経済的に苦しい生活を余儀なくされた。知人らの紹介で,ピアノ小品の作曲,オペラの編曲,写譜,小説や評論の執筆などをこなすことで,糊口をしのいだ。マイヤベーアと直接出会い,パリでの自作上演に向けて助力を求めたが実現しなかった。また,ベルリオーズの劇的交響曲《ロメオとジュリエット》に刺激を受けて,序曲《ファウスト Eine Faust-Ouvertüre》(1839-40)を作曲した。当地での最も重要な体験は,当時まだ聴衆に理解されているとはいえなかったベートーヴェンの交響曲第9番(第1~3楽章のみ)を,アブネックの指揮するパリ音楽院管弦楽団の優れた演奏で耳にできたことだった。この体験によって,改めて《第9》交響曲の真価に開眼させられた。

1840年には,フランスのグランド・オペラ様式にのっとったオペラ《リエンツィ Rienzi》を完成させた。また,既にオペラ座用に作成して売り払っていた《オランダ人》の題材を,そのまま自作オペラとして41年に完成する。42年,《リエンツィ》がドレスデン宮廷歌劇場(現ドレスデン国立歌劇場)で上演されることとなり,ワーグナーはドレスデンに移り住む。《リエンツィ》の初演は大成功を収め,ワーグナーの名が当地で一躍有名になった。そのおかげで債権者たちが押し寄せるという悲劇も起きた。《リエンツィ》人気の余波もあって43年に《オランダ人》が初演されたが,《リエンツィ》とは全く異なる作風に聴衆が戸惑い,大きな成功には至らなかった。さらに,続くオペラ《タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦 Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg》が45年10月に初演される。純潔と官能の愛の対立という物語と,結末の唐突さに聴衆の理解は得られなかった。こののちワーグナーは《タンホイザー》を死の直前まで修正・改訂し続けたが,決定稿を残せなかった。

ドレスデン蜂起に加担し亡命生活へ

ドレスデン時代のワーグナーは,メンデルスゾーン,シューマン,リストと旧交を温めた他,批評家ハンスリック,歌手ルートヴィヒ・シュノル・フォン・カロルスフェルト,建築家ゼンパーらと知り合っている。1848年に次のオペラ《ローエングリン Lohengrin》を完成させる中,ドレスデン宮廷歌劇場指揮者として劇場改革を構想し,その延長で社会変革の必要性にたどり着く。やがて新しいオペラ(のちの《ニーベルングの指環 Der Ring des Nibelungen》)の構想が始動する。同年にパリで起きた革命はヨーロッパ各地に広がり,ドレスデンも例外ではなくなった。ついにワーグナーも,49年5月のドレスデン蜂起に加担する。しかし革命は失敗に終わり,ワーグナーに対しても肖像画付きの逮捕状が発せられた。即座にドレスデンを離れワイマールを経て,スイスのチューリヒで亡命生活を送る。

四部作《ニーベルングの指環》の着手

チューリヒでは,革命前に既に着手していた新しいオペラ《ジークフリートの死》(のちの《神々の黄昏 Götterdämmerung》)の構想を具体化・発展させていく。それと同時に,オペラ創作を実現するための理論的著作《Oper und Drama》(1851,日本語版:《オペラとドラマ》1993)などを執筆した。《ジークフリートの死》の構想から始まった新たなオペラの台本創作は,前史を遡るかたちで拡大され,現在の《ラインの黄金 Das Rheingold》(1854完成),《ワルキューレ Die Walküre》(1856完成),《ジークフリート Siegfried》(1856-71),《神々の黄昏》(1869-74)から成る四部作《ニーベルングの指環》となった。

ワーグナーは生涯を通じて,神話や中世の説話,シェイクスピアやバルザックといった文学,フォイエルバッハ,ヘーゲル,ショーペンハウアーらの哲学書に親しんだが,それらはとりわけ《指環》以降のオペラ創作に大きな影響を及ぼしていく。

《ラインの黄金》《ワルキューレ》と作曲を進める中で,四部作として上演実現のめどが立たない不安もあった。そこで《ジークフリート》の作曲を第2幕で中断し,単一の簡易なオペラを構想することにした。それが《トリスタンとイゾルデ Tristan und Isolde》(1857-59)である。

マティルデ・ヴェーゼンドンクとの恋愛

《トリスタン》創作時期,ワーグナーは彼の芸術の信奉者のひとりであったオットー・ヴェーゼンドンクの援助を受けて,チューリヒ郊外の邸宅に移り住んでいた。近所にヴェーゼンドンク夫妻も住んでおり,やがて夫人マティルデ・ヴェーゼンドンクとの間に恋愛関係が生じた。彼女の詩に作曲した歌曲集《女声のための5つの詩 Fünf Gedichte für eine Frauenstimme》(1857-58,いわゆる《ヴェーゼンドンク歌曲集 Wesendonck-Lieder》)を作曲し,そのうち〈温室で Im Treibhaus〉と〈夢 Träume〉の楽譜には「《トリスタン》への習作」と付された。やがて《トリスタン》は簡易なオペラどころではなく,ワーグナーすら予期していなかった深遠な作品となった。なお2人の恋愛関係は,マティルデの夫とワーグナーの妻ミンナの知るところとなり,ワーグナーはチューリヒを離れた。1858年9月にはヴェネツィアで,59年にはルツェルンで《トリスタン》の作曲を続けた。

バイエルン国王ルートヴィヒ2世の援助を得る

1860年には,パリでワーグナー作品の演奏会を開く。これによってパリでのワーグナー熱が高まり始め,やがてナポレオン3世より《タンホイザー》上演の命が下った。早速フランス語訳を作成し,改訂作業に入った。61年3月にオペラ座で初演されたが,通常第2幕に入るバレエを第1幕に置いたことでオペラ座の常連会員であるジョッキー・クラブの妨害に遭い,大失敗に終わる。同年,ウィーンで《トリスタン》初演の実現に向けて具体的に動き始めたが,上演不能という判断が下されてしまう。62-64年には,ヨーロッパ各地やモスクワなどで演奏会を指揮しながら,《ニュルンベルクのマイスタージンガー Die Meistersinger von Nürnberg》の作曲を進めた。シュトゥットガルトで極貧状態にあったワーグナーのもとに,1人の使者が訪れた。かねてからワーグナーのオペラに心酔していたバイエルン国王ルートヴィヒ2世が,国王に就任して最初に発令したのが,ワーグナーの援助だったのである。

ワーグナーはミュンヘン近郊に移り住んだ。国王と親密な関係が生まれていったことで様々な憶測を呼び,多くの軋轢も生まれた。国王の援助により,1865年の《トリスタン》初演,68年の《マイスタージンガー》初演がミュンヘンで実現した。66年には妻ミンナが亡くなっている。

バイエルン国王ルートヴィヒ2世(1865)

コージマとの結婚

1868年にニーチェとの出会いがあった他,リストの娘でビューローの夫人だったコージマ(・ワーグナー)と恋愛関係に陥ったことが大きな問題に発展する。69年と70年には,《指環》のうち既に完成していた《ラインの黄金》と《ワルキューレ》が,国王の希望によりそれぞれ単独上演されてしまう。70年,既にビューローと離婚していたコージマと結婚し,この年の彼女の誕生日に合わせて《ジークフリート牧歌 Siegfried-Idyll》を作曲,初演して彼女を喜ばせた。またベートーヴェン生誕100年の記念の年にあたっていたため,論文《Beethoven》(1870,日本語版:《ベートーヴェン》1928)も執筆する。

ビューローの夫人で後にワーグナーの妻になるコージマ(1870以前)

バイロイト祝祭劇場の完成とバイロイト音楽祭の始まり

ワーグナーは《マイスタージンガー》完成後,一旦中断していた《ジークフリート》の作曲に立ち返った。それでもなお4部作上演のめどは立っていなかったが,そこで再びルートヴィヒ2世からの援助を受けることになった。北バイエルンの小都市バイロイトに,自作上演専用の劇場を建設することが決まる。やがてバイロイトに移り住む。

バイロイト祝祭劇場は,オーケストラ・ピットを舞台下に沈めて観客から見えないようにし,客席は古代ギリシアの円形劇場を模したものである。1872年に定礎式がなされ,既に当地にあった辺境伯劇場でヴァーグナーはベートーヴェンの交響曲第9番を指揮した。73年,バイロイトで《神々の黄昏》の作曲を進める。この年ブルックナーがバイロイトを訪れ,交響曲第3番をワーグナーに献呈する。74年に《神々の黄昏》が完成し,上演準備に入った。その一方で資金繰りに苦しみ,ドイツ各地で演奏会を開く。76年,第1回バイロイト祝祭(バイロイト音楽祭)が開催され,H.リヒター指揮により《指環》四部作が初演された。ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世ら国賓,ヨーロッパ各地の有名作曲家たちが集まり,祝祭はヨーロッパ各地から注目されたものの,経済的には大赤字をもたらした。また,こうしたお祭り騒ぎを冷ややかに見つめる人物(カール・マルクスら)もいた。

バイロイト祝祭劇場の内観(1910頃)

ヴェネツィアで客死

バイロイト祝祭後のワーグナーは1879年までバイロイトで,その後はイタリアのヴェネツィアに移り住んでイタリア各地を訪問しながら,最後のオペラ《パルジファル Parsifal》の創作にいそしんだ。《パルジファル》は,82年の第2回バイロイト祝祭で初演された。ワーグナーはもともと心臓が弱かったが,ヴェネツィアに戻ると心臓発作に苦しんだ。翌1883年2月13日にヴェネツィアで亡くなる。その後,遺体は18日にバイロイトに移され,葬儀が行われた。

ワーグナーのオペラ作品

ワーグナーのオペラ作品は大きく3つに分けられる。

1.初期作品  マルシュナー,ウェーバーらのドイツ・ジングシュピールの影響を受けた《妖精》,ベッリーニのイタリア・オペラの影響を受けた《恋はご法度》,フランスのグランド・オペラの伝統に即した《リエンツィ》が当てはまる。

2.中期作品  ロマン的オペラと名付けられた3つの作品《オランダ人》《タンホイザー》《ローエングリン》が含まれる。いずれの作品も,女性による救済,中世の伝説,キリスト教信仰の問題を含む。3つの作品は,各曲が独立している「番号オペラ」から徐々に脱し始め,各曲の連結によりドラマの一貫性が目指されていく。

3.後期作品  一般に「楽劇」と分類されるが,ワーグナー自身はこの名称に懐疑的だった。神話に題材を取った四部作の《ニーベルングの指環》では,音楽は幕の中で途切れることはなく,ドラマとしての一貫性が実現される。言葉と音楽の緊密な関係がもくろまれ,シュプレヒゲザング(言葉と歌の中間様式)に近い歌唱も見られる。また,100を超えるライトモティーフ(示導動機)がオーケストラによって奏され,網目のように全作に張り巡らされている。

《トリスタン》は,許されない愛の果てにある死に憧れる恋人たちの心理的対話が中心に描かれる。半音階法や不協和音が徹底的に使用され,その典型である「トリスタン和声」が有名。音楽表現の新しい可能性を拓いたことでのちの作曲家たちにも大きな影響を与えた。続く《マイスタージンガー》は,伝統に固執する保守的なマイスタージンガー(親方歌手)たちと伝統に捉われない革新的な若者との相克を描く。一見明るい全音階は繊細に半音階法と対置される。最後の《パルジファル》は,キリストの血を受けたとされる聖杯を守る騎士団,官能の愛に誘惑されて傷を負い苦悩する聖杯王,無知で無垢な英雄による救済を描く。厳粛で神秘的な響きが支配的で,オペラの存在そのものが宗教的な儀式に比されている。

ワーグナーの革新性

ワーグナーの生涯は,ナポレオン戦争後の混乱,パリの7月革命(1830年),ヨーロッパ全土の革命(1848,49年)を経て,ドイツ帝国成立(1871年)に至るまでのドイツ・ナショナリズムと並行しており,オペラ創作においても「ドイツ的なもの」が意識された。

オペラ史上や音楽史上におけるヴァーグナーの革新性は際立っている。オペラの台本(韻文テクスト)を自ら作成し,単なる大衆娯楽としてのオペラではなく,音楽・言葉・演劇が融合した総合芸術を目指して,オペラ作品としての自律性を意識していった。時に音楽では半音階法や不協和音が多用され,機能和声の限界にまで到達した。ドラマの一貫性は,各幕で音楽が途切れない「無限旋律」として実現された。ワーグナー以後,賛否はあっても,彼の影響を受けていない作曲家はいないといって過言ではない。

ワーグナーに関する脱神格化

こうしたワーグナーの革新性の一方で,彼自身による「自己神話化」,弟子たちによる師の「神格化」,さらにはバッハからベートーヴェン,ワーグナーへと連なるドイツ中心史観による音楽史記述が近年批判されており,ワーグナーに関する脱神話化もなされている。ミヒャエル・ヴァルターの《Die Oper ist ein Irrenhaus》(1997,日本語版:《オペラハウスは狂喜の館》2000)のように,オペラ作品を社会との関連から考察することも増えてきた。

第二次大戦時,彼の論文《音楽におけるユダヤ性》(1850)をナチスが拡大解釈の上利用したことで,ワーグナーの音楽とユダヤの関係は今日でも暗い影を落としている。バイロイト祝祭はワーグナーの血縁者によって継承され,第二次大戦の中断を挟んだ他は,今もなおワーグナー作品の公演を続けている。

ワーグナーの全集楽譜はドイツのショット・ミュージックから刊行中で,初期作品を除けば,主要作品はほぼ出版が完了している。著作全集はデジタル・ビブリオテーク Digitale Bibliothek社のCD-ROM版が便利である(現在絶版)。

日本におけるワーグナー受容

日本では明治期からワーグナー作品が積極的に受容され,現在ではほぼ毎年ワーグナー作品が上演される。また,日本ワーグナー協会(1980年設立)が作品の普及や理解促進に寄与している。オペラ作品の注釈付き対訳,著作の翻訳,コージマの日記《Die Tagebücher》(1869-83)の翻訳(日本語版:《コジマの日記》2007- ),研究成果や最新のワーグナー情報がまとめられた年刊や《ワーグナー事典》(2002)なども,日本ワーグナー協会監修や協力のもとに刊行されている。

ワーグナーの主要作品

WWVはデスリッジ,ゲック,フォスにより1986年の目録で与えられた作品番号(作曲年代順)

【オペラ】

《婚礼》 WWV31  1832-33[未完,序奏と2つの断片のみ現存]; 《妖精》 WWV32  1833-34 ; 《恋はご法度》 WWV38  1835-36 ; 《リエンツィ》 WWV49  1838-40 ; 《さまよえるオランダ人》 WWV63  1841改訂60 ; 《タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦》 WWV70  1843-45改訂47,61,75 ; 《ローエングリン》 WWV75  1846-48 ; 《ニーベルングの指環》 WWV86[四部作]: 序夜《ラインの黄金》 1853-54,  第1日《ワルキューレ》 1854-56,  第2日《ジークフリート》 1856-71[中断57-69],  第3日《神々の黄昏》 1869-74 ; 《トリスタンとイゾルデ》 WWV90  1857-59 ; 《ニュルンベルクのマイスタージンガー》 WWV96  1862-67 ; 《パルジファル》 WWV111  1877-81 

【管弦楽曲】

交響曲  C  WWV29  1832 ; 序曲と付随音楽 : ラウパッハ《エンツィオ王》 WWV24  1831-32,  アーペル《コロンブス》 WWV37  1834-35 ;  序曲 : ポローニア  WWV39  1836,  ルール・ブリタニア  WWV42  1837,  ファウスト  WWV59  1839-40改訂55 ; ジークフリート牧歌  WWV103  1870 ;  皇帝行進曲  WWV104  1871 ;  大祝典行進曲[アメリカ独立100周年記念] WWV110  1876

【吹奏楽曲】

ウェーバー《オイリアンテ》のモティーフによる葬送音楽  WWV73  1844 ;  忠誠行進曲  WWV97  1864 

【ピアノ曲】

ソナタ  B  WWV21  op.1  1831 ;  幻想曲  fis  WWV22  op.3  1831 ;  ポロネーズ  D  WWV23b  op.2  1832刊 ;  大ソナタ  A  WWV26  op.4  1832 ;  アルブムブラット[E.B. キーツのためのアルブムブラット《無言歌》] WWV64  1840 ;  ヴェーゼンドンク夫人のアルバムのためのソナタ  As  WWV85  1853 ;  チューリヒの恋人ワルツ  Es  WWV88  1854 ;  M侯爵夫人のアルバムに  C  WWV94  1861 ;  黒鳥館に到着  As  WWV95  1861 ;  アルブムブラット  Es  WWV108  1875 

【合唱曲】

使徒の愛餐  WWV69(男声cho,orch) 1843

【歌曲】

女声のための5つの詩[ヴェーゼンドンク歌曲集] WWV91(1.天使  2.止まれ!  3.温室で  4.悩み  5.夢)1857-58 ;  樅の木  WWV50  1838 ;  眠れ,わが子よ  WWV53  1839 ;  期待  WWV55  1839 ;  ミニョンヌ  WWV57  1839 ;  全てはつかの間の幻[ため息] WWV58  1839 ;  2人の擲弾兵  WWV60  1839-40 ;  メアリー・ステュアートの別れ  WWV61  1840

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