ベートーヴェンと甥カールの成績
年間を通してお送りする連載「週刊 ベートーヴェンと〇〇」。ONTOMOナビゲーターのみなさんが、さまざまなキーワードからベートーヴェン像に迫ります。
第33回は、ベートーヴェンが甥カールの親権を得て、教育熱心なパパになったエピソード。作曲中の楽譜にメモを書いてしまうほど、カールの成績が気になっていたようです!
1993年生まれ、東京都出身。2022年、第1回ひろしま国際指揮者コンクール(旧:次世代指揮者コンクール)優勝。パリ地方音楽院ピアノ科、ミュンヘン国立音楽演劇大学古楽...
ベートーヴェンの「息子」
ベートーヴェンは生涯結婚することはありませんでしたが、結婚して子どもを授かることを夢見ていました。そんなベートーヴェンは、その夢を1度だけ叶えたことがありました。
弟のカスパール(1774〜1815年)が結核で亡くなったことにより、彼の1人息子、かつベートーヴェンの甥にあたるカール(1806〜1858年)の親権を獲得し、義理の父となったのです。もともとこの親権はカールの実母にもあったのですが、実母が知性に欠けた人間で子育てをする能力に欠けるとし、ベートーヴェンが裁判を起こした末、1820年に単独の親権を勝ち得ました。
ベートーヴェン、子育てに目覚めて「教育パパ」に
ベートーヴェンは親権を得る前から、カールの後見人の役割をしていました。なんとしてでも立派な大人に育ててやりたい。その一心で、当時9歳だったカールを著名な教育者カエタン・ジャンナタージオ・デル・リオが経営する学習塾の寄宿舎に預けます。その間、自分の弟子ツェルニーのピアノのレッスンを受けさせていました。たまにレッスンに顔を出し、その様子を横で見守っていたとか。
ベートーヴェンは子育てへの熱意のあまり、カールの成績を気にするようになります。まずベートーヴェンは寄宿舎にも頻繁に顔を出し、成績表を自ら受け取りに行きました。そして自身のメモに「ラテン語2時間、地理、歴史、自然科学、宗教の授業が1時間ずつ」と書き残しています。カールの授業内容も把握していたのです。
しかし、「寄宿舎なんかにいても、きっと面白くない生活を送るだけだ。いい親元で愛情に抱かれた生活の方がずっと彼のためだろう」と自分の心の内を認めたのちに、寄宿舎をやめさせて自分の家に住まわせます。
のちにカールが高校に通い始めてからも、ちゃんと授業についていけているかを確認するべく、高校に顔を出します。ベートーヴェンが当時作曲中だった《ミサ・ソレムニス》の自筆譜には「カールが2ヶ月でギリシア語を習得する方法……」と走り書きがあり、彼が不得意だったギリシア語を補うための家庭教師も探していました。
当時作曲中だった《ミサ・ソレムニス》
歪んだ愛情に追い詰められてしまったカール
カールは1825年(19歳)にウィーン大学言語学科へ進みますが、すぐに中退し、ベートーヴェンの意に反して工業専門学校(現在のウィーン工科大学)へ転学します。長きにわたる義理の父の過度な干渉がカールの心を圧迫してしまい、疲れてしまったのです。
翌1826年には、カールは拳銃による自殺を図ってしまいます。この自殺は未遂に終わるのですが、ベートーヴェンはそこでふと自分の過干渉に気づくのです。そして歪んだ愛情は消え、カールの生き方を尊重するようになります。結局カールは軍人となり、士官を務めたのちに、農業振興の管理職に従事しました。
右:晩年のカール・ヴァン・ベートーヴェン
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