ベートーヴェンと温泉
年間を通して楽聖をお祝いする連載、「週刊 ベートーヴェンと〇〇」。ONTOMOナビゲーターのみなさんが、さまざまなキーワードからベートーヴェン像に迫ります。
第6回は、ベートーヴェンと温泉。遺書をしたためた地として有名なハイリゲンシュタット、実はウィーンっ子のスパ・リゾートでした。
1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Maqcuqrie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。2008年よりクラシ...
ベートーヴェン、湯治に出かける?
ハイリゲンシュタット——この地名を目にすると、すかさず「……の遺書」という言葉が頭に浮かぶ人は少なくないだろう。そう、ここは、難聴の苦しみを抱えたベートーヴェンが「遺書」を書いた場所としてあまりに有名。なので、「死」というあまり明るくないイメージと結びついた地名ではないだろうか。
しかし実際は、ハイリゲンシュタットといえば当時は有名な硫黄の温泉地であった。18世紀の終わりには28の湯船と33の部屋、そして食堂のある公衆浴場がオープンし、ウィーンっ子たちのスパ・リゾートとして機能していたのだ(残念ながら、その後温泉は枯れてしまった)。ハイリゲンシュタットはウィーンの中心から北に5キロほど。当時の馬車でも1時間弱で到着したそうだ。
耳の病や人間関係の悩み、過労で疲れ切っていたベートーヴェンに、かかりつけのお医者が「休んできなさいよ」と勧めたのが田舎暮らしだった。そして1802年4月23日からおよそ半年間、ベートーヴェンはハイリゲンシュタットで過ごす。
滞在中の10月6日に、かの「遺書」を書くのだが、「今から自殺します」という遺書なのではない。病の苦しみからいっときは死と対峙したけれど、芸術が自分を思いとどまらせた、と彼は記している。「死よ、来るならいつでも来たまえ、私は敢然と迎えよう」という言葉からは、芸術とともに生きる覚悟を決めた男の、メラメラと燃える心の強さすら感じられる。
「遺書」を書いた数週間後、ベートーヴェンは作曲家としての闘いの場、ウィーンへと戻っていった。温泉が実際どれだけ彼を癒したのかは想像することしかできないが、じわじわと彼の身体の芯に活力を与えたのかもしれない。
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