読みもの
2020.03.09
週刊「ベートーヴェンと〇〇」vol.12

ベートーヴェンとモーツァルト

年間を通して楽聖をお祝いする連載、「週刊 ベートーヴェンと〇〇」。ONTOMOナビゲーターのみなさんが、さまざまなキーワードからベートーヴェン像に迫ります。
第12回は、ベートーヴェンとモーツァルト。最新の研究でも未だに解明されていないという、ベートーヴェンはモーツァルトに会えたのか問題。「おやすみベートーヴェン」でおなじみの平野昭先生の見解はいかに……?

ベートーヴェンを祝う人
平野昭
ベートーヴェンを祝う人
平野昭 音楽学者

1949年、横浜生まれ。武蔵野音楽大学大学院音楽学専攻終了。元慶應義塾大学文学部教授、静岡文化芸術大学名誉教授、沖縄県立芸術大学客員教授、桐朋学園大学特任教授。古典派...

アウグスト・ボルクマン《モーツァルトとベートーヴェン》(1890年以前作)

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1787年、ベートーヴェンはモーツァルトに会えたのか?

1787年3月下旬、ベートーヴェンがウィーンに向かい、ミュンヘンに4月1日頃、帰りは4月25日頃に滞在したという宿泊名簿があります。今までのベートーヴェンの伝記では、それがボンから行く途中だったとされていました。「ボンの宮廷楽士ベートーヴェン」というミュンヘン警察署に届けた宿帳が残っているので、それは動かない証拠ですね。当時、旅行者は届けないといけませんでした。

ところが、1787年1月に、ボンから500キロも離れたレーゲンスブルクに滞在していたという記録が出てきました。それを発見した人の「知られざるハイドンやベートーヴェンの旅」という論文を見ると、それがウィーンに行く途中だった、ウィーンからの帰りだった、とはどこにも書いていません。

モーツァルトは、その年父親が危篤になって翌月に亡くなり、そして、《ドン・ジョヴァンニ》を急いで完成させなければいけない時期でした。モーツァルトへの弟子入りの入門希望者は毎日のように来るわけで、その中の一人として名も知らない16歳の少年であるベートーヴェンが来たところで、モーツァルト側の伝記に記述がないのは自然なことです。

2人のキーパーソン

1784年にオーストリアの皇帝の弟、マックス・フランツがボンの選帝侯になり、赴任します。マックス・フランツは、モーツァルトと同じ1756年生まれ、ウィーンで育って、モーツァルトの大ファンだったので、選帝侯になるときに、ウィーンで出版されたモーツァルトの作品が自動的にボンに送られるようなシステムにした。だから、ベートーヴェンはボンにいるときから《フィガロの結婚》などを弾いて、楽譜を通してモーツァルトをよく知っていました。

1787年にウィーンに行ったとすれば、マックス・フランツがボンに来てからもう3年経っているので、宮廷楽士のベートーヴェンに、「ウィーンに行ってモーツァルトのところで勉強してくるように」という許可を与えたことにもうなずけるわけですね。

もう一人、ハッツェフェルトという貴族がモーツァルトのパトロンにいますが、そのハッツェフェルト家の女性のひとりが、ボンの貴族と結婚しています。彼女が、ベートーヴェンがウィーンに行くならばと、仲介者として紹介状を持たせた可能性があります。それを持っていれば、モーツァルトと会えたでしょう。

Anton von Maronによるマックス・フランツの肖像画。

演奏は聴いていたのでは?

その年、モーツァルトは2月くらいまでプラハにいます。もし会った可能性があるとしたら、4月の上旬です。ベートーヴェンがレーゲンスブルクに1月からいつまでいたかわかりませんが、もしかしたら4月上旬ミュンヘンでの宿泊も、プラハなど、どこか別の場所でモーツァルトを聴いたときの可能性があります。

 

のちにベートーヴェンは、弟子のチェルニーや甥のカールにピアノを教えるときに、「モーツァルトみたいなノンレガートの演奏をするな」と言うんですね。「もっとレガートに」「モーツァルトみたいにポチポチ切るんじゃない」などと言うということは、モーツァルトの演奏を聴いていますよね。どこかで聴いているとすると、その可能性は87年しかない。演奏後にあいさつされて、モーツァルト側ではそれは誰だかわからなくても、不思議ではありません。

チェルニーや甥に言った、「モーツァルトのような弾き方するんじゃない」という発言は、聴いていないと言えない言葉だろうと思うんですよ。一度は聴いていると思うのです。だから、コンチェルトかなにかをお客さんとして聴いたのではないかと思います。

ベートーヴェン側の伝記には、モーツァルトはいつも、即興演奏をみんな練習してくるものと思っていたけれど、ベートーヴェンがその場で与えた主題で即興したのでびっくりして、隣の部屋にいた友だちに「とんでもない子が現れた」と言ったとあります。

チェルニーは、『ベートーヴェンの思い出』の中で、「先生がモーツァルトは僕の前でついに1回も演奏してくれなかったと残念がっていた」と言っている。それは、面と向かってのレッスンのことを指すでしょう。“レッスンは”してくれなかったということは、それは会っていたときの話ということになりますよね。

つまり、演奏を聴いたことも会ったこともあるけど、目の前で演奏はしてくれなかった、ということではないでしょうか

研究は現在進行形で、議論が交わされることもしばしばですが、まだ誰も結論には至っていません。

ベートーヴェンを祝う人
平野昭
ベートーヴェンを祝う人
平野昭 音楽学者

1949年、横浜生まれ。武蔵野音楽大学大学院音楽学専攻終了。元慶應義塾大学文学部教授、静岡文化芸術大学名誉教授、沖縄県立芸術大学客員教授、桐朋学園大学特任教授。古典派...

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