ベートーヴェンと1812年失踪事件
年間を通してお送りする連載「週刊 ベートーヴェンと〇〇」。ONTOMOナビゲーターのみなさんが、さまざまなキーワードからベートーヴェン像に迫ります。
第17回は、1812年に精神的に追い詰められたベートーヴェンがとった奇行に注目します。交響曲第7番と第8番を作曲していた頃、彼を襲ったストレスとは……?
神戸市外国語大学教授。オーストリア、ウィーン社会文化史を研究、著書に『ウィーン–ブルジョアの時代から世紀末へ』(講談社)、『啓蒙都市ウィーン』(山川出版社)、『ハプス...
ストレスが重なりまさかの逃亡?!
難聴の絶望や苦しみをしたためたハイリゲンシュタットの遺書からおよそ10年後の1812年、ベートーヴェンはふたたび精神的危機に陥っていた。
この年の夏、彼はボヘミア(現チェコ)の高級保養地テプリツェに逗留し、一夜のうちに便箋10枚に及ぶ「不滅の恋人への手紙」を書き上げている。伏せられた名宛人がのちに大議論を巻き起こす、この謎の恋文に綴られた絶望と情熱のトーンは、どうやらその後しばらくベートーヴェンの頭を離れなかったようだ。
手紙から10日後、ベートーヴェンは当地で文豪ゲーテと会談している。この出会いは後世、「ヨーロッパの二大精神の邂逅」としてさまざまに脚色されて取り沙汰されるが、ふたりの会話が気まずいものに終わったことは、友人ツェルターに宛てて作曲家の頑迷さと奇行に辟易の言葉を漏らしたゲーテの書簡からも推測できる。
ウィーンに帰ると、家族をめぐるトラブルがベートーヴェンを待ち受けていた。秋には、パトロンのルドルフ大公に対して手紙で自身の抑うつ状態を訴えるほど辛い状況にあったようだ。
深い絶望に陥ったベートーヴェンに手を差し伸べたのは、支援者のひとり、マリア・エルデーディ伯爵夫人だった。その親切な招きに応じてウィーン近郊の伯爵家の所領、イェードレゼーに身を寄せたベートーヴェンは、だが、ほどなく忽然と姿を消す。
夫人は気まぐれな作曲家が自宅に戻ったものと思っていたが、3日後の夕方、お抱えの音楽教師ブラウフレが、居城の庭の外れの灌木の茂みに茫然自失の状態で潜んでいたベートーヴェンを発見したのだった。
作品史上においては、7番と8番、2つの交響曲が完成された充実の年だったが、楽聖の心は出口のない闇をさまよっていたようである。
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