インタビュー
2019.08.16
フランコ・ゼッフィレッリ インタビュー 後編

ゼッフィレッリが語る映画監督としての自身、ヴィスコンティとの関係/林田直樹が振りかえる取材時

前編「舞台の上は、ファンタジーではなく、全てが真実であるべきだ」に続き、ゼッフィレッリが映画監督としての自身、そして師弟関係にあったルキノ・ヴィスコンティについてのインタビューを掲載。加えて、取材・執筆を行なった林田さんが当時を振り返り、この偉人の死を偲びます。

取材・文
林田直樹
取材・文
林田直樹 音楽之友社社外メディアコーディネーター/音楽ジャーナリスト・評論家

1963年埼玉県生まれ。慶應義塾大学文学部を卒業、音楽之友社で楽譜・書籍・月刊誌「音楽の友」「レコード芸術」の編集を経て独立。オペラ、バレエから現代音楽やクロスオーバ...

新国立劇場開場記念公演「アイーダ」リハーサル中のゼッフィレッリ氏(1998年) 撮影:三枝近志

画像提供:新国立劇場

この記事をシェアする
Twiter
Facebook
新国立劇場開場記念公演「アイーダ」リハーサル中のゼッフィレッリ氏(左)とアイーダ役のマリア・グレギーナ
撮影:三枝近志

ヴィスコンティとは、父親と息子のようだった

――ゼッフィレッリさんは映画監督でもいらっしゃいますが、ご自分の中での映画とオペラの関連性については?

Z: 私は、私自身をミケランジェロと比較しようなんて大それたことをする気は毛頭ありません。が、ミケランジェロは、偉大な画家であり、すばらしい彫刻家であり、最高の建築家でした。これはその人の性格にも負うところが多いと思いますが、性格的にそれらをこともなくこなす人というのもいるのです。特に総合芸術に関わる人間は、手がどれだけ器用であるかということも問われるかもしれません。私の場合、絵も結構描けますし、映画づくりも定評がありますし、またオペラや音楽の方面でも高い評価を得ています。こうした器用さにも助けられて自然に夢を実現できました。フィレンツェのような文化的、芸術的にすばらしい環境で育つことができたことも大きかったですし、さらにはヴィスコンティ、アントニオーニ、ロッセリーニを始めとする偉大な監督のもとで学ぶことができました。こうして映画における最高のものを学び、彼らの知っている私の知らない多くのことを彼らから学ぶことができました。そして私の映画には音楽が登場します。それは私が培ってきたもので、それが映画に登場するのは、私にとっては自然でしたが、それが私の映画を他と一線を画させ、とても豊かで幅のあるものにしているのです。そして絵のセンスからくる色彩感。そういったものが統合されているのです。ただ誤解しないで頂きたいのです。私は決しておごったり、うぬぼれたりしているわけではありません。私は天才でも何でもありません。ただ、とても多くの経験と研究、勉強、そして技術がなし得たことなのです。

今の時代、すぐに天オの登場だ! とか、彼は天才だ、とか、人はすぐ言いますけど、本当の天才とはそういうものではありません。ミケランジェロは、生前一度も天才とは呼ばれませんでした。でも彼は最高の画家、最高の彫刻家と言われました。それは彼が技術を完璧に身につけ、人が手をつけるのを恐れるような大理石ですら、その深い知識と見事な手先の技術、経験で掘ってみせたからです。だからこそ私は彼を敬ってやまないのです。

ゼッフィレッリ監督映画作品のひとつ『ロメオとジュリエット』(1968

――最後に、ヴィスコンティとの関係について、今感じておられることは?

Z: 彼と出会ったときの私はまだとても若かったのですが、そのとき既に多くのルネッサンスの知識を身につけていました。彼はそんな私のことがとても気に入って、いろいろなことをやらせてくれ、教えてくれました。

人生で出会う人々、彼らは必ず何かしら教えるものを持っています。その中でもヴィスコンティは溢れるほど教えるものを持った人だったのです。

彼とは5年一緒でしたが、学んだものは限りがありません。実は彼のもとで奴隷のように働きましたが、お金はほとんどもらっていないのです。でもお金に換えられないほど多くのものを彼から学ぶことができました。もちろんすばらしいことを多く学ぶ一方で、彼の中で、私が好ましく思わない部分もありました。でもそういうことを通して逆に私が好ましく思わないことをはっきりと知り、それらを切り落とすこともできるようになりました。そして彼から学んだ多くのものを土壌に、私は自らものを生みだしていったのです。

そんな中で私にスカラ座の仕事が入ってきました。私はこのことを彼に報告すると、彼に「まだおまえは若すぎる!まだ無理だ」と言われました。そのころの私は彼にとって必要な存在となっていました。彼からすれば、仕事を教え、今では共に働くことができるようになった息子が、今1人で旅立とうとしているようなものだったのです。

父親から息子が一人立ちすると言うことは、必ずしも全てにおいて心地の良いものではありません。でもそれも親子の愛情のようなものがあったからです。その上、私が、このスカラ座の仕事で大成功を収めて、ヴィスコンティの弟子は彼を超えたとか、一部の人々がおもしろおかしくうわさを立てたりしたので、事態はより複雑になってしまったのです。実際には私たちはとてもノーブルな関係だったのです。

「音楽の友」1998年3月号より転載

当時の取材を振り返って (林田直樹)

1998年1月14日。

初日を翌日に控えた新国立劇場開場記念公演「アイーダ」のゲネプロ(本番と同様に通しでおこなわれる最終総稽古)の直前、午前11時に楽屋に来るように私は指定されていた。

当時どの新聞も雑誌もできなかった単独取材は、新国立劇場を通してではなく、フランコ・ゼッフィレッリの友人だったローマ在住の日本料理店経営者Nさんを仲介することによって実現した。

何しろイタリア・オペラの歴史を作った大演出家・映画監督である。公式なルートからはそう簡単に取材できる相手ではなかったから、そういう作戦をとったのだ。

このときの取材では、フリーの音楽評論家をインタヴュアーに立てるのではなく、当時「音楽の友」編集部員だった自分が直接質問者になって、記事を書くと決めていた。なぜかって? 急に当日ゼッフィレッリに断られる可能性があったというのが表向きの理由だが、本当はこんなおいしいチャンスを、誰かに譲りたくなかったというのも、少しあったかもしれない。通訳は井上裕佳子さんに、写真は竹原伸治さんにお願いした。

幸い、この日のゼッフィレッリの機嫌は良かった。楽屋の扉は開かれ、中に入るなり、ゼッフィレッリはこう言った。

「Nの紹介だって聞いたよ。あいつはいい奴だ。この取材に答えたら日本料理をローマでご馳走してもらうと約束したんだ。あの店は美味しいからね」

午前中というのに楽屋には半分ほど空けられた赤ワインが置いてあり、大演出家はすでに少し飲んでいるようだった。

テープレコーダーを置いてゼッフィレッリの前に座り、「音楽の友」を見せて、こういう雑誌の取材だと言うと、丹念にページをめくりはじめた。グラビアに掲載されていたオペラの舞台写真を見つけると、急に眼光が鋭くなり、いったいこれは誰の演出のどんな舞台なのかと質問してきた。

ほとんどのアーティストは、こういう雑誌ですと説明しても、それには興味をあまり示さないことが多い。しかしゼッフィレッリは、注意深くページをめくって写真を一つ一つ見つめたのは印象的であった。この人は“見る本能”の強い人だと思った。

師匠ルキノ・ヴィスコンティ(映画監督・演出家 1906-76)のことは、こちらも質問しようと思っていたのだが、ゼッフィレッリは自分から話してくれた。どれほどヴィスコンティのリアリズムから影響を受けたか、少年時代に奴隷のようにこき使われたか、生き生きと語る姿は魅力的だった。何しろマリア・カラスの時代を生き抜いてきた伝説の人物が、いま目の前にいて歴史を語っているのだ。うっとりしないほうがおかしい。

ルネサンス時代の美術家ミケランジェロについて話題となったときに思ったのは、数百年前の人物であっても、まるで自分の友人であり先生であるかのように、身近に思いながら仕事をしているんだな、ということだった。

取材をしている間、ゼッフィレッリの手は私の太ももに伸びてきて、しっかりと置かれ、その手は最後までずっと離れなかった。そのときの感触は、決していやらしいものではなく、親愛の情のこもったものだった。

その少し前、新国立劇場の記者会見に出席したゼッフィレッリが怒りを露わにしたことがあった。国立のオペラハウスが華々しくオープンするというのに、この国ではどの新聞にも一面トップにそれが書かれていない、街を歩いていても誰も関心を示しているように見えないのはなぜだ? と。イタリアなら大ニュースになるような出来事なのに、とゼッフィレッリはため息をついていた。

そう、この国では文化・芸術はもっともっと社会全体の関心事にならなければいけない――。

「アイーダ」初日の1月15日は大雪だった。ラダメスを歌った主演のホセ・クーラの力強い声もさることながら、本物の古代エジプトが目の前に出現したとしか思えないほどの豪華絢爛たる美術と衣装。凱旋の場での群衆のダイナミックでしかも細やかな描き方。すべての視覚的ディテールが真の芸術の域に達していた。

以来、新国立劇場は、あの「アイーダ」だけは世界に誇れる財産として守り続け、数年に一度リヴァイヴァル上演をおこなっている。当然のことだろう。

あれほどの舞台を日本のために作ってくれたゼッフィレッリに、改めて心からの感謝を捧げたい。

※表記について。Zeffirelliのイタリア語発音は「ゼフィレッリ」ではなく「ゼッフィレッリ」。当時から音楽之友社の書籍も雑誌もすべてこの表記であり、新国立劇場の公式表記もそうなっているので、ここでもそう書かせていただいた。

参考発音サイト

フランコ・ゼッフィレッリ
新国立劇場開場記念公演「アイーダ」カーテンコールより 撮影:三枝近志
取材・文
林田直樹
取材・文
林田直樹 音楽之友社社外メディアコーディネーター/音楽ジャーナリスト・評論家

1963年埼玉県生まれ。慶應義塾大学文学部を卒業、音楽之友社で楽譜・書籍・月刊誌「音楽の友」「レコード芸術」の編集を経て独立。オペラ、バレエから現代音楽やクロスオーバ...

ONTOMOの更新情報を1~2週間に1度まとめてお知らせします!

更新情報をSNSでチェック
ページのトップへ