インタビュー
2022.01.06
音楽ファンのためのミュージカル教室 第23回

原田慶太楼の音楽家人生の始まりはミュージカル~理想は「ジャンルレスな音楽の世界」

音楽の観点からミュージカルの魅力に迫る連載「音楽ファンのためのミュージカル教室」。
第23回は、ミュージカルを心から愛する原田慶太楼さんにインタビュー! 後編では、インターナショナル・スクール時代からのミュージカル愛の変遷、そして、好きなミュージカルBEST3や今後の展望についてお話しいただきました。

小学生の頃からミュージカル大好き!
原田慶太楼
小学生の頃からミュージカル大好き!
原田慶太楼 指揮者

現在、アメリカ、ヨーロッパ、アジアを中心に目覚しい活躍を続けている期待の俊英。シンシナティ交響楽団およびシンシナティ・ポップス・オーケストラ、アリゾナ・オペラ、リッチ...

取材・文
山田治生
取材・文
山田治生 音楽評論家

1964年京都市生まれ。1987年、慶應義塾大学経済学部卒業。1990年から音楽に関する執筆活動を行う。著書に、小澤征爾の評伝である「音楽の旅人 -ある日本人指揮者の...

写真:各務あゆみ

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東京のインターナショナル・スクールでミュージカルに出会い、高校生のとき、ミュージカルのピット・ミュージシャンになりたくてアメリカに渡った原田慶太楼。その後、指揮者の道を歩むことになるが、ミュージカル愛は今も失われていない。前編に続き、ミュージカルについてたっぷりと語ってもらった。

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インターナショナル・スクールでミュージカルに出演し、ピット・ミュージシャンに憧れて渡米!

——原田さんは幼い頃からインターナショナル・スクールに通っていて、そこでミュージカルに出会ったと聞きました。

原田 アメリカのハイスクールでは、毎年、全員でミュージカルをつくりあげるのが伝統になっています。先生も入って、コリオグラファー(振付師)がきたりして、体育館に舞台を作って、コスチュームも自分たちで作って、お客さんを入れていましたね。映画やブロードウェイで『ハイスクール・ミュージカル』というミュージカルが大ヒットしたのも、みんな高校でミュージカルをやってきたという歴史があるから。

原田慶太楼(はらだ・けいたろう)
1985年東京生まれ。2009年、ロリン・マゼール主催の音楽祭「キャッソルトン・フェスティバル」にマゼール氏本人の招待を受けて参加。2010年には音楽監督ジェームズ・レヴァインの招聘を受けてタングルウッド音楽祭に参加、小澤征爾フェロー賞受賞。2011年には芸術監督ファビオ・ルイジの招聘によりPMFにも参加。2013年ブルーノ・ワルター指揮者プレビュー賞、2014・2015・2016・2020・2021年米国ショルティ財団キャリア支援賞を連続受賞。2020年シーズンから、アメリカジョージア州サヴァンナ・フィルハーモニックの音楽&芸術監督、2021年4月から東京交響楽団正指揮者に就任。

原田 うちの学校で上演したのは、『ウエスト・サイド・ストーリー』、『オクラホマ』、『シカゴ』、『サウンド・オブ・ミュージック』、『ミュージック・マン』。『グリース』なども。

僕は、中学生のときはピットで楽器を吹いてたけど、高校生のときは歌って、踊ってた。『ガイズ・アンド・ドールズ』や『ウエスト・サイド・ストーリー』、『ミュージック・マン』に出演しました。

『ガイズ・アンド・ドールズ』(フランク・レッサー作曲)

『CHICAGO』に出演した際の原田さん。

——楽器を始めたのは中学生の頃?

原田 ピットに楽器できる子が集まって演奏していたけど、でも演奏のクオリティは高くないよ(笑)。

中学生のとき、そのためにサックスを始めました。先生につかず自己流だった。サックス、クラリネット、フルート、オーボエ、ホルン、何でもやっていたよ。下手くそだったけど、楽しくて。

——それで、アメリカに渡った。

原田 ミュージカルのピット・ミュージシャンになりたかったし、自分はマルチに楽器ができたから。サックス吹きながら、左手はシンセサイザー弾いてたりって、楽しそうじゃない。

——でも、なんでピット・ミュージシャン?

原田 あんまり歌が上手じゃないのよ。で、歌が上手じゃないとステージに立てないなというのがわかって、でも、ミュージカルの仕事はやりたかったから。今、考えれば、ミュージカルだったら、演出家とか総合監督とか、すごくやりたいなと思う。

——曲を書きたいというのはなかったですか?

原田 それはない。作曲はするし、ミュージカルっぽい曲も書いたことあるけど、それの天才たちがたくさんいるから。ソンドハイムとかバーンスタインとか聴いちゃうと、僕は書かなくていい(笑)ってなっちゃうよ。

小さいときは漫画家になりたかった。物語を自分で考えて絵を描いたり、4コマ漫画とか、よくやってましたね。

好きなミュージカルBEST3~人生を変えたバーンスタインとの出会い

——それでは、大好きなミュージカルを3つあげるとすると何をあげますか?

原田 『ウエスト・サイド・ストーリー』。この作品がなかったら、自分は音楽家をやってなかったと思う。クラシックも何も知らない僕には衝撃的だった。初めて学校で見たミュージカルが『ウエスト・サイド・ストーリー』だった。インターナショナル・スクールの小学1年生だったとき、学校の高校生たちがやっていたミュージカルが『ウエスト・サイド・ストーリー』だったというのは運命的な出会いだった。それがきっかけになった。

『ウエスト・サイド・ストーリー』(レナード・バーンスタイン作曲)

原田 レナード・バーンスタインという人間が、まさかニューヨーク・フィルやウィーン・フィルを振っているマエストロだということは知らなかった。“『ウエスト・サイド・ストーリー』のバーンスタイン”と“指揮者のバーンスタイン”がつながったときは超衝撃的だった。17歳くらいまでは、“バーンスタイン=『ウエスト・サイド・ストーリー』の作曲家”でしたから。クラシック音楽に進もうと決めてから、バーンスタインってスゲーと(笑)。今となれば、全部がくっついている。だから伝記で一番読んで知るのはバーンスタイン。すごい人生だよね。

『ウエスト・サイド・ストーリー』で、バーンスタイン(作曲)、ロビンズ(演出・振付)、ソンドハイム(作詞)のトリオが一緒に仕事していたっていうのも、本当にすごいこと。

——バーンスタインは、『ウエスト・サイド・ストーリー』が開幕した1957年に、ニューヨーク・フィルからオファーが来て、指揮者を取るかミュージカルを取るかで悩んで、ニューヨーク・フィルの音楽監督になった。

原田 バーンスタインが指揮者よりもミュージカルの道を選んでいたら、ソンドハイムは曲を書かなかったかもしれないと思う。書けなかったんじゃない。「バーンスタインがミュージカルに来なくて良かった」とソンドハイムは思っていたと思うよ(笑)。ソンドハイムはバーンスタインみたいのは書けなかったけど。スタイルが違うからね。でも、ブロードウェイにバーンスタインがいなかったからこそ、ソンドハイムはソンドハイムになれたと思うんだよね。

原田 次に、『レント』かな。これだけの社会現象を起こしたミュージカルはすごいと思う。僕はオペラのなかでは《ラ・ボエーム》が一番好きだから、それが「ミュージカルになるとこのアングルでいくんだ」というところが面白い。

『レント』(ジョナサン・ラーソン作曲)

原田 3つ目は、ディズニーものを入れたいから、『ライオン・キング』。生の『ライオン・キング』を見て、怒って帰る人はいないと思う。

『ライオン・キング』(ハンス・ジマー音楽、エルトン・ジョン作曲)

——最初の「サークル・オブ・ライフ」は圧倒的ですよね。

原田 あれ見たら、生きていて良かったと思わない? 今日があって良かったと思うもの。こっちかも、あっちからも(動物たちが)出てくるんだ!(笑)って。

あと、『ウィキッド』もすごいよね。たぶん人生で一番見ているミュージカル。10回以上見ている。シカゴやブロードウェイでは、当日券を10ドルで変えるチケットがあって、それで『ウィキッド』を何度も見た。『オズの魔法使い』が始まる前の物語。音楽が面白いし、演出も最高だし、人間は飛んでいるし(笑)。人間が飛んでいるミュージカルを見たのは『ウィキッド』が初めてだった。

『ウィキッド』(スティーヴン・シュワルツ作曲)

ジャンルレスな音楽の世界を目指して

——原田さんはSNSを積極的に活用していますが、アメリカと日本では何か違いがありますか?

原田 面白いのは、日本ではTwitterのファンが多くて、海外はInstagramとFacebookが多いこと。Twitterよりも先にFacebookができて、最初は、アイビー・リーグ(アメリカ北東部にある難関私立大学8校の総称)の学生しかできなかったものが、アイビー・リーグの友達の紹介があれば使えるようになったときに始めたので、僕がFacebookを始めたのは、日本人ではかなり早いほうだったと思う。使用期間がかなり長いので友達も多く、ほとんど英語で投稿しています。

あと、僕の日本デビューのきっかけはTwitterでした。オーケストラ事業協同組合の方がTwitterで僕のことを見つけてくれて、6年前、日本でデビューすることができた。地元が品川なので、きゅりあんで新日本フィルを振りました。

一番気になるのは、日本のSNSは自分の名前を出さないこと。それで、匿名の人に限ってネガティヴなことを書くから、そこがすごく腹立たしい(笑)。

——アメリカでの音楽活動が長い原田さんから見て、日本の音楽界にはどんな課題があると思いますか?

原田 まず、褒めるべきことは、こんなにたくさんのコンサートをやっていること。日本全国、365日やっている。世界で一番多いかもしれない。ただ、あまりにも多過ぎて、何に行っていいのか、わからないことになっている。日本は、そこにはまってしまった。初心者がどこからスタートしていいかわからなくなってしまった。

普通の人がコンサートに来ない理由を、「何着ていいかわからない」「チケットが高いと思う」「チケットをどうやって買ったらいいのかわからない」「どこで拍手したらいいのかわからない」とお決まりのように言っているけど、本当にそうだとしたら、新しいお客さんを待っているのではなく、私たちが新しいお客さんのほうに行けばいいと思う。そのために、人の集まるところでコンサートをやればいい。渋谷ハチ公前で野外コンサートをやるとか、東京駅でパーンと大きなことをやるとか。

あと、テレビもうまく使っていないと思う。クラシックの音楽家が普通の人が見る番組にほとんど出ていない。清塚(信也)くん、(木嶋)真優、高嶋(ちさ子)さんは、がんばっているけど。その意味で、(反田)恭平が報道ステーションやNHKのニュースウオッチ9に出たのはすごく良かった。

——将来的にミュージカルでやりたいことは何ですか?

原田 そろそろ日本でも、ミュージカルをコンサート・スタイルでやっていきたい。アメリカではあるけど、日本では少ないじゃない。それはそろそろやりたいと思う。名作ミュージカルを、生オーケストラで、声にはPA(音響機材)を入れて、いいホールで、一作丸ごとやりたい。ミュージカル系のスターたちとコラボしたい。

僕が目指しているのは、ジャンルレスな(ジャンルのない)音楽の世界。だから敢えてN響とミュージカルのプログラムをやるのは、僕のやりたいこととメチャ合っている。日本のトップ・クラスのオーケストラとやるのはすごく意味があると思う。

小学生の頃からミュージカル大好き!
原田慶太楼
小学生の頃からミュージカル大好き!
原田慶太楼 指揮者

現在、アメリカ、ヨーロッパ、アジアを中心に目覚しい活躍を続けている期待の俊英。シンシナティ交響楽団およびシンシナティ・ポップス・オーケストラ、アリゾナ・オペラ、リッチ...

取材・文
山田治生
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山田治生 音楽評論家

1964年京都市生まれ。1987年、慶應義塾大学経済学部卒業。1990年から音楽に関する執筆活動を行う。著書に、小澤征爾の評伝である「音楽の旅人 -ある日本人指揮者の...

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