第6回:音楽療法士 下川英子さん
「音楽療法」という言葉をご存知でしょうか。音楽のもつ力を活用して、人の成長を促したり、問題や障がいを軽減させて良くしようとする行ないです。「音楽療法士」として仕事に従事する人々は、日本中の児童施設、高齢者施設、病院などを現場として、赤ちゃんから高齢者まで、さまざまな人を対象にセッションを行なっています。
セッションは、歌や楽器を使って実際に音楽療法が行なわれる現場。療法を受ける個人またはグループが、療法士と音楽を通じてコミュニケーションをはかります。療法を受ける人の反応を見ながら、療法士はそのとき、その場で、より効果的なセッションを即興的に繰り広げていきます。その方法も、そして効果も、関わる人の数だけ、セッションの数だけ生まれます。
今回登場する音楽療法士の下川英子さんは、埼玉、東京を中心に活動されています。対象としているのは、重症心身障がい、発達障がい、肢体不自由、知的障がいなどを抱えた子どもたち。下川さんのお仕事について、また音楽療法に携わることになった経緯についてお伺いました。そこには驚きの人生ドラマが……!
音楽療法のお仕事、その現場とは?
音楽療法の現場
――下川さんは埼玉療育園など、障がいを抱えた子どもたちをケアする療育センターや保育園などを中心に、日々セッションをされています。どんなお子さんに、どんな音楽療法をなさっているか、少し具体的に教えてもらえますか?
下川 私のところには重度の障がいを抱えた子どもたちがやって来ます。埼玉療育園では、リハビリテーション科なので医師のもとでセッションを進めます。例えば、急性脳症の後遺症があるお子さんや、発達障がいのお子さんは、人とのコミュニケーションが取れなかったり、言葉を発せられなかったりする方もあります。医師の処方箋に基づいて、私はどんなセッションによって、その子のコミュニケーションに対する関心や力を引き出せるかを考えます。
――お医者さんと連携されておられるのですね。
下川 はい。幸いにも私の場合は、音楽療法に理解のあるドクターたちとの連携が図れています。
ある12歳の急性脳症後遺症の男の子は何も話すことができず、楽器にも興味を示しませんでした。でも、足踏みで音を鳴らすことに気づきました。そこで、その子の足音に合わせて、私がピアノで和音を弾いていました。言葉の代わりに音を介在させるのです。やがてその子は自分の足踏みに合わせて、私が音を出していることに気がつきました。他人とのコミュニケーションを認識することができたのです。その後1台のピアノを弾きあったり、タンバリンでやりとりをしたりするうちに、ボディサインがたくさん出るようになりました。それが彼の言葉だったと思います。
11歳の発達障がいの男の子は、お母さんとゆっくり向き合うこともできませんでした。ある日のセッションで、その子が鳴らすラッパ(クワイヤーホーン)に合わせて、お母さんにも5度違う音のラッパを吹いてもらいました。私はその音に合わせ、邪魔しないように即興でピアノを入れていきます。男の子とお母さんの音のやりとりは止まらず、なんと22分間も続いたのです! お母さんは、我が子とそんなに長く落ち着いて向き合えたのは初めてだったそうです。それからしばらくして、言葉がぽつぽつ出始めました。単語ではなく2語文も出ました! 「ピザ買って」と。
――最初から2語文! すごいことですね。
下川 そうです。子どもたちの中には、たくさんのものが詰まっています。子どもからの発信を見逃さず、音楽のフレキシブルな面を活用しながら、その子の伝えたいと思う気持ち=コミュニケーションの力を引き出すのです。
――身体的な障がいについては、いかがでしょうか。
下川 私がライフワークとしているレット症候群のお子さんは、タイプもさまざまですが、多くの場合で言葉を発さず、手を揉むような常同運動があるため、物を掴んだり持ち続けることに不自由を抱えています。
でも、目の動きや表情などから、その子が好きな楽器、好きな歌を読み取ることはできます。中身が見える透明のマラカスや手のサイズに合わせたマレット、市販のキーボードを改造して作る7色キーボードなど、手作りの楽器を用いてその子の関心を引き出し、微細な力を生かす工夫をすると、自らマレットを把握したり、楽器を鳴らすという操作が少しずつできるようになっていくんですよ。何年もかかりますけれど……。
その子その子によって、好きな曲、嫌いな曲、お気に入りの楽器などがちゃんとあるので、セッションでは微細な反応もちゃんと捉えていくことが大事です。
▼ この日は、小さな頃から下川さんのもとに通われている、レット症候群の田中花歩さんのセッションを拝見!
――お子さんのちょっとした仕草や視線などから、その子の求めていることや、できそうなことを見逃さない。そして音楽や楽器を即興的に使って、さらに力を引き出してあげる。下川さんのセッションでは、その場ではとても優しい時間が流れているのに、すごいことがなされていますね!
下川 何年経っても難しいです! ピアノが上手に弾ける先生でも、即興は難しいかもしれません。でも、音楽療法には「これが正しいやり方」と言えるようなものがないんです。そのとき、その場の反応に対応していくことが大切なので。でも、じゃあどういう場面で即興を使ったらいいかとか、そういうことが書かれた本もありませんしね。
――でも、下川さんは2009年に『音楽療法・音あそび』という本を書かれ、セッションで使える歌の伴奏がついた楽譜、その歌に合わせて行える遊びをまとめておられます。それまでこういった本が何もなかったと思うと、多くの療法士の方にとって頼れる教科書となったのではないでしょうか。
下川 ああ、確かにその本は、ボロボロになるまで使い込んだ方とお会いすることがあるので、とてもありがたいですね。でも、その本は保育園児や軽症の子ども向けなのです。今後、もっと重症の方のために少しでも役に立つことを残したいです。
音楽療法の「効果」
――音楽の響きや、カラフルな楽器などが刺激となって、障がいを抱えたお子さんにできなかったことができるようになるというのは、素晴らしいことですね。
下川 障がいを「治せる」わけではないので、少しでも軽減させることができればと思っています。でも、私一人の音楽療法の力で良くなったとは絶対に思わないようにしています。お母様たち、保育士さん、支援学校の先生たち、理学療法士や作業療法士、言語聴覚療法士やドクターたちなど多くの人が関わり合って、その子自身の力で成長していかれます。私はその一端をちょっと手伝っているだけです。
――とはいえ、音楽療法の力をもっともっと世の中に認知させて、たとえば、国からのサポートをこの分野に厚くしてほしいといった動きもありますよね。この分野の情報誌などには、そのための「科学的エビデンス」(根拠)が課題だというようなドキュメントが散見されます。
下川 国に認めてもらうためには、やはり科学的エビデンスはどうしても必要になります。どういう尺度で、どんなエビデンスを積み重ねていくかというと、私の場合はレット症候群に常同運動があることから、物を持つ時間の増加をグラフで出せるようにしています。
先天性多発性関節拘縮症については、東京電機大学の先生と動作解析の方法をアレンジしています。発達障がいの場合は、発達スケールがいろいろとありますね。
私が重症の子の療法をやりたいというのは、実はエビデンスを数量的に出しやすいというのもあるのかもしれません。
でも、音楽の一番いいところって、そんなに数字で表せないところだったりするので、なかなか難しいけれど。
――そうですよね……。ふわっとしたところが音楽のいいところ。でも療法が魔術みたいに捉えられても困りますね。
下川 音楽の効果については、最近では脳科学の分野で随分いろいろなことがわかるようになってきました。音楽を聴いただけでも、いろいろなホルモンに影響が出るということは、多くの論文に書かれています。
私も長野県のドクターの研究に加えていただいたことがありますが、高齢者5人をピックアップして、セッションを行なう前に血液を採取。セッションが終わってまた採取して、信州大学に検体を持っていき調べるというものでした。
すると、免疫力を高めるNK細胞が有意に増えたんです! でも、被験者の中でただ一人だけ、減った人がいました。私なんです(笑)。セッションでいかにエネルギーを使って疲れたか。この結果には笑ってしまいました。
▼ 取材当日に下川さんのご自宅で行なわれた、レット症候群のクライエント田中花歩ちゃんとのセッションのダイジェスト動画
生きるために必死だったころ
声明との出会い
――下川さんは藝大の作曲科のご出身でいらっしゃいますが、作曲の世界と音楽療法の世界がどのように結びついたのでしょうか。どんなきっかけで音楽療法に携われるようになったのですか?
下川 そうですねぇ……あの人と一緒にならなかったら、この仕事はしてないですね。
――あ、ご主人様ですね? 彫刻家の下川昭宣さん。こちらのご自宅にも、お庭や廊下に動物をモチーフにされた作品があちこちに。彫刻と音楽療法とに接点が?
下川 いえ、そうじゃないんです。主人とは藝大時代に学生結婚したんですが、彫刻家って容易に食べていける職業じゃないんですよ。だから私、なんでもやって、二人の息子を育てるためにもがんばらなきゃいけなかった。
――そっちの理由……ですか。
下川 ええ。でも幸せなことですよ、とてもありがたいこと。いろいろな経験をさせてもらっていますから。私はもともと、子どもを産むことも諦めていたんですから。
――そうなのですか?
下川 幼少期はとてもやんちゃで、科学者の両親が私を保育園に預けても脱走を繰り返すような子どもだったんです。先生のヘタクソな伴奏で「チューリップ」を歌わされることが大嫌いでね(笑)。
でも身体が弱くて、小学校時代は入退院を繰り返し、3分の1くらい休んだ学年もありました。14歳のころ、母から「あなたはこのままだと結婚も出産もできないかもしれないってお医者さんが言うから、一生懸命自分の好きなことをやりなさいね」って言われたんです。だから、父から猛反対されても作曲の勉強を始めました。
――そうだったんですか……。
下川 母は応援してくれたけれど、父は藝大受験も断固反対。合格発表の日、私は自分の貯金通帳を持って、もし不合格ならそのまま逃げ出して、自分一人で働いて、もう一つの憧れの道、考古学を勉強しようと考えていたんですよ。
――学生の頃から、独立心が旺盛でいらしたんですね!
下川 合格できて藝大に入りましたが、そこで声明(しょうみょう)との出会いがありました。小泉文夫先生の授業で聴かせていただき衝撃を受けました。で、もう、その週には比叡山に行ってましたね。
――早い! すごい行動力です。
下川 だって、作曲の先生はすごく厳しいし、ベートーヴェンの32曲のピアノソナタ全曲アナリーゼをやったときに、ベートーヴェン的世界は私には合わないと思ったのです。
そこで声明にピーンときたんです。比叡山に入って、人間国宝の中山玄雄先生に出会いました。教えてくださる先生をご紹介いただき、習いにも行きましたね。女性は正式な声明師として法要に出ることなどは認められないのですけど。
声明に惹かれた下地には、やっぱり子ども時代の経験があります。母がクリスチャンの女学校を卒業していた影響で、私は修道院でピアノを習っていました。その修道院は、神父様も修道女さんもみんな外国人。ミサはすべてラテン語で行われていて、朗々と歌われるグレゴリオ聖歌を私も耳にしていたんです。
――なるほど。グレゴリオ聖歌と声明は、どちらも祈り、儀式のための朗唱ですものね。
下川 だから、声明を聴いたとき、こんなに心揺さぶられるものがあるだろうか、と。東大寺のお水取りには学生時代7年間通いましたよ。お水取りの声明はまた通常のものと違い、いろんな地方の、たとえばイスラムあたりの拝火教や、北の宗教、南の宗教なんかがシルクロードを通ってやって来て吹き溜まっちゃったような、壮大なオペラなんです。
――オペラ!?
下川 そう、絶対そう思う! だって14日間、毎日音楽が、歌い方が、少しずつ変わっていくんです。最初ゆったりしていた声明が、どんどん速くなっていきます。11人の練行衆が火をバーンッと床に打ち付けて火の粉をぱーっと飛び散らせたり、東大寺の天狗を追い払うために、休憩時間に「ちょーず! ちょーず!」って大声で唱えながら歩くんですよ。一つ一つの所作にすべて意味があって不思議な世界。素晴らしいの一言!
――穏やかだった下川さん、声明のお話になると熱い……。
下川 でも怖いこともありました。夜中の2時とか3時とかに終わりますからね。宿泊先は1泊200円くらいで泊まれた藝大付属古美術研究施設。歩いて20分くらいでしたが、よく暴力団みたいな人に手を掴まれるの! ポケットに石ころいっぱい詰めて、投げながら「たすけてー!」って叫びながら帰るの。
――そんな、ある意味、命がけじゃないですか!
下川 そう、だからね、よく美術の学生たちも泊まりに来ていたので、ボディガードをお願いしたの。「深夜2時に二月堂まで迎えに来てくださいませんか」って。その一人が今の主人。体格大きかったから。
――そこが出会いでしたか! まさかのボディーガードからのスタート。
下川 そのご縁で大学院1年のときに結婚して、2年で長男が生まれました。結婚も出産も急いだ理由は、自分の身体のこと。藝大ではワンダーフォーゲル部にも入って、どんどん丈夫になっていたので、「もしかしたら子どもを産めるかもしれない!」って思ったんです。夢だったから。
――いやしかし……かなりハードな選択をなさいますよね。
下川 でも、無事に長男を産むことができました。
生きるために、土方もやりました
――身体が強くはないのに、学生で出産もされて……。
下川 さすがに大学院は1年休学しました。体調が戻るのには時間がかかりましたね。ピアノの先生が藝大受験の生徒さんを回してくれて、レッスンなどもしていましたが、それだけでは食べていくのは難しかったですね。
編曲や作曲の仕事もしましたよ。アルバイトでNHKの編曲をしたり、旧姓の「若尾英子」の名前で、宮内庁楽部と共演したり、桑島すみれ先生のハープの曲もいっぱい書きました。
でも無理がかかったのか、33歳で膠原病を患いました。39歳まで。6年間でステロイド剤治療を終えました。膠原病は難病として緑色の手帳をいただけるんです。それによって医療費もタダになり、区から月々数万円お見舞い費をいただけました。
でも私、その手帳を返納したんです。「ここが悪い」「節々が痛い」と言えば、すぐにお医者さんは対応してくださり、手帳を継続することもできましたが、それをずっと続けたら、私は自分で自分の中に病気を探し続けてしまいそうな気がして。そんなの嫌だなと思って手帳をお返したんです。膠原病で入退院を繰り返していたころも、ずっと主人が子どもたちを見てくれていました。なにせ彫刻家は家にいますからね。
その後、身体は丈夫になって、家族を養うためになんでもやりました。生きるために必死。だから私、土方もやったんですよ。
――ド、ドカタ!?
下川 広報誌に募集が出ていたんです。1日7千円ももらえる仕事。1ヶ月10万円もあれば、家族4人が暮らせた時代です。
――ということは、相当ハードな仕事なのでは? 土方って、一体なにを?
下川 発掘です。世田谷区の埋蔵文化財発掘の仕事を9年間やりました。毎日毎日泥んこになって。夏なんか、52度くらいの穴の中で作業することもあるのですよ。
ショックだったのは、あるとき、あまりに暑くてお蕎麦屋さんに入ろうとしたら、小声で「ご遠慮願えませんか?」って入店を拒否されたこと。あまりに泥んこで。ああそうか、私、土方だったんだって。やっぱり道路の隅っこでタオル巻いてるのがお似合いだったんでしょうね。
でも考古学は憧れだったし、好きなことだから辛くはなかったですよ。私の得意分野、なんだかわかります? ふふふ……。縄文が得意な人、弥生が得意な人とか、いろいろいるんですけどね、私は旧石器時代なんですよ。世田谷には関東ローム層も、その下にも素晴らしい堆積があるんです。それらを「ミリはぎ」といって、シャベルで数ミリずつ削っていく。そのときに、チッと小さな音がするんです。そういうときは石器が入っている可能性がある。
普通の人は、その音に気付かずに切り続けちゃうんですが、私はそれを見つけることが好きでした。私一人ではないですが、世田谷で最古の石器を出して、新聞にも出たことがあるんですよ(笑)。
――これまた下川さんの意外すぎる一面! 驚きました。発掘の話をする下川さん、熱い……。
下川 主人がいなかったら、そんな仕事やらなかったでしょうね。普通にスポンサーとして食費をいただく生活だったら、作曲だけやっていたと思います。でも何でもやらなくちゃいけなかったから。幸せだったと思います。いろんな世界のことができて。
――すごいです……と、すでにお腹いっぱいになりかけてましたが、気づけば下川さん、まだ音楽療法のお話が出てきていません! 大学を出てすぐ音楽療法の世界、というわけではなかったのですね?
下川 遅かったです。音楽療法の専門学校に通い始めたのは、46歳でしたから。
子どものための音楽療法を
ぜんぶ子どもたちに教えてもらう
――本日お会いするまで、下川さんは藝大を出てすぐに音楽療法の世界に飛び込まれたのかと思っていました。なんと46歳から学び始められたとは。どんなきっかけがあったのですか?
下川 音楽療法という分野があると知ったのは、学生の頃なんですよ。心理学を教えていらした桜林仁先生が、授業で音楽療法のお話ばかりされていたのです。たぶん、音楽療法を日本に最初に持ってこられたのが桜林先生だったのだと思います。『生活の芸術〜芸術心理学の立場』(誠信書房/1962)という本が教科書でした。
アメリカで音楽療法が生まれたのは、第二次世界大戦で人殺しをしたアメリカ兵たちがすごく心を病んでしまって、その人たちの救済のために始まった、と授業でお話されていました。もちろん、音楽を使った魔術のようなものは、太古の昔からあったとは思いますが、いわゆる近代の音楽療法はそこからなのです。
先生の講義を聞いていたら、ふとね、自分が入院していた子どもの頃のことを思い出したんです。入院って、とてもつまらなかった。
8時に消灯で退屈でしたから、私はよく布団をかぶって歌を歌ってたんです。ふと気づくと、4人部屋のみんなが歌っていました。「夕焼け小焼け」などの童謡を。看護師さんがライトを持って入ってきて、「誰が歌い始めたの!」って毎晩怒られていましたね。
隣はガラスで仕切られた8人部屋だったんですけれど、ある日また歌っていたら、隣の子どもたちも全員歌ってるんです。ああ、ここにピアノがあったら私弾くのにな……って思った。
その記憶があったので、音楽療法に子どもを対象にしたものがあってもいいんじゃないかと思ったんです。それで、桜林先生にたくさん質問しました。子どもの音楽療法ありますか? って。先生は「アメリカにはある」と。で、「君は勉強したいならアメリカに行きなさい」と言われたけれど、父が作曲も反対していたくらいだから、とても認めてもらえない……と、ぐじぐじしてました。
だからずっと「音楽療法」というのは、私の心の中でくすぶり続けていたんですね。20年以上も。実際に、音楽療法の専門学校に行ったのは、46歳になってから。20年以上あるんですよ、ブランクが。
――そうだったんですか! 20年を経て、下川さんを音楽療法へと突き動かしたものは何だったのですか?
下川 桜林先生がお亡くなりになったという死亡記事です。それを見たとき、すごく焦りました。もっと早くに勉強すればよかった、と。でも、勉強するにはお金もいるしね。埋蔵文化財の仕事で食費を稼ぐほかに、専門学校で勉強する費用も貯めました。
――専門学校は何年間なのですか?
下川 私が通った江原音楽療法専門学校は2年間。でも、私はソルフェージュとか、音楽の基礎的な授業は全部なしで、オープンカレッジのようなものでした。
――そりゃそうですよね、藝大の作曲を出られているので。
――そこで、下川さんの子ども向けの音楽療法が始まったのですね。
下川 最初は手探りもいいところ。本当に勉強の連続。今でもわからないことばかり。でも、重い症状を抱えたいろんな子たちに出会えて、いろんな経験をさせてもらって。子どもたちがたくさんのことを教えてくれます。途中で亡くなられる方もいらっしゃって、お葬式で私が演奏をさせていただいたこともありました。そういう涙の経験の積み重ねばかりです。
そして、お母さんたちとの出会い。どれだけお母さんたちは大変か。自分のお子さんを可愛いと思えなくなってしまうこともあります。夜逃げの相談もありました。ただお話を聴くだけ。でも、困難を乗り越えて力強くがんばっておられるお母さんたちは、本当に輝いています!
だから、最初の1年くらいはお母さんも一緒にセッションをやってもらいます。我が子とゆっくり向き合ってもらうのです。
求められるドクターとの連携
――下川さんが手探りでスタートされた、子ども向けの音楽療法。小児神経科医の先生たちと連携されながら進めていらっしゃるとのことでしたね。
下川 そうです。お医者さんから「コミュニケーションを活発に」とか「随意運動を引き出す」といった依頼箋が私に出されます。ただ、これは一般的なことではありません。私は幸いにもドクターと連携できる職場に入ることができたので。
埼玉療育園で小児神経科医と出会えたのです。何度もセッションを見ていただいたら「面白いな。音楽には何か力があるね」と理解を示してくださったのです。今も日本小児神経学会に入っていますが、やはりドクターに認めてもらって一緒に研究を進めるには、まだまだハードルがあります。
――この分野を活性化させるためにも、お医者さんと音楽療法士さんとの連携はこれからもっと必要になっていくのではないでしょうか。
下川 必要だと思います。脳神経、精神科ではだいぶ増えてきましたが、まだ少ないですね。音楽を薬と同じように処方すればよいと思ってしまう方も、中にはいらっしゃいます。
子どもによって好きな曲は違うし、その時々でこちらのアレンジも変わります。同じ「チューリップ」の歌でも、静か〜に弾いて聴かせれば、2歳児でもみんなシーンとしながら聴き入るし、ジャズっぽく元気に弾けば、みんなウキウキして飛び跳ね出す。CDをかければいいわけではなくて、演奏する人が必要になる。
「同じ曲だって違うんですよ」と伝えても「そりゃ薬にならんなぁ」と言われてしまうんですね。
――音楽のあり方に精通したお医者さんでないと、わかっていただけないんですね。医学と音楽に橋渡しが必要かも。
下川 私の頭で医学には精通しきれないですし、ドクターにも音楽を研究しようと思っていただかなければならない。だからこそ連携が必要なのですが、決裂しちゃうことがあるのも事実で、悲しいですね。
――下川さんの、これからの夢は何でしょうか。
下川 とにかく研究を続けて、重症の子どもたちのことをまとめて、報告して終わるのが夢です。症例報告はこれまでにも、日本小児神経学会や日本音楽療法学会でしていますが、特にレット症候群について論文をまとめることは、私の責任だなと思っています。
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