大正時代に作られた童謡~歌えるプレイリスト(歌詞つき!)
《七つの子》《夕焼け小焼け》など、子どもの頃に口ずさんだなつかしいあの歌は、実は大正時代に作られています。童謡黎明期に生まれた名曲をご紹介します。
ONTOMO編集部員/ライター。高校卒業後渡米。ニューヨーク市立大学ブルックリン校音楽院卒。趣味は爆音音楽鑑賞と読書(SFと翻訳ものとノンフィクションが好物)。音楽は...
1918年――日本は大正時代。
日清・日露につづき、第一次世界大戦……と戦争に明け暮れていた当時の日本は、「教育」といえば国威高揚が目的で、子どもの感性に寄り添った歌が存在しませんでした。
そこで、「子どもに良いものを与えたい」という鈴木三重吉の想いに共感した若き作家や詩人、画家たちが集まり、児童雑誌『赤い鳥』を創刊。ここから童謡の歴史が始まります。
※童謡誕生の歴史については、こちらの記事をどうぞ!
今回は、童謡の黎明期である「大正時代」に作られた童謡をご紹介します。歌詞も掲載しましたので、ぜひ歌ってみて下さいね。
『かなりや』 ひばり児童合唱団 創立70周年記念公演より
《かなりや》(1918年) 西条八十・作詞/成田為三・作曲
生きていると、何やら歌を忘れてしまうような心持ちになることはありませんか。「歌を忘れたカナリヤは……」という文言で始まるこの詞には、生活苦のため半ば文学の道を諦めかけていた西条八十の想いが込められています。
『日本童謡全集』(日本蓄音機商会/昭和12年)に西条八十が寄稿した文章にこう書かれています。
「人間でも、鳥でも、獣でも誰にでも仕事のできないときがあります。(中略)ほかの人たちには、なまけているように見えても、その当人は、なにかほかの人にわからないことで苦しんでいるのかも知れません。たとえば、このかなりやも、このあいだまで歌っていた歌よりも、もっといい歌を美しい声でこれからうたいだそうとして、いま苦しんでいるのかもしれません」。
西条八十はその後、詩人として大成し、数々の名作を残しました。
唄を忘れた金絲雀(かなりや)は
後(うしろ)の山に棄てましょか。
いえいえそれはなりませぬ。
唄を忘れた金絲雀は
背戸の小藪に埋めましょか。
いえいえそれはなりませぬ。
唄を忘れた金絲雀は
柳の鞭でぶちましょか。
いえいえそれはかわいそう。
唄を忘れた金絲雀は
象牙の船に銀の櫂
月夜の海に浮べれば
忘れた唄をおもひだす。
《赤い鳥、小鳥》(1918年) 北原白秋・作詞/成田為三・作曲
鈴木三重吉によって『赤い鳥』の童謡担当に抜擢された北原白秋。童謡運動の中心的人物として活躍します。
『赤い鳥、小鳥』は、生涯で1200編を超える童謡を残したといわれる白秋の、「原点」とも呼べる作品です。創刊号にまず詞が掲載され、後ほど成田為三によって楽曲がつけられました。
「赤い実を食べたから赤くなった」? なんのこっちゃですが、子どもの目線に立ってみると、子どもらしい豊かな感性に寄り添った詞であることがわかります。常識に凝り固まった大人の頭ではなかなか出てこない発想ですね。
あかいとりことり
なぜなぜあかい
あかいみをたべた
しろいとりことり
なぜなぜしろい
しろいみをたべた
あおいとりことり
なぜなぜあおい
あおいみをたべた
《十五夜お月さん》(1920年) 野口雨情・作詞/本居長世・作曲
野口雨情が作詞した曲といえば、『シャボン玉』が有名です。
作曲家の本居長世と組み、数々のヒット曲(!)を生み出しました。『十五夜お月さん』はこのタッグによる記念すべき第1曲。
なんとも物悲しいメロディですが、歌詞を読み解いてみると、「離ればなれになってしまったお手伝いのばあやと妹、死んでしまったお母さん」……一家離散の歌だとわかります。
雨情は若くして父と母を失い、離婚を経験しています。私たちもしばしば物悲しい気持ちで月を見上げるものですが、雨情も同じように十五夜お月さんを見上げていたのでしょうか。
十五夜お月さん ごきげんさん
ばあやは おいとまとりました
十五夜お月さん 妹は
田舎へもられて(貰られて)ゆきました
十五夜お月さん かかさん(母さん)に
もいちどわたしは あいたいな
《雨降りお月さん》(1925年)野口雨情・作詞/中山晋平・作曲
雨情のお月様シリーズ。しかし「雨降り」なので、月は雲の蔭に隠れて見えません。
この歌詞の背景には諸説あるそうです。ひとつは、野口夫人が嫁いできたその日を歌ったというもの。雨情が住んでいた地域には、花嫁が馬に乗ってくるというしきたりがありましたが、雨情夫人・ひろが嫁いできたその日は雨が降っていたそうです。
もうひとつは、2歳で死んでしまった娘を想って書かれたという説。
いずれにしても、歌われているのは「1人で馬に揺られ、雨に濡れてお嫁にいく」という、心寂しい情景です。
「花嫁を迎える夫」「娘がお嫁にもらわれていく父親」……といろいろな視点から味わえる名作です。
雨降りお月さん 雲の蔭
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
一人で傘(からかさ)さしてゆく
傘ないときゃ 誰とゆく
シャラシャラシャンシャン鈴つけた
お馬にゆられて ぬれてゆく
急がにゃお馬よ 夜があけよう
手綱の下から チョイとみたりゃ
お袖でお顔を 隠してる
お袖はぬれても 干しや かわく
雨降りお月さん 雲の蔭
お馬にゆられて ぬれてゆく
《青い眼の人形》(1921年) 野口雨情・作詞/本居長世・作曲
「青い眼をしたお人形」とは、キューピー人形のこと。当時子どもたちの間ではキューピー人形が大人気で、それを見た雨情が着想を得て書きました。
日米関係が緊張していた1927年、日米親善活動として1万2000体にも及ぶ人形が日本の子どもたちに贈られます。そのうち、戦火を潜り抜けた数百体の青い眼の人形たちが、今も各地に現存しています。
青い眼をした お人形は アメリカ生れの セルロイド
日本の港へ ついたとき一杯涙をうかべてた
「私は言葉がわからない 迷い子になったらなんとしよう」
やさしい日本の 嬢ちゃんよ仲よく遊んでやっとくれ
仲よく遊んでやっとくれ
《七つの子》(1921年) 野口雨情・作詞/本居長世・作曲
『七つの子』は誰でも知っている歌ではないでしょうか。ところが歌詞を紐解いてみると……「七つの」って、7歳? 7羽? カラスは7年も生きないし7個も卵産まないし、どっちなのよ? と大論争になっている、有名な「謎解き童謡」です。いやはや、雨情さんはいくつの謎を残したら気が済むのでしょうか。
それらしいのは、七五三にかけているという説。当時は現代のように医療が発達しておらず、乳幼児の死亡が珍しくありませんでした。そこで、3歳・5歳・7歳と成長の節目を祝ったわけですが、「カラスのかわいい7つの子」には、どうやら「7歳まで無事に育ったかわいい我が子」という意味が込められているようです。
烏なぜ啼くの 烏は山に 可愛七つの 子があるからよ
可愛可愛と 烏は啼くの 可愛可愛と 啼くんだよ
山の古巣へ いって見て御覧 丸い目をした いい子だよ
《夕焼け小焼け》(1923年) 中村雨紅・作詞/草川信・作曲
夕焼けが郷愁の念を呼び起こすのはなぜでしょうか。子どもの頃のあの日、暗くなる前に急ぎ家に帰った記憶が蘇るからかもしれません。
日暮里の小学校で教員を務めていた中村雨紅は、八王子の居宅まで毎日16キロの家路を歩きました。そのとき見た夕焼けの情景が歌われているのだとか。
ところで、皆さんの住む地域で流れる「5時の音楽」はなんですか? 筆者の地元では、ドヴォルザークの交響曲第9番第2楽章の旋律、『遠き山に日は落ちて』が流れます。「夕暮れ時の情景」は、世界共通でノスタルジアを呼び起こすようですね。
夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘がなる
おててつないでみなかえろう
からすといっしょにかえりましょ
子供がかえったあとからは
まるい大きなお月さま
小鳥が夢を見るころは
空にはきらきら金の星
《赤とんぼ》(1921年) 三木露風・作詞/山田耕作・作曲
作詞者の三木露風は、満5歳で両親の離婚を経験しています。幼き日の露風は、どんな気持ちで去っていく母親の背中を見送ったのでしょうか。
この歌の主人公を背負って(「負われて」)いたのは子守娘であるということが露風本人の文章から判明していますが、母親を想う気持ちが込められていることは想像に難くありません。
「負われて(おんぶされて)赤とんぼを見た子どもの日」という子どもの頃の記憶から始まり、「竿の先にとまった赤とんぼを見ている現在のわたし」に戻ってきます。短い歌ながら、遠い過去から現在まで旅したような心持ちになる、不思議に切ない歌です。
夕焼小焼の 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か
山の畑の 桑の実を
小籠(こかご)に摘んだは まぼろしか
十五で姐や(ねえや)は 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた
夕焼小焼の 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先
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