《ミサ・ソレムニス ニ長調》より「サンクトゥス/ベネディクトゥス」——大公に作品を献呈、出版交渉の決着は?
生誕250年にあたる2020年、ベートーヴェン研究の第一人者である平野昭さん監修のもと、1日1曲ベートーヴェン作品を作曲年順に紹介する日めくり企画!
仕事終わりや寝る前のひと時に、楽聖ベートーヴェンの成長・進化を感じましょう。
48歳となったベートーヴェン。作品数自体は、これまでのハイペースが嘘のように少なくなります。しかし、そこに並ぶのは各ジャンルの最高峰と呼ばれる作品ばかり。楽聖の「最後の10年」とは、どんなものだったのでしょう。
東京・神楽坂にある音楽之友社を拠点に、Webマガジン「ONTOMO」の企画・取材・編集をしています。「音楽っていいなぁ、を毎日に。」を掲げ、やさしく・ふかく・おもしろ...
大公に作品を献呈、出版交渉の決着は?《ミサ・ソレムニス ニ長調》より「サンクトゥス/ベネディクトゥス」
昨日、《ミサ・ソレムニス》を出版するにあたってのジムロック社とのやりとりをご紹介しました。なかなか完成に至らず、出版の目処が立たなかったこの作品。その後、出版交渉はどのように進んだのでしょうか。
前記のジムロックからの手紙の後ベートーヴェンは新たにライプツィヒのペータース社、パリのモーリス・シュレジンガー社、ウィーンのアルタリア社とシュタイナー社などとも出版交渉を始めている。特にペータース社とは6月から9月までの間に8通の手紙を交わし、前金として360フローリンまで受け取って、出版のための譲渡を約束していた。しかし、結果的に《ミサ・ソレムニス》はベートーヴェンが他界した数日後の1827年4月にマインツとパリのショット社から出版されることになる(註:ショット社は前年夏に交響曲第9番作品125の初版を出版し、ベートーヴェンから熱い信頼を得ていた)。
完成したミサ曲の浄書譜を作らせ、それを献呈譜としてベートーヴェン自身がルドルフ大公に持参したのは1823年3月19日であった。浄書スコア第1章〈キリエ〉冒頭にはベートーヴェンにより「心より出で、願わくば、再び心に至らんことを Von Herzen ~ Möge es wieder ~ zu Herzen gehn!」と記されている。
話は1821年に遡る。この年の1月10日付の『総合音楽新聞AMZ』に「ベートーヴェン氏はリューマチ熱を患っていて、彼の音楽を愛好するすべての人がその症状を心配し、懸念していた。その後快方に向かい、今では元気に創作を始めるまでになっている」といった旨の記事が見られる。この内容からすると、前年末ころから体調を崩していたようだ。
——平野昭著 作曲家◎人と作品シリーズ『ベートーヴェン』(音楽之友社)171、172ページより
結局、ベートーヴェンはこの作品の出版を見届けることができません。しかし、着手から約4年経った1823年、無事にルドルフ大公へ贈ることができました。
1821年に体調を崩してしまったことは、このミサ曲の完成が大幅に遅れたことに影響しているかもしれません。彼はルドルフ大公へ宛てた手紙の中で病状について触れています。それについては明日ご紹介します。
《ミサ・ソレムニス ニ長調》Op.123
作曲年代:1819年4月初旬〜23年3月(ベートーヴェン48歳〜52歳)
初演:1823年3月26日
出版:1827年4月
ルドルフ大公に献呈
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