連載
2025.02.23
ハプスブルク帝国の音楽世界 第3回

ヨハン・シュトラウス2世と明治時代の日本人~日本で鑑賞した天皇とヨーロッパでワルツやオペレッタに触れた幸田延

近世ハプスブルク君主国史が専門の歴史学者・岩﨑周一さんが、ハプスブルク帝国の音楽世界にナビゲート!
第3回は、ヨハン・シュトラウス2世と日本人の関わりに着目し、ヨハン・シュトラウス2世の作品が日本で演奏されたという初めての記録と、ヨハン・シュトラウス2世在世中にオーストリアに留学した幸田延が聴いた評価を紹介します。

岩﨑周一
岩﨑周一 歴史学者

1974年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程総合社会科学研究専攻修了。博士(社会学)。現在、京都産業大学外国語学部教授。専門は近世ハプスブルク君主...

ボストンで開かれた世界平和記念祭・国際音楽祭(1872年)

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1869年に明治天皇がヨハン・シュトラウス2世の作品を鑑賞

またしてもヨハン・シュトラウス2世に関する話。生誕200年とはいえ、いささか芸がない気もする。しかし、明治期の日本(人)とのかかわりでいろいろと面白いことがわかったので、2回に分けて書かせてもらうことにした。もう一度お付き合いいただければありがたい。

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1867年、シュトラウスはパリ万博に出演して成功を収めた。よって、万博に初めて参加した日本から親善使節として派遣された徳川昭武や渋沢栄一らが、その演奏を聴いた可能性がある。しかし、それを立証する史料は見つかっていない。

そのため現在のところ、日本におけるシュトラウスの受容において特筆すべき最初の出来事は、1869年に「日本国澳地利洪牙利国修好通商航海条約」が締結されて、日本とハプスブルク君主国との間に国交が樹立された際に、ハプスブルク側の外交官が行なった御前演奏となるだろう。

10月18日に調印が完了した翌々日の20日、使節団は皇居に赴いて明治天皇に拝謁し、贈答品を献上した。この際に天皇は、ハプスブルクの皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が春子皇后に贈ったベーゼンドルファー社製のグランドピアノに目を留め、演奏を所望した。ハプスブルク側の外交官補オイゲン・ランゾネ男爵がこれに応え、「アンネン・ポルカ」とワルツ「学位授与式」を含む合計6曲を弾いた。こうしてシュトラウスの作品は、文字通り「天聴に達した」のであった。

ヨハン・シュトラウス2世:「アンネン・ポルカ」、ワルツ「学位授与式」

1871年から73年にかけて欧米諸国を歴訪した岩倉使節団は、シュトラウスと二度遭遇した。1872年6月、彼らはボストンで開幕したばかりの「世界平和記念祭・国際音楽祭」に招待されたが、そこでは出演者の一人だったシュトラウスが、「酒・女・歌」などを指揮していたのである。また彼らが翌年にハプスブルク君主国を訪れた時には、折から開催中だったウィーン万博にて、日本館の隣でシュトラウスの楽団が活動していた。

その後、軍楽隊や音楽取調掛(東京音楽学校および東京藝術大学音楽学部の前身、1880年に文部省内に設置)の活動などによって徐々に洋楽が国内に普及するなか、シュトラウスの音楽も浸透していった。例えば、明治中期の洋楽教育において重要な役割を果たし、「君が代」に伴奏・和声を付けたことで知られるフランツ・エッケルトは、「ピチカート・ポルカ」の箏3面編曲を行なっている。

ただ、1893年に来日した皇位継承者フランツ・フェルディナント(第一次世界大戦勃発の引き金となったサライェヴォ事件の犠牲者)によると、彼が乗艦した軍艦八重山の軍楽隊は、《カルメン》の作曲者をシュトラウスと誤記して演奏していたということで、これは黎明期ならではのエピソードといえるだろう。

フランツ・フェルディナント来日時の様子

世紀転換期にヨーロッパでヨハン・シュトラウス2世作品に触れた幸田延

一方、シュトラウス在世時に渡欧する機会を得た人々もいた。幸田延(1870~1946年、幸田露伴の妹)はその代表格だろう。幸田は第1回文部省派遣音楽留学生として、1890年8月から1895年9月中旬までの期間をウィーンで過ごした。後年、彼女はこの時期を振り返り、「ウイーンで過した五年間は隨分と勉强致しました」と語っているが、その甲斐あって最高水準の成績でウィーン音楽院を卒業している。その一方で彼女は、「良い音樂を澤山」聴きもした。ハンス・リヒターの指揮するウィーン・フィルのコンサートで、ベートーヴェンの「交響曲第5番」を聴いたときには、「この世にこんな立派な音楽があるのかと感涙にむせんだ」と語っている。

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
(https://www.ndl.go.jp/portrait/)
幸田延(1870~1946)
ピアニスト、ヴァイオリニスト、音楽教師、作曲家として活躍。クラシック音楽の分野で日本人初の作曲家ともいわれる。フランツ・エッケルトにヴァイオリンを師事していた。

幸田延:ヴァイオリン・ソナタ

しかし、幸田はシュトラウスに関する体験をほとんど語り残さなかった。1935年に音楽映画『ワルツ合戦』が公開された際、彼女は妹の安藤幸や山田耕筰らと共に、ウィーンとシュトラウスに関する座談会に出席した。しかし気乗りがしなかったようで、在欧時の体験を語るよう水を向けられても、「その時分は何にも知らないで、ぶらつと行つたのです」などと気のない返事に終始し、「知人宅で開かれたパーティーでシュトラウスとは意識せずにやったかもしれない」「映画のようにくるくる回るのでダンスは綺麗なものだった」という程度のことしか話さなかった。

ただ幸田は2度目の滞欧(1909~10年)の際、ベルリンで観た《こうもり》を「オペラ」としたうえで、「魅力的な音楽」とコメントしている。この時期の幸田は見聞きしたものに総じて辛辣だったので、この端的な高評価には目を惹かれる。さらに彼女は、レハールなどのオペレッタも積極的に観劇し、帰国直前にはシュトラウスの音楽について、サリヴァンやオッフェンバックと共に「軽くて魅惑的」と評した。

ヨハン・シュトラウス2世:《こうもり》

第一次大戦前には国内外を問わず、シュトラウスに芸術的価値をあまり認めない風潮がまだ幅を利かせていた(実はウィーン・フィルもそうだった)。シュトラウス本人もそれを認識し、「ダンス音楽を作曲できるだけの人間じゃないことを見せよう」と躍起になっていた。20世紀末の時点でさえ、ドイツ・グラモフォンの首脳部は「たかがダンス音楽に?」という思いから、カルロス・クライバーが指揮した1989年のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートのCD発売権をめぐる争奪戦から撤退している。しかし幸田は、柔軟な姿勢でその長所に着目し、今日とほぼ変わりない評価を与えたのだった。

岩﨑周一
岩﨑周一 歴史学者

1974年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程総合社会科学研究専攻修了。博士(社会学)。現在、京都産業大学外国語学部教授。専門は近世ハプスブルク君主...

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