ムーラン・ルージュのダンサーたち――ロートレックが愛した19世紀末のパリ
フォトジャーナリストの若月伸一さんと、美術史家の中村潤爾さんがヨーロッパの「場所」と音楽にまつわる「美術」を結び付ける連載、第3回はパリ・モンマルトル。19世紀末のパリをダンサーや娼婦たちとともに駆け抜けた画家、トゥールーズ=ロートレック。彼が愛した「ムーラン・ルージュ」に響くカンカン。
パリ・モンマルトルを散策
パリ唯一の高台は、標高130メートルのモンマルトル。その頂上には、フランス最大級のモザイク装飾を内部に持つサクレクール大聖堂が建つ。
土産物屋が並ぶわき道を行くと、18世紀後半より画家、詩人、歌手などボヘミアンが集まっていたテルトル広場に出る。現在でも画家たちが自分たちの絵を売ったり、似顔絵を書いたりしている。
広場から伸び、画家ユトリロが絵にしているモン=スニ通り。
このモン=スニ通りを道なりに進むと、60-70年代に活躍した歌手ダリダの胸像が見えてくる。ダリダは、1987年にモンマルトルの自宅で自殺。モンマルトル墓地に葬られた。
モンマルトル墓地にはダリダのほかにもベルリーズ、オッフェンバック、スタンダール、デュマ・フィスなど多くの著名人が眠る。
写真:若月伸一
アロン・ドロンとのデュエットで大ヒットした『Paroles Paroles』
ルピック通りに向かって道を降りていくとムーラン・ド・ラ・ギャレットが見えてくる。ここは労働者が安く酒を飲めて踊れる場所「ギャンゲット」のひとつだった。
オルセー美術館所蔵ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』はここで踊っている人々を描いたものだ。ムーランとは風車、ギャレットとはお菓子のこと。休日の昼下がりから夜中まで、酒やお菓子を食べながら踊ることができた。
ゴッホが住んでいたルピック通り54番地を通り、そのまま進むとブランシュ広場にでる。真っ赤な風車が目に飛び込んでくる。
ムーラン・ルージュだ。
ムーラン・ルージュとトゥールーズ=ロートレック
ムーラン・ルージュは、エッフェル塔が建てられた1889年の万博を機会に営業開始したキャバレーで、数々のスターダンサーを生み出した。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)はムーラン・ルージュの広告ポスターを制作し、一躍有名になった。
中央でスカートをたくし上げて踊る女性は、ムーラン・ルージュのトップダンサー、ルイーズ・ウェヴェール、通称「ラ・グリュ」。前面のシルクハットの男性は、彼女のダンスパートナー、しなやかな身のこなしゆえに「骨なし」とあだ名のついたヴァランタン。
左手前の黄色い物体はガス灯で、背景に続いているのがわかる。後景には、黒いシルエットの観客たち。べた塗りの色彩、輪郭を濃い線で示し形を単純化する手法は日本の浮世絵の影響。現在のムーラン・ルージュでは、ダンサーは観客席から一段上に設定された舞台で踊るが、当時は観客も踊れるような広い空間の一部でプロダンサーが踊りを披露していたことがわかる。
ラ・グリュが踊っているのが有名なフレンチ・カンカン。ジャック・オッフェンバックの《地獄のオルフェ(天国と地獄)》に合わせ、スカートをたくし上げ、相手の目の高さまで足をけり上げる。
ムーラン・ルージュのカンカン2019年バージョン
踊り子たちは、キュロットといわれる、半ズボンのような下着をはいていたが、下着を公衆の面前で見せて踊るなどというのは、当時では考えられないことだった。なかには用をたしやすいように、股の部分に切れ込みがある下着もあった。
ブルジョワ紳士はダンスを鑑賞したが、本当に見ようとしていたのは、スカートからむき出しになる、ストッキングをはいた足と、その先に見え隠れする下着だった。
ムーラン・ルージュ公式トレイラー
もろい絵画が映し出す「狂人ジャンヌ」の儚さ
ジャンヌ・アヴリルも、ムーラン・ルージュのスターダンサーのひとり。帽子が彼女のトレードマークで踊るときも決して脱がなかった。
それぞれのキャバレーでは、ダンサー独自のカンカンを披露し、観客はパフォーマンスの高さを比べるようにして鑑賞した。ジャンヌ・アヴリルは足を不規則にあらゆる方向にあげて踊るのを得意とし、その質の高さ、優雅さで定評があった。よく見るとそれぞれの足が反対に向いている。この踊りは、彼女自身かつて入っていた精神病院の女性患者にインスピレーションを得たといわれる。その経歴とダンススタイルから「狂人ジャンヌ」というあだ名で呼ばれていた。
ロートレックは、この絵画をキャバレーのジャンヌ・アヴリルが踊っている現場で描いた。キャンバスを使って描くのが当たり前の時代、下書きに使われることが多かった紙を使っている。吸収性がたかい紙の上に、大量のテレビン油で薄めた油絵具を使い、スピードある動きの一瞬をとらえようとした。
しかし、このように描かれた絵具はすぐ乾く半面、もろく、後に絵具がはがれても文句は言えない。この絵画のもろさ、不安定さ、はかなさはそのまま、ここで踊るダンサーの人生と重なる。表情に注目すると、深刻な顔つきで、目の下には、くまが見える。激しいダンスによる肉体的な負担、不規則な生活、アルコール。赤い唇と強いコントラストをつくる顔は青白く、疲労を隠せない。
ロートレックがダンサーや娼婦たちに示した尊敬と愛情
トップダンサーを6年続け、28歳になったラ・グリュは、ムーラン・ルージュを去る。彼女もまた、激しい踊りと、アルコールで心身ともに疲労していた。モンマルトルから離れ、パリの東、ヴァンセンヌの移動遊園地にダンス小屋を建てた。トゥールーズ・ロートレックはラ・グリュのために小屋の両脇に宣伝パネルを制作した。
入口左側に飾られたパネルは、ムーラン・ルージュで活躍する輝かしいスター時代のラ・グリュだ。スカートをたくしあげ、後ろにいる観客にお尻を見せている。
この「尻見せ」はラ・グリュ考案のポーズで、慎み深く、欲望を見せてはいけない当時の女性像に対する一種の挑発だった。隣にはパートナーのヴァランタンが、後景には黒い羽根飾りのついた帽子をかぶるジャンヌ・アヴリルがみえる。
右側のパネルには、挙げた足のかかとを手で持ちくるくると回転するムーラン・ルージュ定番ダンスを自分の小屋で披露しているラ・グリュ。右端には、ターバンを巻いた男が太鼓をたたき、タンバリンをもったベリーダンサーが控えている。前景には、こちらに背を向けた観客が描かれる。羽飾りをつけたかつての同僚ジャンヌ・アヴリル、その右隣の小柄な人物がトゥールーズ=ロートレック、右端の男性は、美術批評家のフェリックス・フェネオン。新しい芝居小屋を立ち上げたラ・グリュを、かつての同僚、馴染みが観賞しに来た場面がそのまま描かれている。
ロートレックはトップダンサーを描いただけでなく、モンマルトルの娼婦たちも描いている。休憩室でくつろいだ姿、健康診断の順番待ちをしている姿など、彼女たちの実生活を垣間見るような作品群が残っている。
ここでも、トップダンサーたちに向けられたのと同じように、鋭い観察眼とデッサン力で、娼婦たちのありのままの素顔が描き出された。彼女たちが自分の素顔をさらけ出したのは、ロートレックが差別なく、陳腐な感傷に流されることなしに、尊敬と愛情のまなざしで彼女たちを見つめたからだ。
パリの光と影を描いた画家
パリには、ロートレック・オペラという名前のホテルがある。
ホテルの入り口には、「かつてロートレックがここに住んだ」というプレート。フロントに聞くと、かつてここは売春宿で、画家は娼婦たちと生活を共にし、日常を共有していたのだという。
今は、地域も変わり、レストラン、ショップでにぎわう界隈で、ホテルも一般的なホテルとして観光客にも人気になっている。
トゥールーズ・ロートレックは作品を通し、19世紀の後半のモンマルトルの華やかさと現実を私たちに生々しく伝えてくれる。
私たちの印象をかくも強く打つのは、画家が自分の体を通して経験したものが描かれているからだからだろう。晩年はアルコール中毒、梅毒を患い、それが原因で亡くなった。36歳だった。
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