ニューヨークより〜パンデミックをサバイバルするクラシック音楽とアーティストたち
2020年4月7日現在、アメリカの新型コロナウイルスによる死者数は1万人、感染者数は34万を超えている。救急車のサイレンが鳴り止まないほど感染が深刻な地域もあるとのこと、ここに至るまでの切迫した現地の様子と、メトロポリタン・オペラをはじめとする劇場やフリーランスの音楽家たちの状況、そして政府の救済策について、ニューヨーク在住のジャーナリスト、小林伸太郎さんにレポートしていただいた。
ニューヨークのクラシック音楽エージェント、エンタテインメント会社勤務を経て、クラシック音楽を中心としたパフォーミング・アーツ全般について執筆、日本の戯曲の英訳も手掛け...
3月、突如はじまった公演のキャンセル
「MET、今夜の公演から今月いっぱい中止です!」
メトロポリタン・オペラ(以下、MET)で研鑽を積む若い音楽家の知り合いから、悲痛なメッセージをもらったのは、3月12日の午後1時過ぎのことだった。ニューヨークで新型コロナウイルス感染が急速に広がるなか、市当局との協議のうえで取られた措置であったという。
その前日まで通常通り公演を行なってきた劇場関係者すべてにとって、これはまったく寝耳に水の発表であったらしい。
それから10分も経ずして、METから筆者のEメールボックスにも、3月31日までの全公演とリハーサルをキャンセルした旨の短い声明が送られてきた。そして5分後、異なるスタッフから同じ声明が届き、30分後には声明に記載のカスタマー・サービス番号修正の連絡メールが届いた。スタッフの中でも驚きと混乱が広がっていることが見て取れるような、立て続けの連絡だった。
そして、このキャンセルの波は、他団体に伝播するというよりも、各所でほぼ同時に起こっていった。
しかし、3月も2週目に入ったこの頃には、少なくともニューヨークでは、劇場閉鎖は「時間の問題」と思っていた人が大半だったのではないだろうか。とりわけ音楽家はインターナショナルなコネクションが強く、若手のメゾ・ソプラノ、アニー・ローゼン氏は、同僚から聞かされる中国やヨーロッパの窮状に、毎日危機感を募らせていたという。それでも突然のキャンセルは、彼女にとっても大きな衝撃だった。「まさかそんなことが起こるはずがない」というのが、率直なところだったという。
相次いだ劇場やホールの閉鎖
ニューヨーク州内で初めて感染者が発表されたのは、3月1日のことだった。
その3日後には、日本を含む5カ国からの米国入国者は2週間の自己隔離をするようニューヨーク市が要請し、カーネギー・ホールは程なく、これら5カ国からの入国者の館内立ち入り禁止措置を取った。米国では州の独立性が強いが、ニューヨーク州は、州内の感染者が76人になった3月7日、煮え切らない連邦政府の指示を待たずに、緊急事態宣言を発動した。感染を防ぐために人と人の間を少なくとも6フィート(180センチ強)取ることを奨励するソーシャル・ディスタンシング(社会的距離)が強く奨励されるようになり、レストランや劇場から人影がどんどん少なくなっていた。
そして、3月12日のMET発表である。続いてニューヨークでは、カーネギー・ホールからニューヨーク・フィルハーモニック、ブロードウェイの劇場から映画館、そして多くの美術館、博物館、植物園から動物園まで、ほとんどの文化的施設が次々に閉鎖されていった。これらは地元行政との協議のうえで実行された。そして3月13日、ようやく連邦政府が国家非常事態を宣言した。
フリーランスの音楽家たちの窮状
翌週、キャンセルを5月のシーズン終わりまで拡大したMETは、オーケストラやコーラス、舞台裏スタッフなど組合メンバーに、健康保険の提供は継続するものの、給与支払いは3月末をもって停止することを伝えた。いわゆる一時帰休、一時解雇である。
そして、ソリストたちには、契約に不可抗力(Force Majeure)条項があることを理由に、公演がキャンセルとなった契約に対する支払いは行なわれないことが通知された。なお、METを始めアメリカのオペラ団体は、ソリストの専属歌手を持たないことが普通で、研修アーティストを除き、ソリストのほぼ100%がフリーランサーである。慣習として、多くの場合、公演初日まで支払いを受けることがなく、つまりリハーサルに対する支払いは行なわれないのが普通なのだ。
全米最大規模を誇るMETでさえ、このような状況である。そのほかの組織、とりわけ中小規模の団体が危機的な状況であることは、推して知るべしだろう。
キャンセルの波が全米に、そして世界的に押し寄せるなか、突然失職したフリーランサーの音楽家たちがパニックモードになったのも、当然だ。ここ数年頭角を現してきた新進のソプラノ歌手、アレグザンドラ・ルーション氏は、3月第2週から第3週の間に、年収のほぼ3分の1を失ったという。そして夏シーズンがどうなるかわからない今、この損失はさらに拡大する可能性がある。
米国でのアーティストへの救済策
しかし、彼女の話では、キャンセルを通知してきた団体の中には、全額は無理であったとしても少しでも支払う姿勢を示した組織も少なくなく、勇気付けられたという。そこには、彼女のような歌手をメンバーとする労働組合、AGMA(American Guild of Musical Artists)のような団体が、直ちに各オペラ団体にアーティストの窮状を考慮するよう働きかけたことも見逃せない。なお、大手団体の中では、ヒューストン・グランド・オペラが全契約に対して支払いを確約したことで注目を浴びた。
米国政府の芸術への支援が乏しいことはよく知られているが、米国には寄付の文化がある。
今回も数多くの非営利団体が、アーティストの窮状を救うための緊急ファンドを設立し、例えばNew York Foundation for the Artsは、ニューヨークのみならず、全米の緊急ファンドのリストをWebサイトに掲載、毎日のように更新してアーティストに検討を促している。
3月27日に米国連邦議会は、パンデミック救済のための資金として前例のない2兆ドルを計上したが、この中にフリーランサーの音楽家たちも対象となる救済資金が含まれていた。前述の2人の歌手は正直なところ驚いたというが、これにはAGMA、そしてロサンゼルスに基盤を持つ映像関係の俳優やジャーナリストなどの組合、SAG-AFTRA(Screen Actors Guild – American Federation of Television and Radio Artists)の強烈なロビー活動があったことが見逃せない。
迅速に方針が決められた学校のオンライン授業
一連の動きは、既に各所で進んでいた教育機関の閉鎖を決定的なものとした。
ジュリアード学院、マネス音楽大学、マンハッタン音楽院などニューヨークの音楽学校も、オンキャンパスの寮も含めて完全閉鎖となった。
米国では、小学校から高校、大学まで、ほとんどの学校は、閉鎖と同時にオンラインによる教育を継続しているが、音楽学校も例外ではない。すべての生徒が必ずしも自宅にブロードバンド接続を備えているわけではなく、アクセスの格差という問題が改めて浮上しているものの、教育を継続させるためのさまざまな措置が迅速に取られてきた。
ニューヨークとフロリダを拠点としてソロ活動を続けるメゾ・ソプラノの佐藤早穂子氏は、フロリダ州立大学で声楽の准教授も務めている。同大学では3月20日の春休みが明けから2週間、オンライン授業を行なうことが既に決定していた。しかし、一連の動きを受けて、学期終了まで学校を閉鎖することが、MET閉鎖と同じ3月12日に急遽決定されたという。偶然オーディションのためにニューヨークに滞在していた佐藤氏も、大学閉鎖後の教育方針について教授陣と討議するために、直ちにテレコンフェランス(電話会議)に入り、オンライン授業の方針から試験および成績評価方法まで、詳細を徹底的に詰めたという。
学生たちは、既に対面でのレッスンを重ねていることもあってか、オンラインによるレッスンにも非常に協力的で、その前向きな姿勢に心動かされるという。しかしながら、対面レッスンには代え難く、パンデミックの早期収束が待たれるところだ。
大きな損失から回復し、生き残るために
多くの人々が自宅に閉じこもらざるを得ないなか、METのようにコンテンツをWebで無料公開する団体が急激に増えているのは、ご承知の通りだ。貴重なコンテンツを無料配信するのは、ファンサービスはもちろんのこと、組織を存続させるためには、観客との関連性を失うことが、彼らにとっては最大の敵だからではないだろうか。
大きな損失から回復するためには、一般から支持される団体であり続けなくてはならない。彼らの目は、パンデミック収束後の生き残りを既に見据えている。ニューヨーク・フィルのように、ソーシャルディスタンスを保ちながらアーティストが共演するコンテンツも花盛りだ。そして、ZoomやSkypeのようなツールを使ったオンラインのコーチングは、アーティストの日常となった。
A Boléro from New York: NY Philharmonic Musicians Send Musical Tribute to Healthcare Workers
4月2日には、カーネギー・ホールが7月25日までの公演中止を発表、今は夏のさまざまなフェスティバルが行なわれるかどうかに焦点が移っている。ニューヨークでは、一部の例外を除き外出制限が4月29日まで延長されたが、それがさらに延長される可能性は消えていない。そんななか、仕事が既に2つキャンセルあるいは延期され、さらにもう一つ失う可能性があるというオペラ演出家、クリスタル・マニチ氏が語ってくれた。
「(これから自宅待機を強いられる可能性があるアーティストは、)今まで時間がないといって手をつけてこなかったプロジェクトを引っ張り出す準備をするといい。そして、それらに実際に取り組む準備をするといい。今、私も自宅に閉じこもりながら、そういうプロジェクトに取り組んでいる。そうすると心が落ち着く。失業して貧困線以下の生活を強いられる人がいることは本当に辛く、何とかしなくてはならない。それでも私にとって、今のこの時間は、奇妙な恩寵なのかもしれない」
動画:ニューヨークでは、夜7時に住民が自宅の窓辺に集まり、Essential Workers(※生活に欠くことのできない仕事をしている人たち)と言われている人たち、そして医療従事者に感謝し励ますために、拍手と歓声をあげるのが日課になっている。筆者の自宅からは、窓辺に集まる人の姿は見えないものの、人々の音はしっかり聞こえてくるそうだ。
関連する記事
-
井上道義が現役最後に取り組むオペラ《ラ・ボエーム》が秋に全国7都市で公演
-
続々 ワグネリアンのバイロイト案内 祝祭劇場で《パルジファル》がどう響くか疑似体...
-
札幌文化芸術劇場 hitaru「オペラ・プロジェクト」が北海道ゆかりのキャスト/...
ランキング
- Daily
- Monthly
関連する記事
ランキング
- Daily
- Monthly