読みもの
2022.03.30
日本の代表曲になった経緯や魅力を解説

「さくらさくら」のルーツを徹底解説! プッチーニが引用するほど世界で愛される理由とは?

教科書の定番曲、日本古謡「さくらさくら」。海外からも日本の代表曲として知られ、プッチーニもオペラ《蝶々夫人》の中で引用するなど、国際的にも有名曲。しかし、「さくらさくら」のルーツや、なぜ日本の代表曲になっているのかは、日本人である私たちもあまり理解していません。邦楽の専門家で、日本の洋楽受容にも詳しい千葉優子先生に、「さくらさくら」について詳しくお聞きしました。

千葉優子
千葉優子 音楽学者

武蔵野音楽大学大学院修士課程修了。現在、宮城道雄記念館資料室室長、青山学院大学・フェリス女学院大学講師。文化庁芸術祭審査委員。『箏を友として-評伝宮城道雄』(アルテス...

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「さくらさくら」が教育現場に登場したのは意外と最近!

日本人なら誰もが知る「さくらさくら」は、音楽教科書の定番である。その日本的な旋律は、さぞや古くから、つまりごく初期から音楽教科書に掲載されたと思われがちだが、「さくらさくら」が教育現場に登場するのは、1941年(昭和16)に文部省が出版した『うたのほん 下』が最初であった。

『うたのほん 下』に収録された「さくらさくら」(左下の再生ボタンを押すと音が流れます)。

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日本で最初の音楽教科書は、文部省音楽取調掛編『小学唱歌集 初編』(1881年)で、「見わたせば(現、むすんでひらいて)」「蝶々」「蛍(現、蛍の光)」など今でもよく知られる旋律が含まれているが、これらは外国曲に日本語の歌詞を付けたものである。第1曲「かをれ」のドとレの旋律から漸次音域を広げて長音階の練習をするなど、西洋音楽の練習曲集のようであった。ただし、音楽取調掛が当初から西洋音楽教育を目指していたわけではなく、紆余曲折の結果である。

なお音楽取調掛は、日本が明治となり国際社会にデビューするにあたって、世界に通用する新しい日本の音楽の創造と音楽教育の調査研究を目的として、1879年に文部省内に設立された機関で、これらについては拙著『ドレミを選んだ日本人』(音楽之友社)をお読みいただきたい。

「桜」から「さくらさくら」へ

一方、「さくらさくら」が最初に掲載されたのは、音楽取調掛撰『箏曲集』(1888年)である。これは五線譜による箏曲楽譜集の最初期のもので、全体は手ほどき曲を主体に構成された箏の入門的な曲集であった。15曲掲載されているうちの4曲が新作、あとは江戸時代以来の既存曲で、「さくらさくら」はその第2曲目として「桜」と題され、掲載されている。第1曲目の「姫松」は江戸時代からある箏の手ほどき曲「岡崎」の替え歌で、原曲の「岡崎女郎衆、岡崎女郎衆、岡崎女郎衆はよい女郎衆」という歌詞では教育上よろしくないということで、「姫松小松……」と改めたものである。

「岡崎」が近世邦楽最古の公刊譜『糸竹初心集』(1664年)に収載されているのに対して、「桜」に関する江戸時代の文献がない。かといって新作というわけではなく、「咲た桜」の替え歌なのだが、その「咲た桜」という曲に関する江戸時代の資料がない。しかし、『箏曲集』に「旧咲た桜」と記されていることなどから、江戸時代以来の箏の手ほどき曲と考えるべきであろう。

実際、その旋律は平調子という箏曲の最も基本となる調子に箏を調弦すれば、ほとんど隣の弦への移動で弾くことができ、手ほどき曲としては最適である。今でこそ、箏曲も楽譜中心に伝承されるが、江戸時代は口伝で、むしろ楽譜は非常に少なく、「咲た桜」のように簡単な手ほどき曲の楽譜がなくても、あまり不思議ではない。作曲者も不明である。

ということで、「さくらさくら」はよく「日本古謡」と言われるが、歌詞は明治の作である。

さくらさくら 弥生の空は 見渡すかぎり 霞か雲か 匂いぞずる いざやいざや 見にゆかん

 

━━『箏曲集』(1888年)「桜」歌詞

ただし、この作詞者も不明ではあるが、加部厳夫と「庭の千草」の作詞者である里見義が「歌詞の選定」を担当したことが『箏曲集』の緒言に記されている。

ちなみに、「さくらさくら」のもととなった「咲た桜」の歌詞は、

咲いた桜 花見て戻る 吉野は桜 竜田は紅葉 唐崎の松 常盤常盤 深緑

 

━━「咲た桜」歌詞(年代不詳)

「桜」にしぼった歌詞で、日本人によりアピール

この歌詞なら「岡崎」ほど歌詞を替えなければならなかった積極的な理由もないが、既存曲11曲のうち、9曲の歌詞が替えられている。原曲の歌詞をそのまま踏襲したのは、山田流箏曲の流祖、山田検校の作である「弓八幡」と、近世箏曲の祖、八橋検校の箏組歌「富貴の曲」だけで、むしろ、この2曲は箏曲の中でも特別な存在だったがゆえに、そのまま掲載されたのであろう。もっとも「咲た桜」が桜や紅葉の名所などを羅列した歌詞であるのに対して、「桜」の歌詞の方が叙情的でまとまりがあり、何よりも旋律としっくり合っている。

歌詞のテーマを桜にしぼったことも、誰もが知る歌となった要因かもしれない。なぜなら、日本人はとにかく桜が好きである。名所図会や浮世絵には多くの桜が描かれ、近代になっても横山大観、菱田春草、奥村土牛など多くの画家が描いている。昔から日本人は花見に夜桜が大好きで、桜の名木や名所が多いのも日本人が桜を愛するがゆえであろう。

そういえば、遠山の金さんも、歌舞伎の弁天小僧も、片肌脱いで桜吹雪の刺青もあらわに名台詞を並べたて、観客はそれに酔いしれる。

教材として学校で教えられる以前から、「桜」は愛唱歌として、さらには「桜」を元歌にさまざまに変化しつつ遊び歌として全国的に歌われるようになり、1941年に国定教科書『うたのほん 下』に収載されたのである。そして、この時に「さくらさくら」と題され、歌詞も再び替えられた。

さくらさくら 野山も里も 見わたす限り かすみか雲か 朝日ににおう さくらさくら 花ざかり

 

━━『うたのほん 下』(1941年)「さくらさくら」歌詞

旋律にもバリエーション

このように歌詞が2種あり、さらに旋律も3種ある。

音楽取調掛は1887年に東京音楽学校(東京藝術大学の前身)となり、1914年に東京音楽学校編『箏曲集 第1編』を刊行したが、この時、「さくら」と題し、最後のフレーズ「みにゆかん」の旋律を変更した。さらに『うたのほん』でもこの部分が微妙に異なり、3種となったのである(譜例参照)。そういわれてみれば、いずれの旋律も聴いたことがあるのではないだろうか。

そのため、誰もが知るわりには、案外最後までみんなでそろって歌えないという摩訶不思議な歌である。

「さくらさくら」の魅力

プッチーニが1904年初演のオペラ《蝶々夫人》の第1幕で使ったことはあまりに有名だが、さらに、《蝶々夫人》の初演より10年も前、1894年にドイツの有名な楽譜出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社からピアノ曲《SAKURA》を出版した人物がいた。東京音楽学校のお雇い教師として1888年にオーストリアから来日したルドルフ・ディットリヒである。彼は『箏曲集』の《桜》をもとに『6つの日本民謡』と題したピアノ曲集の第3曲目とした。また、1890年にオーストリアから来日したフルート奏者のアドルフ・テルシャックは同じく『箏曲集』の「桜」をもとにフルートとピアノで御前演奏をしたのである。その後も、ドミトリー・カバレフスキーのピアノ独奏曲《日本民謡による変奏曲》(1969年)など、この曲は外国人の心も魅了した。

プッチーニ《蝶々夫人》(1904年)で「さくらさくら」が引用されている楽曲「おいで、いとしい女(ひと)」

ドミトリー・カバレフスキー《日本民謡による変奏曲》(1969年)

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