ブラームスを知るための25のキーワード〜その11:外国旅行
毎週金曜更新! 25のキーワードからブラームスについて深く知る連載。
ONTOMO MOOK『ヨハネス・ブラームス 生涯、作品とその真髄』から、平野昭、樋口隆一両氏による「ブラームスミニ事典」をお届けします。どんなキーワードが出てくるのか、お楽しみに。
1949年、横浜生まれ。武蔵野音楽大学大学院音楽学専攻終了。元慶應義塾大学文学部教授、静岡文化芸術大学名誉教授、沖縄県立芸術大学客員教授、桐朋学園大学特任教授。古典派...
旅行好きなブラームスのお気に入りはイタリア
バカンスの項目でも述べたが、ブラームスは大変な旅行好きであった。同時代に活躍したリストやワーグナーも、旅行とは言い難くても、広くヨーロッパ全域で活躍していたのは御存知のとおりである。しかし、彼等には少なくとも晩年には安住の場所としての本拠地があった。ブルックナーでさえリンツからウィーンに出ただけでなく、イギリスやフランスに出向いたこともあった。しかし、それはオルガン・コンクール出場のためであり、半ば仕事での外国行きで、彼にとっての旅行とは、1880年8月22日から9月11日までの、徒歩中心のスイス旅行が主たる外国旅行であった。彼等に比べると、ブラームスがいかに旅行好きであったかが伺われるであろう。
1878年の最初のイタリア旅行で、完全に南欧の魅力に憑りつかれた北ドイツ人ブラームスは、1893年まで、前後9回もイタリア旅行をしている。
後に本拠地となるウィーンは、ハンブルク出身の彼にとっては最初は外国で、同じハンブルク出身のビスマルクがプロイセンの宰相となった1862年、彼もウィーンに進出している。
1866年にはブラームスはスイスに旅行し、しばらくチューリッヒに滞在している。翌年にはハンガリーに演奏旅行に出ており、さらに翌年にはデンマークへの演奏旅行というように、毎年外国へ出かけている。
しかし、旅情を楽しみ、休暇を過ごすという意味でのブラームスの最初の外国旅行(ただし、こうした間にも制作や演奏会の仕事もしていたが)は、1876年初頭2か月のオランダ旅行であった。それは、1873年にボンで知り合った友人のT.W.エンゲルマン夫妻に招待されてのことであった。1月14日にユトレヒトで夫妻に会ってから楽しい毎日を送り、夫妻の尽力で、アムステルダムやハーグやユトレヒトで《ドイツ・レクイエム》と「ピアノ協奏曲第1番」等を指揮し、演奏して、賞賛を受ける機会にも恵まれている。そして、この時彼は感謝の意を込めて「弦楽四重奏曲第3番」作品67を夫妻に献呈している。なお、オランダへは1881年の1月下旬と85年にも訪れている。
イタリアへの旅行は特に人から招待を受けたというのではなく、自ら旅行プランを立てるなどして出かけている。回数を重ねるごとにイタリアに魅せられたようで、クララ母娘に是非にも旅するべきだと勧めるほどであった。
ところで、彼のイタリア旅行にはその第1回目からほとんどの場合に同行者がいる。1878年4月9日に出発した1回目には、ビルロートが相手をつとめている。これはわずか1か月足らずの旅であったが、綿密な計画を立て、見物すべき美術品や建造物の文献上の下調べをするなどして、無駄なくイタリアを満喫している。第2回以後の同伴者の主な人々にはビルロート、ノッテボーム、A. エクスナー(ウィーンの法律学者)、ジムロック、キルヒナー、ヴィトマン、R. フロイント(ピアニスト)などがいる。
なお、イタリア旅行は第3回の1882年を例外として、ほぼ4月を中心に行なわれている。この第3回だけは、9月に行なわれ、ビルロートと共に出かけ、ヴェネツィアではクララ一家と合流するなどしている。
胃癌切除手術に初めて成功したオーストリアの外科医。幼い頃からピアノやヴァイオリン、ヴィオラをたしなみ、コンサートにもよく足を運んでいた。1865年にチューリッヒで開催された演奏会でブラームスと知り合い交流を深め、ブラームスの弦楽四重奏曲第1番、第2番はビルロートに献呈されている。
第2章 ブラームスの生涯
第3章 ブラームスの演奏法&ディスク
今回紹介した「ブラームスミニ事典」筆者・平野昭と樋口隆一による「1853年の交友にみるブラームスの人間性」、「ブラームスの交友録」、「ブラームスを育んだ作曲家たち」、「ブラームスの書簡集」をはじめ、多岐にわたる内容を収録!
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