真面目で熱心な生徒、良き教師でもあったブルックナー
2024年に生誕200年を迎えるオーストリアの作曲家、アントン・ブルックナー。その作曲家像に迫るべく、大井駿さんが人となりにまつわるエピソードを4つのテーマから掘り下げていきます。
第2回は、生徒・先生としてのブルックナーを紹介します。ブルックナーが作曲のレッスンで書き取ったノートの貴重な写真や弟子から見たブルックナーなどを通して、さまざまな姿が見えてきます。
1993年生まれ、東京都出身。2022年、第1回ひろしま国際指揮者コンクール(旧:次世代指揮者コンクール)優勝。パリ地方音楽院ピアノ科、ミュンヘン国立音楽演劇大学古楽...
前回の記事で、ブルックナーはあまり自信がもてない性格だったことを紹介しました。それには、もともと学校教師だったブルックナーは作曲家志望ではなく、30歳ごろからようやく本格的に作曲のレッスンを受けはじめ、それから何度も挫折を味わったことが関係していました。
ブルックナーが生きた時代は、まさにロマン派音楽が絶頂の時代。彼が生まれたのは、ちょうどヨーロッパ中が引っ掻きまわされたナポレオン戦争が終わり、混沌としたヨーロッパを戦前の状態に戻すというウィーン体制が敷かれていた頃でした。しかし、この政策がさらなる混沌を生む結果となり、あらゆる場所で革命や反乱が起きていました。
この混沌には、さまざまな作曲家が感化され、または巻き込まれていました。しかし、田舎の村育ちの学校教師、そして聖職者だったブルックナーにはそれほど大きな影響は及ぼしませんでした。とくに、彼が作曲家を目指すことを決意し、ウィーンへレッスンを受けに行くようになったのは31歳で、それまで都会へ足を運ぶことはほとんどありませんでした。
すなわち30年間もの間、神のために仕え、真面目に、そして愚直に仕事をしてきた村の音楽教師だったため、その性格は生涯変わることはありませんでした。
このことは、生徒としてのブルックナー、そして先生としてのブルックナーの姿勢にも表れています。前置きが長くなりましたが、今回はそんな彼の生徒・先生としての姿をご紹介いたします!
生徒としてのブルックナー
ブルックナーは、父を通して音楽に親しみ、その後は聖フローリアン修道院にて、聖歌隊の隊員として寄宿していました。この頃、神学、ラテン語などと共に、基礎的な音楽教育も受けていました。が、作曲家となるには乏しい知識ばかりでした。
そんなブルックナーが、1855年(31歳)から、ジモン・ゼヒター(1788〜1867)のレッスンを受けるようになります。ゼヒターは、サリエリに学んだのち音楽学者として不動の名を築き、シューベルトをはじめ、ヴュータン、ヘンゼルト、マルクスゼン(ブラームスの恩師)を育てた名教師だったのです。
最初は通信でのレッスンだったものの、程なくしてからはリンツでの仕事の合間を縫って、ウィーンに住む先生の元へ足繁く通うようになりました。
見るからに厳格そうな先生ですね……!
ブルックナーは、彼のもとで約7年間学び続けますが、いったい何を学んだのか……? それはひじょうに多岐にわたるものでした。
まず通奏低音、いわゆる数字譜です。次に和声法、とくにメロディからハーモニーを付ける方法。そして2〜4声対位法は、かなり厳しく教えられたようです。そしてカノンとフーガの書き方をとにかく習熟するまでやらされました。
ブルックナー:アヴェ・マリア WAB 5
ブルックナーが、ゼヒター門下だった期間に、聖フローリアン修道院への別れの曲として書かれた作品。
さらに1861年(37歳)から、自分よりも10歳年下のオットー・キッツラー(1834〜1915)の元でさらに修行を続けることに。
キッツラーからは、主に楽式(曲の形式などについて)や、オーケストレーションを学びました。ブルックナーとキッツラーは、師弟関係が終わって以降も友好な関係を築き、生涯の友人となりました。
《キッツラーの練習帳》〜練習曲 ト長調 WAB 214、《キッツラーの練習帳》〜ワルツ第2番 変ホ長調 WAB 224
下:《キッツラーの練習帳(Kitzler-Studienbuch)と呼ばれる、ブルックナーがキッツラーのレッスンで学んだことを元に作曲したものを集めた練習帳(筆者撮影)
教師としてのブルックナー
ブルックナーを語るうえで、彼の教師としての顔を無視することはできません。小学校教員の息子として生まれ、ブルックナー自身も学校教員となり、そして音楽院教授、大学教授を務めた人生だったので、「教師である」ということは、ブルックナーからは切っても切り離せないものでした。
ブルックナーが初めて音楽教師として教え始めたのは、リンツのオルガニスト時代。ここではピアノと和声法を教えていましたが、あくまでもメインの仕事はオルガン奏者。レッスンは、必要に応じてのことだったそうです。
その後は、自らが生徒となり、教えを乞う側になりましたが、1868年(44歳)よりウィーン楽友協会音楽院にて和声法(通奏低音)・対位法・オルガンの教授となります。ここでブルックナーが教えた生徒の中には、ハンス・ロット、シャルク兄弟、そしてハインリヒ・シェンカーなど、その後に功績を残した人物が多くいました。
並行して1870年(46歳)には、聖アンナ女子教員養成所のピアノの非常勤講師としてのレッスンも行ないますが、ここで問題が起きます。
ここの生徒の何人かが、「ブルックナーが女子生徒に言い寄っていた」「生徒のことを“lieber Schatz(恋人に対する呼びかけに使う言葉)”と言っていた」などの告げ口があり、これがリンツ新聞(Linzer Tages-Post)に載ってしまいます。
しかも、言われたという女子生徒のうちの一人は、校長先生の娘だったそうで、この学校をたった1年で解雇されてしまいました。真偽は別として、いつの時代にもこのような問題はあったのです……。
1875年(51歳)から、ウィーン大学の和声法・対位法の講師となります。ここでの講義はひじょうに人気で、音楽科ではない生徒、はたまた音楽には興味のなかった生徒が履修することも少なくなく、聴講生もかなり多かったそうです。
このように、学校で教えることが多かったブルックナーですが、プライベートレッスンも彼のライフワークでした。弟子の一人である、フリードリヒ・クローゼは、彼のプライベートレッスンの様子を次のように述べています。
レッスンはインクで真っ黒になったテーブルで行なわれた。ブルックナーは革張りのソファーを、テーブルの長辺に持ってきて座り、顔はいつも窓を向いていた。そして生徒はテーブルの短辺側に座ることになっていた。
まず、宿題を慎重に見ることからレッスンは始まる。もし、何かが間違っていた場合、ブルックナーはそれを即座に指摘せず、生徒にヒントを与えてもう一度やり直させた。その間ブルックナーは自分の作業をし始め、五線譜に何かを書いてはピアノの前に行って、自分の作品へのアイデアを試していた。
正直、これが生徒の迷惑になるかどうかなんて、彼はまったく気にしていないようだった。
しかし、しょうがないのだ。彼はすぐに作品を作れる「速筆な作曲家」ではなく、神に熱心に祈り続けることで、神の祝福を得て作曲する「勤勉で働き者な努力の作曲家」だったからだ。
彼にとって教えることとは、生計を立てるための面倒なことだったのかもしれない……多かれ少なかれ。
ブルックナーと敬虔な弟子たち
ブルックナーはウィーンで教師としての顔を持っていましたが、同時に挫折も多く、なかなか芽の出ない作曲家でもありました。しかし、彼の生徒の中でも、ブルックナーの作品を評価してもらうために奔走した生徒は少なくありません。
ウィーン楽友協会音楽院での弟子、ヨーゼフ・シャルク(1857〜1900)は、ブルックナーのもとで勉強したのち同音楽院のピアノ科教授となり、ワーグナー協会の芸術監督としても活動しました。彼は、交響曲の試演会のために尽力した人物でもあり、ワーグナー協会の演奏会でも、オーケストラの演奏に恵まれない交響曲を、友人たちを集めて2台ピアノ版や連弾版で幾度となく演奏しました。
ヨーゼフの弟フランツ・シャルク(1863〜1931)も同じくブルックナーの生徒で、演奏機会がなかった「交響曲第5番」を初演するだけでなく、数々のブルックナーの交響曲の校訂を行ないました。
さらに、フェルディナンド・レーヴェ(1863〜1925)の存在も外せません。ピアニストとしても指揮者としてもたいへん優れた生徒で、指揮者としてのデビュー曲に「交響曲第3番」を指揮したのを皮切りに、ことあるごとにブルックナーの作品を取り上げ、未完だった「交響曲第9番」の初演を行ないました。
そして最後にフリードリヒ・エックシュタイン(1861〜1939)。彼は、あのジグムント・フロイトやヘレナ・ブラヴァツキーとも交流を持った神智学者ですが、実はブルックナーの弟子で、秘書も務めていました。彼はブルックナーの身の回りの世話をするだけでなく、ことあるごとに出資していたそう。そして埋め合わせとしてレッスンをしてもらっていたそうです。
あまり知られていない、生徒としての、そして先生としてのブルックナーの顔を紹介しました。彼は30歳を超えてもなお好奇心を持って学び続け、そして愛を持って生徒に知を授けました。
当時としてもなかなか変わった経歴ですが、そんなブルックナーだからこそ、魅力に溢れる授業ができ、熱心な弟子たちに恵まれたのかもしれません。
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