ロマが生んだ超絶技巧派ピアニスト、ジョルジュ・シフラの波乱の人生
2021年に生誕100年を迎えたハンガリーの超絶技巧ピアニスト、ジョルジュ・シフラ。リストの演奏で知られ、今なお人気が高いピアニストの生涯は、映画も真っ青の波乱万丈なものでした。増田良介さんが、苦難の人生とともに、絶対に聴くべき録音を紹介してくれました。
ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...
ロマ生まれの天才・超絶技巧派ピアニスト
2021年は、ハンガリーのピアニスト、ジョルジュ・シフラ(1921-1994)の生誕100年だ。
彼のピアノを聴いた人々は、誰もがそのすさまじい超絶技巧と個性的な表現に圧倒され、熱狂するにせよ反発するにせよ、とにかく心を揺さぶられずにはいられなかった。
シフラの両親はロマ(ジプシー)の家系で、父親は、パリでピアノやツィンバロンを弾いていた音楽家だった。しかし、第一次大戦でハンガリーとフランスは敵同士となり、シフラの両親も帰国させられる。シフラは、一家がブダペストで極貧のうちに暮らしていたときに誕生した。
最初は独学、次に父親からピアノを学んだシフラは、あっという間にうまくなる。あるとき、公演の宣伝のためにやってきたサーカスの道化師たちが、たまたまシフラのピアノを聞いた。彼らはその才能に大いに驚き、サーカスへの出演を依頼する。5歳のシフラは、観客から旋律をもらって、毎日30分即興演奏をし、出演料をもらった。これが、彼が聴衆の前で最初に演奏した経験だったという。
戦争に翻弄された青年期
その後、フランツ・リスト・アカデミーで学び、将来を嘱望されていたシフラだが、第二次大戦が始まると、徴兵される。結婚したばかりの妻と、もうすぐ生まれる予定の息子を残しての入隊だった。ハンガリーは枢軸国側だったので、シフラの属するハンガリー軍は、ドイツ軍と協力してソ連軍を相手に戦った。しかし戦況は不利で、このままでは死を待つのみだと思ったシフラは、ある日逃亡する。
逃げたシフラは、まもなくパルチザン(ソ連のゲリラ部隊)に見つかって捕虜となり、新しく作られたハンガリー民主軍に入れられる。今度は逆にドイツ軍を相手に戦ったシフラは、砲弾の爆発によって片耳の聴力を失った。なお、シフラのもといた部隊は、シフラが逃げてからまもなく、ソ連軍の攻撃で全滅していた。
終戦後1年以上経った1946年9月、シフラはようやくブダペストに帰還した。妻とは4年ぶりの再会、息子—ジェルジ・シフラ・ジュニア—とは、はじめての対面だった。戦後のブダペストで、シフラは、バーやナイトクラブで即興演奏をして生活費を稼いだ。なかには、相当に怪しげな店もあったらしい。シフラが雇われていたある店は、オーナーが、その愛人と間男をガスで眠らせ、2人とも斧で切り刻んでしまったために閉鎖になった。そのせいで、シフラはまた新しい店を探さねばならなかった。
亡命の失敗と強制労働、そしてスターダムへ
ハンガリーに対するソ連の支配が強まってきた1950年、シフラは亡命を試みる。しかし彼は逮捕されてしまい、また妻子と離ればなれになる。
囚人としての生活は過酷なものだった。建設現場で強制労働に従事させられたシフラは、60キロのブロックを毎日10時間、1階から6階まで運ばなければならなかった。ようやく解放され、妻子と再会できたのは、3年後の1953年のことだった。
1956年、ソ連に反発したハンガリーの民衆が蜂起し、ソ連軍が介入するという事件(ハンガリー動乱)が起こる。このとき、20万人以上が国外に亡命した。シフラ一家もこのときにハンガリーを脱出した。タートライ弦楽四重奏団の代役としてウィーンで行なったリサイタルは大成功、無名だったシフラは一夜にしてスターとなった。続くパリではツィピーヌ指揮コロンヌ管弦楽団とリストのピアノ協奏曲第1番を弾き、これも絶賛された。
ツィピーヌと1959年に共演したグリーグのピアノ協奏曲のライブ録音
フランスのレコード会社、パテ=マルコーニはすぐさま彼と契約し、次々と録音を行った。レコードの売れ行きはすばらしく、パリ郊外に買った家の代金を、数ヶ月で返してしまえるほどだった。
リスト《ハンガリー狂詩曲》はシフラのための曲? 手が何本あるか解らないほどのド派手な超絶技巧
代表的な録音をいくつか挙げよう。
まずはリストの《ハンガリー狂詩曲集》だ。この曲集は、ハンガリーというタイトルが付いているが、実はロマの音楽をもとにしている。だから、バルトークのように、あれは本物のハンガリー民族音楽ではないと批判する人もいた。しかし、考えてみれば、シフラの父は、まさにその元になったような音楽をやっていて、シフラはその中で育った。
つまり、これはまさにシフラのためにあるような音楽なのだ。
《ハンガリー狂詩曲》以外でも、シフラのリストは全部すごい。どんな難曲でも、シフラは桁外れの技巧によって軽々と弾きこなす。その圧倒的な演奏には、驚きを通り越して、一流アスリートの妙技を見るような感動を覚える。
《超絶技巧練習曲》や2つのピアノ協奏曲、そして《死の舞踏》や《ハンガリー幻想曲》など、枚挙にいとまがないが、極めつけは、得意のアンコールだった《半音階的第ギャロップ》だろうか。
シフラ自身による編曲作品も聴き逃せない。リスト以来の伝統を受け継ぐ、ド派手なものばかりだが、サービス精神たっぷりで、理屈抜きで楽しい。ハチャトゥリアンの《剣の舞》や、リムスキー=コルサコフの《熊蜂の飛行》などは、手が何本あるのかと思うほどだ。シフラが得意としていた即興演奏もきっとこんな感じだったのだろう。
ハチャトゥリアン/シフラ:《剣の舞》
リムスキー=コルサコフ/シフラ:《熊蜂の飛行》
愛する息子の死......再び苦難が訪れた晩年
その後、世界的な人気ピアニストとなったシフラは、世界各地への演奏旅行を行ない、日本も4度訪れた。録音もたくさん行なった。尊敬するリストにならい、若い音楽家への援助も惜しまなかった。苦難の連続だった前半生とは対照的に、西側へ出てからのシフラの人生は、順風満帆に見えた。
しかし1981年、人生最大の苦難が彼を襲う。指揮者となっていた愛息ジェルジ・シフラ・ジュニアが、自宅の火災のために命を落としたのだ。まだ40歳にもなっていなかった。シフラはショックを受け、酒に溺れ、演奏活動は激減する。それでも彼は、何度か再起を目指して演奏会や録音を試みるが、その出来に満足はしなかったという。
シフラが世を去ったのは、1994年1月17日のことだ。72歳だった。
2021年8月16日(月)~20日(金)
午後7時30分〜9時15分
6歳で単身ハンガリーに渡り、ブダペストのフランツ・リスト・アカデミーでピアノを学んだピアニスト、金子三勇士さんをゲストにお招きして、シフラの名演奏をたっぷりお聴きいただきます。
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