ドビュッシーの生涯と主要作品
クロード・ドビュッシーの生涯と主要作品を、音楽学者・松橋麻利が解説!
文ー松橋麻利(音楽学者)
ドビュッシーの生涯
幼年時代
鋭い感性によって19世紀ドイツ・ロマン主義とは違う音楽の在り方を開拓したフランスの作曲家。貧しい両親の長男として生まれ,小学校も通わせてもらえなかった。8歳の時に預けられたカンヌの伯母のもとで初めてピアノの手ほどきを受けた後,おそらく父のつてで,詩人ヴェルレーヌの義母であり優れたピアノ教師のアントワネット=フロール・モテ夫人にピアノを習うことができた。おかげで1872年10月にパリ音楽院のピアノ(アントワーヌ=フランソワ・マルモンテル)とソルフェージュ(ラヴィニャック)のクラスに入学。彼はその後,和声・伴奏法,ピアノ伴奏法などのクラスでも学んだが,学校で教えるような規則には常に反抗する生徒だった。
80年にはロシアの富豪フォン・メック夫人のピアニストとなり,一家のヨーロッパ旅行に同行して見聞を広める。同年12月に作曲のクラス(ギロー)に入り,本格的に作曲家を志す。この頃,美しい声の持ち主であるマリ=ブランシュ・ヴァニエ夫人と恋仲になり,夫人に捧げるために多くの歌曲を書いている。また彼女の家庭の知的な雰囲気がドビュッシーの教養を高めるのに役立った。
ローマ賞への挑戦とショーソンやサティとの交流
3度目の挑戦で1884年にカンタータ《放蕩息子 L’enfant prodigue》によりローマ賞を受賞。ローマでの2年間の留学を終えようとする87年2月に,留学時に提出が義務付けられた作品中2番目の交響的組曲《春 Printemps》を学士院に送る。従来の機能和声理論からはみ出るようなこの作品を学士院は,「印象派」と命名されたモネやルノワールらの絵になぞらえて「色彩が強調された印象主義」と決め付けた。これ以降ドビュッシーには「印象主義」のレッテルが付いた。3番目に提出された《選ばれた乙女 La damoiselle élue》(1887-88)は比較的好意をもって受け取られた。先輩作曲家のショーソンがこの作品を気に入って2人は急速に親しくなり,ドビュッシーはこの先輩から何かと援助を受けるようになる。
またサティとも知り合い,最晩年に仲たがいするまで友情が続く。同時期にはヴァーグナーの影響が見られる歌曲集《忘れられた小唄 Ariettes oubliées》(初版時は《小唄 Ariettes》1885-88,詩ヴェルレーヌ)や《ボードレールの5つの詩 Cinq poèmes de Baudelaire》(1887-89)が作られた。しかしドビュッシーは,89年のパリ万国博覧会で聴いた安南(ヴェトナム)の劇やジャワのガムラン演奏と舞踊の中に,規則に縛られない音楽の自由さや構成の単純さといった新しい音楽の可能性を見いだすと,それまで熱烈に崇拝していたヴァーグナー流の音楽から離れていく。
マラルメとの出会い、《ペレアスとメリザンド 》の成功
その後,象徴主義文学の中心人物マラルメから彼の相聞牧歌《牧神の午後》の舞台上演用に作曲を依頼される。それをきっかけに《牧神の午後への前奏曲 Prélude à l’après-midi d’un faune》(1891-94)が出来た。これは,牧神の葦笛を連想させるフルート独奏のテーマが調性の枠組みを超えて柔軟に変容し,原詩の豊かなイメージの連鎖に見事に対応する不朽の名作となった。同じく象徴主義の風土のもとでヴェルレーヌの詩による歌曲集《3つの歌曲 Trois mélodies》(1891)や《艶やかな宴 Fêtes galantes》第1集(1891-92)が出来上がる。
さらに古典的な枠組みの弦楽四重奏曲 op.10(1892-93,この作品のみにop.番号がある)も生まれ,作曲家らしい色彩と堅固な統一性を併せ持つ最初の傑作となった。またドビュッシーは,音楽家としてただ1人出席したマラルメの「火曜日の会」で,親しい友人となる詩人ピエール・ルイスに出会っている。私生活では約8年連れ添ったガブリエル・デュポンと別れて,婦人服店のモデルだったマリ・ロザリー・テクシエ(愛称:リリー)と 1899年に結婚する。
さらに1901年4月から文芸誌《ルヴュ・ブランシュ La Revue blanche》で評論活動を始め,時折,自分の分身である架空の人物「クロシュ氏」も登場させて鋭く持論を展開する。そして同時に,長い間忍耐強く書き進めていたオペラ《ペレアスとメリザンド Pelléas et Mélisande》(1893-1902,メーテルリンクの戯曲による)をついに完成する。ライトモティーフを使いながら,抽象的な理論に従うのではなく,登場人物の魂の動きや感情・感覚の自然な流れに寄り添える音楽を実現した一大傑作である。しかしその新しさのために02年4月30日のオペラ=コミック座での初演は賛否両論を巻き起こした。博学な哲学者・音楽学者のルイ・ラロワや演劇評論家アンリ・ゲオンのような人は,初演直後にその真価を理解した。ドビュッシーは特に前者とは長く親しい信頼関係を結ぶことになる。
エンマ・バルダック夫人との恋、3つの交響的スケッチ《海 》の作曲
《ペレアス》後はすぐに,早くから関心のあったアメリカの作家エドガー・アラン・ポーによる劇場作品《鐘楼の悪魔 Le diable dans le beffroi》や《アッシャー家の崩壊 La chute de la maison Usher》を計画し,自ら台本も作成したが2作とも未完になった。同時期の歌曲には《艶やかな宴》第2集(1904)や,初めてシャルル・ドルレアンやトリスタン・レルミートといった古い時代の詩人を採り上げた《フランスの3つの歌 Trois chansons de France》(1904)がある。
またピアノ曲では《版画 Estampes》(1903),《映像 Images》第1集(1901-05),《喜びの島 L’isle joyeuse》(1903-04),《仮面 Masques》(1903-04)など,独自のピアニズムに到達した重要な作品が出来ている。
この頃ドビュッシーは,自分の生徒の母親だった裕福な銀行家の妻エンマ・バルダック夫人と愛し合うようになり,1904年の夏に妻をおいてエンマと一緒にイギリス海峡のジャージー島へ旅立ってしまう。のちにエンマは娘クロード=エンマ(愛称:シュシュ)を産み喜びをもたらすが,リリーがピストル自殺を図ったため一大スキャンダルとなり,それまでのルイス,デュカス,《ペレアス》の初演指揮者メサジェ,メリザンド役のガーデンといった多くの友人関係が失われた。一方,ラロワ,サティ,出版者ジャック・デュランらは変わらぬ友情を示した。
3つの交響的スケッチ《海 La mer》(1903-05)が練り上げられるのは,このつらい時期である。ドビュッシーは日本の浮世絵を好み,自宅の壁に飾っていた。《海》の楽譜の表紙には,そのうちの1枚である葛飾北斎の〈神奈川沖浪裏〉(《富嶽三十六景》より)に描かれた波のデザインが使われた。そこには原画にあった富士山や人が乗った舟はない。特定の地域や人間の姿を連想させるものが全て取り払われている。これは,おそらく第1楽章の旧題〈サンギネール諸島の美しい海〉を現行の〈海の夜明けから正午まで De l’aube à midi sur la mer〉に変えた意図と無関係ではないだろう。そこには,特定の海を想像させるものがない,光と水と大気だけの自然の営み,永遠に続く海の不変の運動を描くという作曲家の意識がうかがえる。
ドビュッシーはここで,その運動を音の運動に変換し,音が内部から自発的に音楽を構築していくようにみえる形を実現したが,1905年10月の初演時には理解されなかった。次の管弦楽曲《映像 Images》(1905-12)の完成にも苦労する。しかし,特に第2曲〈イベリア Ibéria〉は精緻な管弦楽法を持ち,当時,異国趣味の代表として多く書かれた「スペインもの」の中でも際立って喚起力を持つ作品となった。
第一次世界大戦の勃発と晩年のドビュッシー
1907年にラヴェルが,新しいピアニズムの優先権は〈グラナダの夕暮れ La soirée dans Grenade〉(1903)や〈水に映る影 Reflets dans l’eau 〉(1905)のドビュッシーでなく,《ハバネラ》や《水の戯れ》の自分にあると主張したことから,2人の作曲家は疎遠になる。しかしドビュッシーのその後の《映像》第2集(1907)や2集の《前奏曲集 Préludes》(第1集1909-10,第2集11-13)でさらに先鋭化された語法を見れば,2人の音楽の違いがわかる。08年以降ドビュッシーは指揮活動や外国への演奏旅行に励むが,彼の命取りになる直腸がんの兆候が表れる。10年にはストラヴィンスキーと知り合い,彼の《春の祭典》に衝撃を受ける。ロシア・バレエ団によるこの作品の13年5月の初演は歴史に残る騒ぎとなり,そのため,2週間前に同じバレエ団により同じシャンゼリゼ劇場で初演されたドビュッシーの舞踊詩《遊戯 Jeux》(1912-13)の影は薄れた。その重要性の解明は今後の課題である。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると,当初落ち込んでいたドビュッシーも自分のできる抵抗を表明しようと,15年に2台ピアノ用の《白と黒で En blanc et noir》,《12の練習曲集》,様々な楽器の組み合わせによるソナタ[チェロとピアノのため(1915),フルートとヴィオラとハープのため(1915),ヴァイオリンとピアノのため(1916-17)]を次々に発表する。ソナタ(当初の計画は6曲)は,「フランスの音楽家」を強く意識し,フランス・バロックの古い形式が念頭にあったようである。その間15年12月にはついに悪化した病の手術が行われ,少しずつ活動できるまでになるが,17年の夏にサン=ジャン=ド=リューズでヴァイオリン・ソナタの初演者ガストン・プーレと同曲を演奏したのが,公の場での最後となった。その後,徐々に衰えて18年3月25日にボワ・ド・ブローニュの自宅で亡くなった。パリにはまだ砲撃の音が響いていた。
ドビュッシーの影響は,10歳の時に《ペレアス》の素晴らしさに感激したメシアン,ドビュッシーの重要性を発言し続けているブーレーズといった20世紀のフランスの作曲家に限らない。日本の武満徹も「ドビュッシーの類稀な直覚に導かれて,音の光と影,音の密度と濃淡というものを認識し」たと明言している。時と場所を越えた影響の広がりは,音楽表現を解放したドビュッシーの望むところであろう。なお1985年より《ドビュッシー作品全集 Œuvres complètes de Claude Debussy》(全34巻の予定)が出版社デュランを中心に刊行中である。
ドビュッシーの主要作品
【オペラ】
《ペレアスとメリザンド》 1893-1902 ; 《鐘楼の悪魔》[未完] 1902-12? ; 《アッシャー家の崩壊》[未完] 1908-17
【バレエ音楽】
《カンマ》 1911-12[本人着手の管弦楽化をケクランが完成]; 《遊戯》 1912-13 ; 《おもちゃ箱》 1913[本人着手の管弦楽化をカプレが完成]
【付随音楽】
《リア王》 1904-08[未完,ロジェ=デュカスが管弦楽化]; 《聖セバスティアンの殉教》 1911[本人とカプレが管弦楽化]; 《ビリティスの歌》(2fl, 2hp, cel) 1900-01
【管弦楽曲】
交響曲 h 1880-81 ; 間奏曲(vc, orch) 1882 ; 交響的組曲《春》(女声cho, p, orch) 1887[オリジナル・スコア焼失のため1912年に本人監修のもとビュセールがp版を再管弦楽化]; 幻想曲(p, orch) 1889-90 ; 牧神の午後への前奏曲 1891-94 ; 夜想曲(1.雲 2.祭り 3.セイレン) 1897-99 ; 3つの交響的スケッチ《海》(1.海の夜明けから正午まで 2.波の戯れ 3.風と海の対話) 1903-05 ; 民謡的な主題によるスコットランド行進曲[4hds版を編曲] 1893-1908 ; ラプソディ No.1[室内楽曲を編曲](cl, orch) 1911刊 ; 映像(1.ジーグ 2.イベリア 3.春のロンド) 1905-12 ; 英雄の子守歌[ピアノ版を編曲] 1914
【室内楽曲】
弦楽四重奏曲 No.1 op.10 g 1892-93 ; 小品(cl, p) 1910 ; ソナタ : No.1(vc, p) 1915, No.2(fl, va, hp) 1915, No.3(vn, p) 1916-17 ; シランクス[原題:パンの笛](fl) 1913
【2台ピアノ曲】 リンダラハ 1901 ; 白と黒で(3曲) 1915
【連弾曲】
小組曲(1.小舟にて 2.行列 3.メヌエット 4.バレエ) 1888-89 ; 民謡的な主題によるスコットランド行進曲[別名:旧ロス伯爵家の行進曲] 1890 ; 6つの古代碑銘[《ビリティスの歌》を改作](1.夏の風の神,パンの加護を祈るために 2.無名の墓のために 3.夜が幸いであるために 4.カスタネットを持った踊り手のために 5.エジプト女のために 6.朝の雨に感謝するために) 1914-15
【ピアノ曲】
2つのアラベスク(E, G) 1890-91 ; 夢想 1890 ; バラード[原題:スラヴ風バラード] 1890 ; 舞曲[原題:スティリア風タランテラ] 1890頃 ; ロマンティックなワルツ 1890 ; ベルガマスク組曲(1.前奏曲 2.メヌエット 3.月の光 4.パスピエ) 1890-1905 ; 夜想曲 1892 ; ピアノのために(1.前奏曲 2.サラバンド 3.トッカータ) 1894-1901 ; 版画(1.塔 2.グラナダの夕暮れ 3.雨の庭) 1903 ; スケッチ帳より 1904 ; 喜びの島 1903-04 ; 仮面 1903-04 ; 映像 : 第1集(1.水に映る影 2.ラモー賛歌 3.運動) 1901-05, 第2集(1.葉末を渡る鐘 2.そして月は廃寺に沈む 3.金色の魚) 1907 ; ハイドン賛歌 1909 ; 子供の領分(1.グラドゥス・アド・パルナッスム博士 2.象の子守歌 3.人形へのセレナード 4.雪が踊っている 5.小さな羊飼い 6.ゴリウォーグのケークウォーク) 1906-08 ; 前奏曲集 : 第1巻(1.デルフォイの舞姫 2.帆 3.野を渡る風 4.「音と香りは夕暮れの大気の中を漂う」 5.アナカプリの丘 6.雪の上の足跡 7.西風が見たもの 8.亜麻色の髪の乙女 9.遮られたセレナード 10.沈める寺 11.パックの踊り 12.ミンストレル) 1909-10, 第2巻(1.霧 2.枯葉 3.酒の門 4.妖精たちは艶やかな踊り子である 5.ヒース 6.風変わりなラヴィーヌ将軍 7.月の光が注ぐテラス 8.水の精 9.ピックウィック卿をたたえて 10.カノープ[エジプトの壺] 11.交代する3度 12.花火) 1911-13 ; レントより遅く 1910 ; 英雄の子守歌 1914 ; エレジー 1915 ; 12の練習曲集(2巻) 1915
【管弦楽付き声楽曲】
放蕩息子(S, T, B, orch) 1884改訂1907-08 ; 選ばれた乙女(S, 女声語り, 女声cho, orch) 1887-88改訂1902
【歌曲】
星の夜 1880 ; 美しき夕べ 1890または91 ; 麦の花 1881 ; 操り人形[第1稿] 1882 ; ピエロ 1882 ; 月の光[第1稿] 1882 ; ひそやかに[第1稿] 1882 ; リラ 1882 ; マンドリン 1882 ; パントマイム 1883 ; 感傷的な風景 1883 ; 出現 1884 ; アリエルのロマンス 1884 ; 2つのロマンス(1.消え行く心 2.鐘) 1885 ; 小唄(1.やるせない夢心地 2.巷<ちまた>に雨が降るごとく 3.木々の影 4.ベルギー風景――木馬 5.グリーン 6.憂鬱) 1885-88[《忘れられた小唄》として改訂1903]; ボードレールの5つの詩(1.バルコニー 2.夕暮れの諧調 3.噴水 4.黙想 5.恋人たちの死) 1887-89 ; 眠りの森の美女 1890 ; 3つの歌曲(1.海はより美しく 2.角笛の音は悲しく 3.垣の列) 1891 ; 《艶やかな宴》: 第1集(1.ひそやかに 2.操り人形 3.月の光[全て同題の歌曲の第2稿]) 1891-92, 第2集(1.無邪気な人たち 2.牧神 3.感傷的な対話) 1904 ; 抒情的散文(1.夢 2.砂浜 3.花 4.夕べ) 1892-93 ; ビリティスの歌(1.パンの笛 2.髪 3.ナイアデスの墓) 1897-98 ; フランスの3つの歌(1.ロンデルI――季節はそのマントを脱ぎ捨てて 2.洞窟 3.ロンデルII――プレザンス身まかれば) 1904 ; 愛し合うふたりの散歩道(1.洞窟[フランスの3つの歌の第2曲] 2.いとしいクリメーヌよ,私の言うことを聞き入れておくれ 3.お前の顔を見て私はおののく) 1904-10 ; ヴィヨンの3つのバラード(1.恋人に捧げるバラード 2.母の求めにより聖母に祈るために作られたバラード 3.パリ女のバラード) 1910 ; マラルメの3つの詩(1.ため息 2.ささやかな願い 3.扇) 1913 ; もう家がない子供たちのクリスマス 1915[2少年cho/2S, p版1916刊]
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