ショパンの生涯と主要作品
フレデリック・ショパンの生涯と主要作品を音楽学者・小坂裕子が解説!
文ー小坂裕子(音楽学者)
ショパンの生涯
ポーランドの作曲家,ピアノ奏者。独創的な美あふれるピアノ音楽の作曲家ショパンは,1810年3月1日にポーランドの首都ワルシャワ近郊のジェラゾヴァ・ヴォラに生まれた。父ミコワイは1771年にロレーヌ地方マランヴィルの葡萄栽培農家に生まれ,その一帯を領地とするポーランド貴族の管理役人ヴェイドリヒ夫妻に見込まれた。そこで,勉学の機会を与えられ,伯爵家の経理を担当するようになった。16歳の時,主人一家に伴われてポーランドに向かい,ロシア・プロシアの覇権争いの中,国民防衛軍に入隊し,その活躍によって大尉まで昇格した。退役するとフランス語を生かした家庭教師となり,1802年ジェラゾヴァ・ヴォラのスカルべク伯爵邸に住み込んだ。そこで家政を執りしきる貴族出身のユスティナ・スシジャノフスカと知り合い06年に結婚。長女ルドヴィカに続き,10年にフレデリック・ショパンが生まれた。半年後,父がフランス語教師の職を得るとともに,一家はワルシャワに引っ越した。高等学校教師となり,自宅には富裕な地方出身者のための寄宿学校を併設し,教育者としてその名を高めていった。父はフルートとヴァイオリンを,母はピアノと歌を得意とし,幼い頃からショパンは祖国の人々が愛するマズルカやポロネーズに親しんだ。
1.幼き天才
母の指導でピアノに親しんでいたショパンは,6歳になるとチェコ出身のヴォイチェフ・ジヴニーの指導を受けるようになった。演奏と即興の才能が備わっていることをジヴニーは見抜くと,バッハ,ハイドン,モーツァルト,ベートーヴェンなど,先人の音楽を教えることを自らの役割とした。
教養あふれる夫妻が開くショパン家のサロンには,東欧のパリと評されたワルシャワの知識人たちが集い,天才少年フレデリックの即興演奏を楽しみとした。客間に座る人々の中には,のちにショパンが16歳で入学するワルシャワ音楽院で教鞭をとる作曲家のエルスネルや,鍵盤楽器奏者のヴィルヘルム・ヴァツワフ・ヴュルフェルがいた。彼らから作曲法と演奏法の助言を受け,さらに同時代の作曲家であるフンメルやフィールドの音楽について学ぶことができた。
2.音楽院
8歳の時,現在ポーランド大統領官邸として使われているラジヴィウ邸の劇場でギーロヴェツの協奏曲を演奏して公開デビューを果たし,10歳ではイタリアのソプラノ歌手アンジェリカ・カタラーニから演奏に感動して金時計を贈られ,13歳の時にはF.リースやフィールドの協奏曲を演奏して喝采を浴びた。
「モーツァルトの再来」,「リストに匹敵する天才」ともてはやされても,教育熱心な両親は幼いショパンの才能に浮かれることはなかった。まずは家庭教師と父親から教育を受け,13歳で編入した高等学校では3年間,歴史や文学を学び優秀な成績を上げ,絵にも才能を示した。生涯の親友となるティテュス・ヴォイチェホフスキや,パリでショパンの楽譜出版に尽力したユリアン・フォンタナ,パリでひと時一緒に暮らしたヤン・マトゥシュニスキなどと友情を培ったのもこの時代である。
16歳で入学した音楽院の校長エルスネルは,ショパンに必要なのは作曲を学ぶことで,それもピアノを不可欠な楽器であると考え,他の学生には交響曲を課題にしても,ショパンにはピアノ協奏曲を作ることを許した。そのような環境のおかげで,17歳で作った最初の協奏曲《モーツァルトのドン・ジョヴァンニのアリア〈ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ Là ci darem la mano[お手をどうぞ]〉による変奏曲》op.2(1827)は,音楽批評家として健筆をふるっていたシューマンに絶賛された。
3.初めての外国とウィーンでの成功
父の友人で動物学者のフェリクス・ヤロツキに連れられ,初めての外国であるベルリンに行ったのは18歳の時である。ヘンデルのオラトリオやロッシーニなどのイタリア・オペラを観て感動し,ワルシャワではフンメルの演奏やパガニーニの演奏を間近にすることができ,さらなる才能の飛躍を海外に求めたいと考えるようになった。
1829年7月に音楽院を卒業すると,友人たちとクラクフ経由でウィーンに行き,かつての師ヴュルフェルのつてで,ケルントナートーア劇場で《ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ変奏曲》や《ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク Rondo à la krakowiak》op.14(1828)を演奏してデビューを果たし成功を収めた。
手にした成果により,自らの才能の基盤と趣向がポーランド民族音楽であることを意識したかのように,ショパンは続いて協奏曲《ポーランド民謡による大幻想曲》op.13(1828)やピアノ協奏曲第1番 op.11(1830)などを手掛けていった。
この頃,音楽院で一緒に学んだソプラノのコンスタンツ・グワトコフスカに思いを打ち明けたようで,1830年11月にウィーンへ旅立つ前には,「別れの詩」を受け取った。
演奏家としての成功を夢見て滞在したウィーンだが,成果といえるのは貴族のサロンでの称賛と当時最高のヴァイオリン奏者ヨゼフ・スラヴィクと親交を結べたことぐらいである。
1831年秋になると,活躍の見通しのない滞在を切り上げ,パリに向かうことを決めた。旅の途中,シュトゥットガルトでロシア軍のワルシャワ制圧を知り,家族と故郷に対する悲嘆の思いの中,練習曲のひとつ,《革命》op.10-12を書いたという有名なエピソードがある。
4.パリ生活
21歳(1831年)の9月にパリに到着すると,パリ音楽界の華やかなメンバーの筆頭にいるリストとすぐに知り合いになった。F.ヒラー,メンデルスゾーンは,同じように才能があって穏やかで気品漂わせるショパンとすぐに打ち解けた。彼らの紹介でパリ最高の貴族たちのサロンに迎え入れられ,ジェームズ・ド・ロスチャイルド邸での演奏をきっかけに,入門を望む富裕なピアノ愛好家からショパン自身が弟子を厳選するほどの人気教師となった。高額なレッスン料とサロンでの演奏への謝礼,そして楽譜出版が優雅なパリ生活を支えていく。
精神的な救いは,ショパンの到着とほぼ同じ時期に,ワルシャワ蜂起の失敗で亡命ポーランド人社会がパリに出来たことである。その中心となったのが,革命に失敗したチャルトリスキ公や詩人のアダム・ミツキェヴィチらであり,ショパンの終生の友人となった17歳年上の富裕な銀行家ボヴォイチェフ・グジマワもいた。
25歳年上でパリの音楽界の重鎮カルクブレンナーは,当初ショパンを弟子に誘って断られたのであるが,1832年2月26日サル・プレイエルで共演し,パリ音楽界デビューの後押しをしてくれた。
しかし,繊細なニュアンスの音色を愛すショパンは,本来,数多くの聴衆を前にするホールでの演奏は好まなかった。リストやタールベルクのように,満杯の聴衆の意表を突くような派手な演奏は苦手で,日を追うにつれ,芸術的趣向が備わった一握りの人たちが集う優雅なサロンを好むようになり,ホールの演奏から遠ざかっていく。ただし例外もある。歩くこともままならないような体調となる晩年に至るまで,同胞のポーランド人のための慈善演奏会で舞台に立つことを,決していとわなかったのである。
5.マリア・ヴォジンスカ
望郷の念を胸にパリで暮らすショパンは1835年8月,ドイツのカールスバードで両親と夢にまで見た再会を果たした。その帰路,ドレスデンで同郷のヴォジンスカ一家を訪ね,そこで幼なじみのマリアに魅せられ,2人は翌年密かに婚約した。しかしショパンが結核だという噂が誘因となって,ポーランドに帰ったマリアから翌年,別れの手紙を受け取ることになる。
失望したショパンだが,スケルツォ,バラード,ソナタ,練習曲集と,音楽家として次々に成果を上げている。住まいもショセ・ダンタンの瀟洒なアパルトマンとなり,リストやその愛人のマリ・ダグーのサロンに出入りし,カミーユ・プレイエルと贅沢三昧のロンドン旅行にも出かけた。ファッション・リーダーとして洗練された趣味の服装と物腰,態度は,貴婦人の注目を常に浴び,その様子は,リストをしてまるで貴族のようだと評されるほどだった。
6.ジョルジュ・サンドとの日々
1836年のジョルジュ・サンドとの出会いは,共通の友人であるリストとマリ・ダグーのサロンにおいてだった。男爵夫人であったサンドは夫と別れ,当初は男装でパリを闊歩し恋愛を重ね,自らの恋愛観や鋭い社会批判を込めた小説は出版されるたびに評判となり,流行作家の地位を手にしていた。
パリをその生活の中心としていたショパンだが,情熱的で母性あふれるサンドと共に1838年11月,スペインのマリョルカ島に到着した。サンドの2人の子供と共に過ごしたほぼ3ヶ月にわたる島での生活は,決して快適なものではなかった。ショパンは,口に合わない食事,馬車もままならない不便さ,医者も薬も満足にない中での結核の悪化に苦しんだ。しかし,島は温暖で自然あふれ,海に囲まれる景色は美しいため,民間医療の知識が豊富なサンドを頼りに,北側の山の中腹にあるバルデモサの修道院の中に暮らした。小説を執筆しながらショパンの日々を気遣うサンドのおかげで,ショパンはパリから取り寄せたプレイエルの小型ピアノの鍵盤に指を走らせて,《前奏曲集》op.28など数多くの成果を手にした。
帰国後の1839年6月から46年までは,ほぼ毎年,夏はサンドの館のあるフランス中部ベリー地方のノアンで作曲をし,秋になると出来上がった作品と共にパリに向かう馬車に乗り込んだ。田舎では体力を維持しながらの創造生活,パリでは華やかな社交とレッスンの日々という恵まれた生活のリズムがサンドの手で整えられた。
庇護されるかのような暮らしは,サンドの子供たちの成長とともに徐々に破綻していく。しかし,互いの創造への尊敬の念は変わることがなかったので,別れの前年も,サンドはショパンのためにノアンの館の暖房設備を整えることを考え,一方ショパンは自らの姿をモデルとされたかのようなサンドの小説《ルクレチア・フロリアニ》への称賛の気持ちを表明して友人たちを驚かせた。
決定的な別れのきっかけは,サンドの娘ソランジュが彫刻家クレザンジェとの結婚に失敗し,それに関してショパンがサンドに意見をしたことである。1847年7月末,パリにひとりで暮らすショパンはサンドから決別の手紙を受け取った。
7.晩年の日々
母のような庇護者のサンドという存在を失ったショパンの心身の痛手は大きかった。サンドと別棟ではあるがパリ生活を充実させたスクワール・ドルレアンの優雅な家具を備えた自宅に,ひとりショパンは暮らしていたが,そこに熱心に通う弟子のひとりに,イギリス人のジェーン・スターリングがいた。スターリングは,ショパンとできれば結婚したいと願うほど一方的に憧れており,サンドと別れて気力を失ったショパンを熱心にイギリスでの演奏旅行に誘った。
体調も悪く創作意欲もすっかり減退してしまった上に,サンドが自分の傍らにいないパリ生活は覇気もないので,結局,スターリングの申し出を受けることにした。出発前の1848年2月16日にサル・プレイエルで演奏会を開き,瞬く間にチケットが売り切れた300の聴衆を前に,チェロ・ソナタ op.65などを演奏した。
4月20日に始まったロンドン生活は当初,順調に思われた。サザランド公爵夫人の招きによりスタッフォード・ハウスで行われたヴィクトリア女王臨席の演奏会で喝采を浴びるなど注目され続け,ピアノ業者3社から楽器の提供を受ける生活は,ショパンの趣向に見合う優雅なものであった。7月7日のサロン演奏会では,親友のソプラノ歌手ポーリーヌ・ヴィアルドと共演し,お気に入りのスケルツォや子守歌などを演奏した。
8月5日に列車に乗り込み,10月31日にロンドンに戻るまで,マンチェスター,グラスゴー,エディンバラと旅行を続けるが,スターリングに伴われての長時間の移動や,資産家の親類たちのサロンにおける英語での長時間の社交に疲労困憊し,病状は悪化の一途をたどるようになった。しかし,ロンドンに戻ると,最悪の体調を押して,同郷の人々のためならと力を振り絞り,11月16日にギルド・ホールで行われたポーランド難民のための慈善演奏会に出演した。
念願のパリ帰還は11月24日で,スクワール・ドルレアンの自宅に戻ると,親しい友人や弟子たちが待ち受けていた。長年の友人デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人は美しい歌声で見舞い,体調がいいときは,ウジェーヌ・ドラクロワがショパンを馬車に乗せて気分転換にと外に連れ出した。富裕な弟子たちは経済的援助を惜しまず,スーツォ公妃の母オブリェスコフ公妃は,緑豊かなシャイヨの住まいの費用の半額を負担していた。レッスンもままならなったショパンに巨額の資金提供をしたのはスターリングで,その死後,大半のショパンの遺品を買い取ったのもスターリングだった。そのおかげで,ピアノなど多くのものが散逸せずに残ることとなった。
1849年6月になると大量の喀血をし,姉のルドヴィカを呼び寄せてほしいと最後の願いを口にするようになった。富裕な弟子たちの政治的に強力なコネによって,ポーランドを出国できた姉が8月9日に到着した。
10月15日にポトツカ伯爵夫人がショパンの願いでベッリーニなどのアリアを歌い,サンドの娘のソランジュや弟子のアドルフ・グートマンなどが見守る中,10月17日午前2時頃に息を引き取った。
10月30日にマドレーヌ寺院で執り行われた葬儀では,遺言どおりにモーツァルトの《レクイエム》と,《前奏曲集》から4番と6番などが演奏された。棺のそばにはドラクロワ,プレイエル,マイヤベーアなどが付き従い,ペーラシェーズ墓地に向かった。
8.作品
ショパンの作品はピアノ・ソロ曲が中心となるが,自身が作品番号を付けていない歌曲,室内楽などにも注目すべきものは少なくない。作曲歴は7歳のポロネーズに始まり,死の床で作ったマズルカで終わると考えられる。作風の基盤となるのはポーランド民族音楽で,その独特の節回しやリズムは全ての曲種に表れる。
曲想の美しさは類を見ないほどで,それは即興的な才能を幼くして認められているショパンゆえのものであり,半音階,音階的音型,徐々に細分化されるかのような装飾音に,きらめくような独創性を聞かせる。テンポ・ルバートはショパン以前から使われていたが,左手で明確な拍を刻み,右手は自由に歌うかのような流麗さも,ショパン作品の特徴のひとつとされている。練習曲や前奏曲にみられる曲集としての内容構成のまとまりも,奇跡的なほど美的センスが光る。ノクターン,バラード,スケルツォ,ソナタなど,様々な曲種のいずれにおいても,自ら作品番号を付けた作品は,いわばショパン・ブランドともいえるかのようで,その芸術趣向は他のピアノ音楽とは相容れないほど,ショパン独自の完璧な音響世界を繰り広げる。
破棄を遺言した作品群は,楽譜編集のフォンタナや姉のルドヴィカの意向によってまとめられ,op.66から74までの番号が付けられ出版された。20世紀になると,クリスティナ・コビラニスカによる研究者番号が付けられたものが多数あり,現在では全体作品表で明らかにされ,演奏に取り上げられるものも少なくない。
楽譜問題は議論され続けている。というのは生前,パリでは自筆譜に基づいて出版されたがそれと同時に,写譜されたものをもとにロンドンやウィーンでも出版されており,その他に弟子たちの楽譜にショパンが書き込んだものもあるからである。このような異稿を明らかにしているものに「ウィーン原典版」があり,ナショナル・エディションとしてショパン国際コンクールが推奨している「エキエル版」なども信頼性の高いものとして評価されている。その他にショパンの楽譜の伝統的なものとして「パデレフスキ版」「コルトー版」などもある。
ショパンの主要作品
KK番号はクリスティナ・コビラニスカによる目録で与えられた作品番号
【ピアノと管弦楽の曲】
ピアノ協奏曲 : No.1 e op.11 1830, No.2 f op.21 1829 ; モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》の〈ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ〉による変奏曲 B op.2 1827 ; ポーランド民謡による大幻想曲 A op.13 1828 ; ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク F op.14 1828 ; アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ Es op.22 1830-35
【室内楽曲】
ピアノ三重奏曲 g op.8 1828-29 ; チェロ・ソナタ g op.65 1845-46 ; 序奏と華麗なるポロネーズ C op.3(vc, p) 1829-30 ; マイヤベーア《悪魔のロベール》の主題による大二重協奏曲 E KK IIb-1(vc, p) 1831
【ピアノ合奏曲】
ムーアの主題による4手のための変奏曲 D KK IVa-6 1826 ; ロンド C op.73(p/2p) 1828
【ピアノ・ソナタ】
No.1 c op.4 1827-28, No.2《葬送》 b op.35 1837, No.3 h op.58 1844
【練習曲】
12の練習曲 op.10(1.C 2.a 3.E《別れの曲》 4.cis 5. Ges《黒鍵》 6.es 7.C 8.F 9.f 10.As 11.Es 12.c《革命》)1830-32, 12の練習曲 op.25(1.As《エオリアのハープ》 2.f 3.F 4.a 5.e 6.gis 7.cis 8.Des 9.Ges《蝶々》 10.h 11.a《木枯らし》 12.c《大洋》) 1835-37, 3つの新しい練習曲 KK IIb-3(1.f 2.As 3.Des) 1839
【前奏曲】
24の前奏曲 op.28(1.C 2.a 3.G 4.e 5.D 6.h 7.A 8.fis 9.E 10.cis 11.H 12.gis 13.Fis 14.es 15. Des《雨だれ》 16.b 17.As 18.f 19.Es 20.c 21.B 22.g 23.F 24.d)1838-39, As 《プレスト・コン・レジェレンツァ》 KK IVb-7 1834, cis op.45 1841
【バラード】
No.1 g op.23 1835頃, No.2 F op.38 1839, No.3 As op.47 1841, No.4 f op.52 1842-43
【スケルツォ】
No.1 h op.20 1835頃, No.2 b op.31 1837, No.3 cis op.39 1839, No.4 E op.54 1842-43
【ワルツ】
華麗なる大円舞曲 Es op.18 1831-32, 3つの華麗なる円舞曲 op.34(1.As 2.a 3.F)1835-38, As op.42 1840, 3つのワルツ op.64(1. Des《小犬》 2.cis 3.As)1846-47, 2つのワルツ op.69(1.As《別れ》 1835 2.h 1829), 3つのワルツ op.70(1.Ges 1832 2.f 1842 3.Des 1829), E KK IVa-12 1829?, As KK Iva-13 1830, e KK Iva-15 1830, a KK Ivb-11 1847
【マズルカ】
4つのマズルカ op.6(1.fis 2.cis 3.E 4.es) 1830-32, 5つのマズルカ op.7(1.B 2.a 3.f 4.As 5.C) 1830-32, 4つのマズルカ op.17(1.B 2.e 3.As 4.a) 1832-33, 4つのマズルカ op.24(1.g 2.C 3.As 4.b)1833, 4つのマズルカ op.30(1.c 2.h 3.Des 4.cis) 1837, 4つのマズルカ op.33(1.gis 2.D 3.C 4.h) 1838, 4つのマズルカ op.41(1.cis 2.e 3.H 4.As)1838-39, 3つのマズルカ op.50(1.G 2.As 3.cis) 1842, 3つのマズルカ op.56(1.H 2.C 3.c)1843-44, 3つのマズルカ op.59(1.a 2.As 3.fis)1845, 3つのマズルカ op.63(1.H 2.f 3.cis) 1846, 4つのマズルカ op.67(1.G 2.g 3.C 4.a)1835-49, 4つのマズルカ op.68(1.C 2.a 3.F 4.f) 1827-49, G KK Iia-2 1826, B KK Iia-3 1826, D KK Iva-7 1829, B 《ヴォウォフスカ》 KK Ivb-1 1832, As KK Ivb-4 1834, a 《エミール・ガイヤール》 KK Iib-5 1840, a 《ノートル・タン》 KK Iib-4 1841
【即興曲】
No.1 As op.29 1837, No.2 Fis op.36 1839, No.3 Ges op.51 1842, 幻想即興曲 cis op.66 1834
【ノクターン】
3つのノクターン op.9(1.b 2.Es 3.H)1830-32, 3つのノクターン op.15(1.F 2.Fis 3.g)1830-33, 2つのノクターン op.27(1.cis 2.Des)1835, 2つのノクターン op.32(1.H 2.As) 1837, 2つのノクターン op.37(1.g 2.G) 1838-39, 2つのノクターン op.48(1.c 2.fis) 1841, 2つのノクターン op.55(1.f 2.Es) 1842-44, 2つのノクターン op.62(1.H 2.E) 1846, e op.72-1 1829頃, cis 《レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ》 KK Iva-16 1830, c KK Ivb-8 1847
【ポロネーズ】
3つのポロネーズ op.71(1.d 2.B 3.f)1827-29, 2つのポロネーズ op.26(1.cis 2.es)1835, 2つのポロネーズ op.40(1.A《軍隊》 2.c)1838-39, fis op.44 1841, As 《英雄》 op.53 1842-43, 幻想ポロネーズ As op.61 1846, g KK Iia-1 1817, B KK Iva-1 1817, As KK Iva-2 1821, gis KK Iva-3 1822, b 《アデュー》 KK Iva-5 1826, Ges KK Iva-8 1829
【ロンド】
c op.1 1825, マズルカ風ロンド F op.5 1826, Es op.16 1833
【変奏曲】
華麗なる変奏曲 B op.12 1833 ; 変奏曲《パガニーニの思い出》 A Iva-10[疑わしい作品] 1829
【その他のピアノ曲】
3つのエコセーズ op.72-3(1.D 2.G 3.Des) 1826 ; 葬送行進曲 c op.72-2 1827 ; ボレロ C op.19 1833 ; ソステヌート Es Ivb-10 1840 ; タランテラ As op.43 1841 ; 演奏会用アレグロ A op.46 1841 ; 幻想曲 f op.49 1841 ; 子守歌 Des op.57 1844 ; 舟歌 Fis op.60 1845-46
【歌曲】
17の歌 op.74(1.願い 2.春 3.悲しみの川 4.大騒ぎ 5.彼女の好み 6.消えろ 7.使者 8.美しき若者 9.メロディ 10.戦士 11.2人の死 12.私のいとしい人 13.孤独 14.指輪 15.許婚者 16.リトアニアの歌 17.墓場の歌) 1827-47 ; どの花に KK Iva-9 1829 ; 魔法 KK Iva-11 1830 ; ドゥムカ KK Ivb-9 1840chopin
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