戦前から弾き継がれしピアノ教本の横綱に熱をおびる議論! ついにハノン・サミット開催か?
「ハノンあるあるを語りたいんです!生誕200年記念に!」という飯田有抄さんの一声に集まってみると、案外、ハノンに関係のない人がいなかった? 話していくうちに、それぞれのハノン愛がヒートアップ。
鍛錬を超えたところに現れる、信じられないくらい美しい60番の奇蹟。戦後のピアニストを見守ってきた、日本ピアノ文化の影の立役者。夢は大きくハノン・サミット!!
第2部:もっとハノンにせまるための準備
60番は、奥儀!
前島 リピートやら注意事項やら、ハノンがいちいち言ってくることを、心に留めながら1番から弾くと本当に大変なんですが、そうして迎える最後の曲、60番といったら!(声裏返る) びっくりするくらい感動します!!
亀田 60番にきて、急にね、音楽的になるんだよね!!
前島 亀田さんみたいに、1番から順に一気に弾いてきたら、60番に来たときの感慨というか、光射す感じがありますでしょう!?
亀田 射しますよ! 光! それまでユニゾンでたんたんとやる曲がほとんどなのに、突然ハーモニーが豊かで、転調までする。2ページ目で休符がちょうどよく出てくる。強弱もpと書かれ、もうffで鳴らさなくていいよ、みたいな。急に優しさが出てくる。
飯田 あの冷徹なハノンが、突然表情を、人間の心を見せる感じ。
前島 A-B-Aという形式まであって、とくにBの終わりがすごくいい。42小節目、ピアニッシモで、「ペルデンドシ perdendosi(消えていくように)」とある。しかもここ、左手はピアノ88鍵の最低音にあたるラ。普通、曲のなかではなかなか触ることのできない、鍵盤の一番下の音です! これ、ぜったいねらってる。無慈悲な慈悲ですよ。このためだったんだ! と、納得させられるものがある。
和田 それって、60番まで弾いた人にしかわからない境地ですね…..。
飯田 60番までレッスンでやった人は数少ないと思います。でも、子どもの頃って、本を買ってもらうと、最後のページを見ちゃったり、楽譜を与えてもらうと、最後の曲はどんなだろう?って、のぞいたりしませんでした?
ブルクミュラーなら、最後の「貴婦人の乗馬」ってなんかすごそうだ! 音符がいっぱいだ! と憧れて眺めてみたり。私の終着点、どこなんだ? みたいな。
そのノリで、私もおそるおそる60番を弾いたことがありました。何しろ黒々とした譜面に驚く。ちょっと景色が違う。2小節目の3拍目で、転調してる。3小節目で、臨時記号まで出てくる。そこで胸を熱くした記憶があります。最後、ここなら、がんばろう、と。
川上 つまり59番まではユニゾンや機能的な重音ばかりで、ピアノはせっかくハーモニーを作れる楽器なのに、その楽しみが奪われてるんです。だからこそ、スケールのあとのカデンツとか、60番とかに異様な喜びを見出せるんですね。
ところでフランス国立放送は2014年に、ハノン(アノン)のネガティブキャンペーンみたいな記事を出してます。「Hanon? Ah, non! アノン? あ、ノン!」と。
飯田 しゃれかよ。
川上 書いてあることは、「ピアノ練習のエクササイズ部門にはどんなものが最適だろう。(ショパン以前の)多くの教則本が、すごくすごく悪い想い出をよみがえらせる……私たちの多くはシャルル=ルイ・アノンによる悪名高い訓練に苦しめられてきた。それは音楽とタッチのアイディアからは切り離された機械的な形式の積み重ねだ」……とかなんとか。この話はブラームスの「51の練習曲」がいかにハノンより優れているか、という内容のラジオ番組に続くようです。
亀田 ハノンも使い方ですよ。1番から全部やるのと、スケールのところだけやるのとでは、ではまったく違うしね。
飯田 切り口はいっぱい。でも、第60番の世界はぜひ見て欲しい。
亀田 そこは、奥義ですから! 秘境ですから! 簡単には、いけない(笑)
前島 山登りに近い。最初のうちは何曲もサクサク弾ける。でも第3部でヘトヘト。そして登り切ってこそ見える、疲れ切ってのペルデンドシ(消えていくように)。そういう音楽なんですよ。最後は暖かいよ。60番を語り出すと、そういう話になっちゃうなぁ。
12番に、日本ハノン黎明期を見る
飯田 番号が戻りますが、私がちょっとびっくりしたのは、12番。最初のほうは、だいたいドの音から始まるのに、12番にきて、突然ラから始まる。え?! って。響き的にもびっくり。あ、でも、注意書きによると、「※第1小節がG音(ソ)から始まる版もあります」だって。
亀田 そうそう、「昔はソから始めたものよ」とおっしゃるご年輩の先生がいましたが、本当なのでしょうか。
飯田 あ、ではここで、秘密兵器を出しましょう。つい先日、見ず知らずの親切な方が、SNSを通じて古いハノン楽譜の情報を送ってくださったんです。「飯田さんにお見せしたい」と。おそらく、過去にぶるぐ協会がピティナで連載していた記事をご覧になって、ずっと覚えていてくださったのでしょう。※前島さんの執筆したハノン記事はコチラ
その方は横浜でお茶屋さんを営んでいらっしゃる女将さんなのですが、お客様が持っていらした楽譜なのだそうです。なんと、その持ち主・中村照美さんが、大切な楽譜を私に送ってくださいました。
一同 おお~。
飯田 とても古いものです。戦後すぐのものですね。ご本人も「本当に物のない時代」とおっしゃっていましたが、紙質が良くありません。ハノンは3分冊になっていたようで、これは1~20番までが載っている第1巻です。
では、この楽譜で、先ほどの第12番の開始が、ソなのか、ラなのか、確認してみましょう。
一同 ソだ! おお!!(拍手)
飯田 ちなみに中村さんは現在82歳。当時は高校生で、日本全体がまだ貧しい時代でしたが、大変ピアノに憧れを抱いていらしたそうです。家に楽器などなく、お小遣いをコツコツためたお金でこのハノンを買い、学校にあったピアノを借りて独学で練習なさったそうです。ご結婚して子どもが生まれると、家にオルガンをお買い求めになりました。お子さんが巣立ち、還暦になってから、ようやく念願のピアノのレッスンを受け始め、80歳を過ぎた今、発表会ではショパンのノクターンを演奏なさっているそうですよ。
杉内 うわぁ、素敵なお話!
飯田 戦中戦後を生き抜き、昭和の高度経済成長時代を支えてきた世代の方々の、ピアノに抱いた夢と憧れ。その思いをこうした楽譜が受け止めて来たんですねぇ。ちなみに、前島さんがさらに古い版を所蔵。
前島 やはり戦後の紙質の悪さが目立ちます。原隆吉さんの「序」がいいんですよ。ハノンを弾けば、「主要な機械的困難を、征服できるであろう」と書いてある。
飯田 「征服」! すごい。なんか怖い。1946年8月18日。終戦の1年後に「征服」とか、なんというか時代の香りを感じますね。
前島 「十分な練習時間のないピアニストや先生は、本章を数時間練習することによって、指の敏捷を取り戻すことができる。種々の困難は抹消しさり、優れたピアニストの畢竟、すなわち美しく明瞭な演奏に達することができる」と。「大変時間を節約し効果的である」と。
飯田 60分かかるけど。
前島 そうです。これに勝るものはない、と声高におっしゃっており、戦後の混乱期にも関わらず、私の昭和21年版と中村さんの昭和22年版、この2冊の間に、版を重ねているんですね。
後日、中村さんの師事する横浜市戸塚区のピアノの先生、鈴木トヨミさんから、もっともっと古いハノンの楽譜をお送りいただきました! そちらはなんと、昭和14年の発行! 初版は昭和7年1月24日。戦前です。共益商社書店の貫名美名彦版。こちらは、現在の楽譜出版にはないほど非常に豪華な装丁です。黒い革のように加工された品質の良い表紙に、型押し!! 80年前の日本が、西洋からのピアノ教材をいかに価値あるものとして捉えていたかが、その手触りから伝わります。94歳のお母様と鈴木さんが2代にわたり、ご使用になったそうです。「子ども時代、小松耕輔氏(筆者注:明治から昭和にかけて活躍した日本の音楽家・教育者)の娘さんに教えていただいていまして、先生の筆跡がわずかに残る思い出の物です」とのこと。大切な楽譜をお貸出しいただき、ありがとうございました。
第3部:最高のハノンと出会うための練習
昨今のハノン事情
飯田 ところで、昨今のレッスン現場では、どんなふうにハノンは捉えられているんでしょうね。2006年に音楽之友社標準版から出された『ハノン・ピアノ教本 New Edition 解説付』は、ハノンとしては新しい版ですよね。
亀田 ハノンを新しい楽譜として出すにあたり、音楽史的な視点から解説を書いていただきました。そういう視点はそれまでなかったので、そこで新しさを出したかった。スケールの大切さも解いています。いずれもハノンを練習する意義を少しでも考えてもらえたら、と。
和田 「ムジカノーヴァ」では、2018年9月号でなんと「ハノン特集」をやっていますよね。
西脇 はい。一時期、ハノンは音楽的じゃないから、辛いハノンはやめて、なるべく楽しくトレーニングしましょう、という風潮が高まった。でも、最近は再び基礎トレーニングの大切さが見直されてきていると感じます。あらためてテクニックとは何か、ハノンの活用法はどうなのか、見直してみよう、という意図で特集しました。この号は、売れましたよ!
和田 昭和の根性論的な使い方はまかり通らなくなり、「楽しく楽しく」という方向に変えたけど、それじゃやっぱりダメだって。やり方が見直されているんですね。
西脇 昔はレッスンする教本や順序が決まっていました。バイエル、チェルニー、ハノン、ブルクミュラー、ソナチネ・アルバム。定番だったものが一回否定されちゃうと、「じゃあどうしたらよいの」という迷いが出てくる。
飯田 この特集号では、私も伊藤恵先生にインタビューをしましたが、「汚い音で弾くのは絶対にやめてほしい」とおっしゃったのが印象的でした。私の受けていた時代のレッスンでは「全部フォルテのスタッカートで!」とか、「アクセントつけた音強く!」とか言われて、がむしゃらに弾いていましたから。
伊藤先生は「シンプルな反復の中にも、和声的・有機的な性格を感じ取りながら弾いてほしい」と。そのように導くには、まず先生方にハノンに対する考え方を磨いていただかなくてはならないですね。このハノン特集号を読んで!
和田 ハノンの対抗馬的な教本は、ほかにあるんですか?
亀田 スケールとアルペジョを基本としてやればいいから、ハノンにこだわる必要はない、という考え方をもった先生もいます。しかし、変わらずハノンは売れていて、圧倒的シェアですね。
対抗馬は『バーナムピアノテクニック』か『ピアノのテクニック』かもしれません。子ども用に短くエッセンスが抽出されている。大人用には『コルトーのピアノメトード』などもありますね。ある指である音を保持させながら、別の指を動かすことで、指の独立を徹底的に鍛える。
川上 自分はあのコルトーの練習をやると、脳内でつながってない神経を無理やり繋げられるような感覚を覚えて、吐きそうになるんですよね(苦笑)。ハノンは、それはない。案外さくさく弾けるから、爽快感がある。コルトーは全然進ませてくれない感じ。よりプロ向けなのかも。
生誕200年ハノン・フェス構想!?
前島 さて、みなさんノーマークだったと思いますが、2019年はハノンの生誕200年にあたります!
飯田 これは、お祝いをしないと。なんだかんだ言いながらも、お世話になってきたハノンさんなのだから。なにかフェス的なことやれるといいですね。ハノン・コンテストをやって「美音部門」「高速部門」「耐久部門」などで競うとか、とにかくみんなでハノンを弾きまくるとか、とか(笑)。
杉内 840回繰り返せ、というサティの「ヴェクサシオン」みたいですね。
亀田 ハノンの60番まで弾くと、普通の人なら2時間かかる。それを60回繰り返す? 120時間(笑)。
前島 5日間かかる。ギネス狙えますね。そのエネルギーで発電もできそう。
飯田 だれかハノン・ピアノ蓄電機を開発してほしい。
前島 そんなに弾いてると、日本の怪談の百物語みたいに、弾き終わったらなんか出てきそうです。
飯田 ハノンの霊が降りてくる?!
杉内 じゃあ、ハノンを降ろしてインタビューしましょう!
亀田 ぐるぐるしてると(伊藤康英さんの曲集『ぐるぐるハノン』参照)早く降臨するかもよ。
飯田 ぐるぐる、儀式っぽい!
前島 何かの解説で「ハノンは合奏するといい」って読んだことがあります。とにかく人海戦術でやらないと。フェスのオーディエンスも参加者になって。
川上 ピアノを習った人ならだれでも参加できるってことですよね。ただし、全員60番まではみておかないと。
杉内 何番が当たるかわからない、はらはらどきどきのハノン・ビンゴ。
亀田 ハノン・カフェを開いて、ハノンについてゆるく語り合う場もほしい。
飯田 ハノン・サミットも開いて、侃侃諤諤ハノン議論を戦わせるもよし。あー楽しみですね! 実現するかどうかは知りませんが(笑)
ともかく2019年、ハノンさんへのお祝いの気持ちを高めてまいりましょう! ということで、この座談会はそんな一歩になったでしょうか。本日はみなさん、どうもありがとうございました。
これでこの座談会は終わりです。ひととおり読んで、ハノンとなんだかんだ言いながら付き合ってきた人たちのキテレツさを理解されたことでしょう。全部を通して読むと、そこそこの時間がかかりますが、それでハノン愛への大きな進歩をとげられれば、わずかなものです。偉大な音楽愛好家にとって、1日1回ハノンのことを考えることは、それほど大したことではありません。
ONTOMOではハノン生誕200年を記念して、ハノンをモチーフにしたTシャツの制作・販売を決定いたしました。
デザインはイラストレーターの舞木和哉さんに依頼し、ネタじゃない、素敵なTシャツを鋭意制作中。どうぞご期待ください。
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