絵から聴き、音から描く——禅と落書きが産みだす大山エンリコイサムの音のうねり
日曜ヴァイオリニストで、多摩美術大学教授を務めるラクガキスト、小川敦生さんが美術と音楽を結びつける連載。
今回は壁の落書き「グラフィティ」から、文字を取り払うことで、独特の世界を生み出す大山エンリコイサムの作品を取りあげます。
1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...
線のうねりからバッハの単旋律を聴く
「これは墨絵なのだろうか?」
横浜市の神奈川県民ホールギャラリーで開かれている「大山エンリコイサム展 夜光雲」で縦3mの大作を見て、そんな印象をもった。
展示されているのは、吹き抜けをもつ地階の大空間。その中央に、黒の画材で一見無秩序に線を描きなぐったかのようなモノクロームの大作『FFIGURATI#323』が、天井から吊り下げられていた。線が縦横無尽に大画面上を行き交っている。躍動感のある、すごいうねりだ。何かの形を描いているわけではない。書道の線が「文字を書く」という呪縛から解き放たれて動き回った跡のようにも見える。
絵画作品の中に動きを見ること自体に、筆者は“音楽”を感じる。武満徹らが図形楽譜を制作したことを思い起こしながら、「こんな楽譜があってもいいのではないか」とも思った。すぐに頭に浮んだのは、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」第2番の冒頭の曲「アルマンド」だ。
バッハはこの無伴奏パルティータの終曲「シャコンヌ」などで和音を効果的に使っている一方で、「アルマンド」ではおおむね単旋律、つまりヴァイオリンが1本の弦で奏でる、流れるような旋律の動きによって曲を完結させている。いわば線が音空間の中を自由に動き回る感覚だ。
線による躍動感は、まさに大山が作品画面で見せたものでもある。どちらも具体的に何かの形を表すのではなく、まるで線が自立したかのような世界を創り出している点でも共通している。
「落書き」と「禅」が産み出した緊張感
ニューヨークを活動の拠点にしている大山エンリコイサム(1983年生まれ)は、これまでエアロゾル塗料などを主な技法としてきた。「グラフィティ」と呼ばれる街なかの落書きから文字の要素を取り去ることに新たな表現の可能性を見て生まれたという作風には、エアロゾル塗料を利用した技法は似つかわしい。グラフィティの作者たちが実際に利用してきた技法だからだ。一方で大山は、以前から墨を使っており、東洋の表現を意識して制作に臨んできた姿勢も併せてうかがわれる。
『FFIGURATI#323』の画面の上には、ほうぼうに絵の具が流れた痕跡があり、作品の下の床には滴り落ちた絵の具が溜まりを作っていた。絵の具の種類の確認はできなかったが、つい先ほどまで、この場所で描いていたような生々しさを見せつけていたのは確かだ。
同ギャラリーキュレーターの中野仁詞さんによると、この展覧会で大山は「禅」を意識し、事前に国内の多くの寺を巡ったそうだ。その結実は、件の作品が展示された大空間の作品配置に象徴されているという。特に印象に残った京都・龍安寺の庭園の枯山水における石の配置が生む緊張感が、大いなるインスピレーションになったというのである。大作でも数十点は掛けられそうな大空間に、わずか7点しか展示されていないゆえんだ。
《FFIGURATI#323》を見て、墨絵に思いを馳せたのは、あくまでも筆者の類推だ。だが、どうやら墨と同じ色の画材を使い、一部では本当に墨を使っている。また、線を主体とした表現であるというだけでなく、空間構成にも禅とかかわりの深い墨絵の要素はあったと考えてもよさそうだ。おそらくこの空間に数十点の作品がひしめいていたら、同じようには感じられなかったに違いない。
音のうごめきから脳で描く
さて、この展覧会には、もう一つ注目すべき作品があった。いや「注耳」というべきかもしれない。順路では最後に鑑賞することになる1階の展示室2室にそれぞれ配置された、音の作品だ。壁には何もかけられておらず、音の発生装置としてのiPodとアンプ、そして小型のスピーカーが壁際に置かれているだけの展示だった。
最初は「何だ、この部屋は?」と思って戸惑う中で、音に耳を澄ませることになる。出てくる音は、一般的な捉え方では、雑音ということになろうか。
作品のキャプションを見ると「エアロゾルの噴射音」とある。どうりで、その音に大いなる“うごめき”が感じられたわけである。作品名は《エアロミュラル》。「ミュラル」は壁画を意味する。すなわち、エアロゾル塗料を噴射する音で壁画を描いているわけだ。
音を聴きながら、頭の中で大山が作品を描いている様子を想像してみる。展示室の真っ白な壁に、線のうごめきが描かれていく。人間の脳はこんな楽しみ方もできるということを発見させてくれるだけでも、貴重な作品だ。
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