“This Is Me”が聴こえてくる
『アート鑑賞、超入門!』『現代アート、超入門!』等の著作で、読者をアートの世界へ誘うアートライター・藤田令伊さんがONTOMOに登場。毎回さまざまなアート作品から、「絵に音楽を聴く」楽しみをご紹介します。今回は、「ふつう」ではない身体的特徴をもった人々を描いた作品について。映画『グレイテスト・ショーマン』でも描かれた人々に、画家たちはどう向き合ったのでしょうか。
アートライター、大正大学非常勤講師。単に知識としての「美術」にとどまらず、見る体験としての「美術鑑賞」が鑑賞者をどう育てるかに注目し、楽しみながら人としても成長できる...
ヒュー・ジャックマン主演のミュージカル映画『グレイテスト・ショーマン』を見た。かつての「エレファントマン」と同じように身体が「ふつう」ではないことで、差別を受けてきた「フリークス」と呼ばれる人々が、同じ人間として目覚め、立ち上がる物語である。
ストーリーそのものは少々ステレオタイプだし、主人公が相当美化されている感が否めなかったが、造り込みという点ではさすがと唸らせるものがあり、トータルではなかなかの見応えがあったかと思う。
ミュージカル映画なので、作中いくつか鍵となる楽曲が挿入される。なかでもやはり、キアラ・セトル演じるレティ・ルッツが歌い上げる“This Is Me”のシークエンスにはグッとくるものがあった。
レティは歌う。「『消えろ、お前なんか誰も愛さない』といわれた。でも、心の誇りは失わない。ありのままでいる。これが私」と。彼女のシャウトに引っ張られ、ほかのフリークスたちも目覚めてゆく。背が伸びず子どもより小さい人、逆に山のように異常に大きな人、全身獣みたいな毛が生えた人、アフリカ系で人種差別の標的となった人、人、人……世間から疎まれ、「フリークス」=「奇人」「変人」という眼でしか見られず、自分を恥じ、自らを傷つけることしかできなかった人たちが、ありのままの自分に勇気と誇りを持つことを宣言し、「私たちは戦士だ」と叫ぶ。見る者の魂が奮い起こされる歌とダンスに鳥肌の立つ思いがした。
YouTubeに初めてキアラがスタッフやキャストの前で“This Is Me”を披露したときの様子がアップされている。その映像は、キアラがまるでレティそのものであるかのような印象を抱かせる。
キアラは最初「歌うのが怖かった」ためマイクスタンドのうしろにいたが、監督に「堂々とみんなの前へ出て」と促され、前へ進み出る。そして、歌うにつれて何かが弾け、せき止められていたものが一気に解放するかのように爆発する。その姿はまさしくレティそのものである。キアラの熱唱につられ、ヒュー・ジャックマンらも立ち上がり、一緒に踊り出す。スタジオは興奮のるつぼと化す。このメイキング映像自体が一つの映画みたいに見る者の心を激しく揺さぶる。
レティみたいな女性は映画ならではの話だと思うかもしれない。が、そのような人物は実際に存在する。徳島県鳴門市の大塚国際美術館にはスペイン人画家フセ・デ・リベーラの《髭のある女》という絵の精密複製画が常設展示されている。一見、男性二人が描かれているように見えるが、じつは右側の人物は女性で、左側はその夫である。
女性の名はマッダレーナ・ヴェントューラという。マッダレーナは37歳頃から髭が生え始め、やがて絵のような面相となった。絵のなかでマッダレーナは顔に似合わぬ豊かな乳房で赤ん坊に母乳を飲ませており、人物が紛れもなく女性であることを証している。
彼女は、物珍しさのあまり、人々の好奇心の的となった。よく見れば、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。そのことに気づくと、強いられた状況への彼女の哀しみがしんしんと伝わってくる。この涙をさりげなく、しかし、はっきりと描いたリベーラは、マッダレーナを決して見下して描いたわけではなかろう。
同じスペイン人の画家ディエゴ・ベラスケスにも同様の絵がある。《道化エル・プリーモ》に描かれている男性はいわゆる矮人で、道化として宮廷の慰み者にされていた。しかし、この描かれようはどうだろう。道化といった軽々しいものとはとても思われない。むしろ、分厚い本を手にした姿には知性と尊厳とが満ちているように感じられる。
《バリェーカスの少年》も、ベラスケスの同じ視線が感じられる作品である。精神発達の遅れた少年フランシスコ・レスカーノのあどけないといってもよさそうな様子が描かれている。レスカーノはバルタサール・カルロス王太子の遊び相手をつとめたやはり矮人だが、トランプを手にし、何の打算もない表情を見る者に向ける。ベラスケスの筆は少年の無垢な精神を決して蔑むことなく描き出している。
ベラスケスは彼らを身体的な特徴が目立たぬように座った姿勢で、彼らと同じ目線の高さで描いている。ベラスケスの視線は、彼らを宮廷の慰み者としてではなく、自分と同じ人間として捉えているように私には見える。いわば、リスペクトがある。道化として見下された者たちをこんなふうに描いたところにベラスケスの人間としての温かさを垣間見る思いがする。
『グレイテスト・ショーマン』を見てから、これらの絵を見ると、私の脳裏にはキアラ・セトルの歌声が響くようになった。それは人間賛歌の歌声であり、生きる歓びを精一杯表現しようとするものである。それが絵と響き合う。
キアラの歌とリベーラやベラスケスが出会い、結びついたことで、私はいままでとは少し違ったニュアンスで絵を見るようになった。絵画鑑賞は音楽との出会いによって変化することがあるのである。
関連する記事
-
農民画家、神田日勝の絶筆から聴こえてくる生命の律動――連続TV小説『なつぞら』に...
-
ミュシャが描いたスラヴ——モルダウの流れに誘われ、悲運の歴史を辿る
-
聴こえてくるのはプライベートな音。ボナールが生涯追求した「親密さ」
ランキング
- Daily
- Monthly
関連する記事
ランキング
- Daily
- Monthly