パン——笛を持つ牧畜の神で父はヘルメス、母は人間!
作曲家が題材にしている古代ギリシャやローマ神話の神々を、キャラクターやストーリー、音楽作品から深掘りする連載。
第9回は、ドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》やラヴェルの《ダフニスとクロエ》などに登場するパンを取り上げます。なぜ半獣神? なぜ笛を持っている? 神話の背景から紹介します!
音楽ジャーナリスト。都内在住。著書に『はじめてのクラシック マンガで教養』[監修・執筆](朝日新聞出版)、『クラシック音楽のトリセツ』(SB新書)、『R40のクラシッ...
ドビュッシーの作品に代表される牧畜の神
今回登場するのはパン(パーン)。音楽分野では主に「パンの笛」で知られるあの牧畜の神だ。
パンの父親はオリュンポス十二神の一人、ヘルメス。ヘルメスがある人間の王の娘を愛人にしてパンを産ませたという。ところがパンは生まれつき、山羊の角と足を持ち、長いあごひげを生やしていた。母親はわが子の姿を見て仰天し、悲鳴を上げて逃げてしまったが、父ヘルメスはこの姿を歓迎し、自然界でニンフとともに暮らさせることにした。
笛の演奏をパンがダフニスに教えている。
(紀元前3~2世紀、ファルネーゼ・コレクション、ナポリ国立考古学博物館蔵)
ドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》で描かれるのは、まさにそんなパン(牧神)とニンフが戯れる様子だ。パンの笛をイメージさせる楽器としてフルートが活躍する。ドビュッシーはマラルメの詩「牧神の午後(半獣神の午後)」に触発されて、この曲を書いた。気だるくまどろむパンが水浴びをするニンフとの官能的な夢想に浸る様子を、柔らかい響きで表現する。
ドビュッシー《牧神の午後への前奏曲》
片思いの相手の名前を笛につけて吹いていた!?
なぜパンは笛を持っているのか。あるときパンは思いを寄せるニンフ、シュリンクスを追い回していた。シュリンクスは懸命にラドン河岸まで逃げ、そこにいるニンフたちに頼んで、パンに捕まえられる瞬間に葦に変身したのである。パンもずいぶんと嫌われたものである。相手が葦になってしまったのではしょうがないが、あきらめきれないパンはその葦で笛を作り、これをシュリンクスと名付けて奏することにした。
ドビュッシーにはフルート独奏のための《シランクス》という名曲がある。これはシュリンクスのフランス語読み。ここでも《牧神の午後への前奏曲》と同様に、フルートがパンの笛に見立てられている。《牧神の午後への前奏曲》が精妙でカラフルな音色で彩られているのに対し、「シランクス」はフルート1本のみの無伴奏作品で、書法は一段とモダンだ。パンの孤独さが滲み出ているようで、なんとも味わい深い。
ドビュッシー《シランクス》
ドビュッシーと並ぶ同時代のフランスの作曲家、ラヴェルの名曲にもパンは登場する。バレエ《ダフニスとクロエ》では、古代ギリシアのロンゴスが書いた同名の物語を題材に、羊飼いの少年ダフニスと少女クロエの淡い恋が描かれる。海賊たちがやってきてクロエをさらってしまうのだが、このピンチから救ってくれるのがパン。パンは己がかつてシュリンクスに寄せた愛をふたりの姿から思い出して、クロエを救い出してくれたのだ。第2組曲としてよく演奏される第3場では、そんなパンとシュリンクスの物語が「無言劇」(パントマイム)として振り返られる。
ラヴェル《ダフニスとクロエ》より第3場「無言劇」
パンの不思議な力はあの言葉の語源にも
パンを題材にしている曲をもう1曲。こちらもドビュッシーやラヴェルと同時代のフランスの作曲家だが、ジュール・ムーケに《パンの笛》と題されたフルートとピアノのための作品がある。「パンと羊飼いたち」「パンと小鳥たち」「パンとニンフたち」の3楽章から構成される。ドビュッシーやラヴェルに比べるとクラシカルな作風で、軽やかで爽快なフルートの音色を楽しめる。
ジュール・ムーケ:フルートとピアノのためのソナタ《パンの笛》
パンには動物たちに恐れを引き起こす得体のしれない力があった。わけもなく家畜たちが騒ぎ出すことがあると、人々はきっとパンの仕業であろうと考えたことから「パニック panic」という言葉が生まれたという説がある。心にさざ波を立てるような楽曲こそが、パンの音楽にふさわしいのかもしれない。
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