プッチーニの生涯と主要作品
プッチ―ニの生涯と主要作品を音楽学者の南條年章が解説!
文―南條年章(音楽学者)
プッチーニの生涯
19世紀から20世紀にまたがる,いわゆる近代と呼ばれる時代のイタリアを代表する作曲家で、主としてオペラの名作を多く世に出したことで知られている。
ヴェルディの《アイーダ》を観てオペラ作曲家を志す
イタリア北部トスカーナ地方の小都市ルッカで,代々音楽家を輩出した家系に生まれた。父親はオルガニストで作曲家でもあったミケーレ・プッチーニ,母親はアルビーナ・マージで,母親の家系もまた音楽的素養に秀でていたといわれる。
10代で教会付きのオルガニストとしての活動を始めており,音楽教育は当初,伯父フォルトゥナート・マージによって,次いでルッカのパチーニ音楽院院長であったカルロ・アンジェローニによって施された。15-16歳の頃に,ミサで演奏されるオルガン曲を作曲したのが最初の作品とされているが現存していない。
それまでは教会音楽の中で育ってきたジャーコモであったが,18歳の頃に近郊の町ピーサで観たヴェルディの《アイーダ》に大きな感銘を受けオペラ作曲家を志したと伝えられている。パチーニ音楽院在籍中に作曲された,いくつかの教会音楽は現在も残されている。
スカラ座で初演した《エドガール》が大失敗を喫す
1880年,ジャーコモはマルゲリータ女王奨学金を得てミラノの王立音楽院(現ヴェルディ音楽院)に入学を果たす。音楽院ではバッジーニとポンキエッリに師事し,《交響的奇想曲》(1883初演)を卒業作品として発表した。貧しい学生時代には,同じ音楽院に学んでいたマスカーニや同郷のカタラーニと親交を深め,スカラ座で多くのオペラの舞台に接し,オペラ作曲家としての道に希望を見いだしていた。
1883年,ミラノの音楽出版社ソンツォーニョ社によって開催された1幕物のオペラ・コンクールに《妖精ヴィッリ Le villi》を提供するも落選。この結果を残念に思った師ポンキエッリの後押しもあり,84年にミラノのダル・ヴェルメ劇場で初演。その成功はリコルディの社長で音楽界の大立て者ジュリオ・リコルディを動かし,その忠告に従った二幕改訂版の初演も大成功を収めた。これによりプッチーニの名前は広まったが,次いで89年にスカラ座で初演した《エドガール Edgar》は大失敗を喫した。真の成功は93年の次作まで待たなくてはならない。
私生活では,この頃生涯の伴侶となるエルヴィーラと結ばれやがて子供ももうけるが,エルヴィーラは人妻であり,スキャンダラスな不倫として騒がれる。正式に結婚を果たすのは1904年である。
最初の成功作《マノン・レスコー》
1893年,トリノのレージョ劇場で《マノン・レスコー Manon Lescaut》が発表される。プッチーニの最初の成功作である。台本作成には多くの人が関わり大変な難産であった。初日公演こそ音楽の斬新さに不満の声が聞かれたものの,その後,世界的に価値が認められるようになった。また,のちにプッチーニと共に「黄金のトリオ」と呼ばれるようになる,台本のルイージ・イッリカ,ジュゼッペ・ジャコーザが参加した最初のオペラでもある。プッチーニの台本への強いこだわりは,これ以降生涯続く。
トリノで《ラ・ボエーム》、ローマで《トスカ》が初演
次いで同じトリノで《ラ・ボエーム La bohème》が初演される。96年に発表されたこのオペラは,パリの貧しい若者たちの青春を描いたもので,現在も多くのファンの心をつかんでいる。この頃には,プッチーニの名はイタリア・オペラ史の上で巨匠ヴェルディの後を継ぐ逸材として世界的に認識されてきている。
5作目は1900年にローマで初演された《トスカ Tosca》であった。名女優サラ・ベルナールが演じて大評判を取ったヴィクトリアン・サルドゥの戯曲を基にしたこのオペラはヴェリズモ・オペラの傑作とされているが,初演時の評価は賛否両論あったようである。しかし〈歌に生き,恋に生き Vissi d’arte〉や〈星は光りぬ E lucevan le stelle〉などの名アリアは今もなお愛され続けている。
「黄金のトリオ」の最後の作品《蝶々夫人》
続いて1904年にスカラ座で初演された《蝶々夫人 Madama Butterfly》は大失敗を喫した。長崎を舞台にしたデイヴィッド・ベラスコの戯曲を基に作曲されたこのオペラの失敗は,現在の研究では反プッチーニ派の策略であったというのが定説となっている。プッチーニはこのオペラの真価を信じ,構成と曲に若干の変更を加えて3カ月後にブレーシャで改訂版を上演し大成功を収めた。オペラ史上に残る失敗作として知られているが,現在では世界中で最も愛されるオペラのひとつとして認められている。オペラの中では日本の旋律がいくつか使われているが,これらは当時の日本大使夫人であった大山久子から提供されたと伝えられている。またこのオペラが「黄金のトリオ」の最後の作品になった。
《外套》《修道女アンジェリカ》《ジャンニ・スキッキ》の三部作がアメリカで初演
1910年,プッチーニはアメリカで作品を発表する。このオペラもまたベラスコの原作による。メトロポリタン歌劇場で初演された《西部の娘 La fanciulla del West》は,指揮者トスカニーニのもと大テノール,カルーゾーを配し,初演時には熱狂的な成功を収めた。しかし時とともに人気は衰退し,現在では滅多に上演されないオペラとなってしまっている。
8作目の《つばめ La rondine》は時代に翻弄されたオペラであった。ウィーンからの依頼でオペレッタの新作を作曲する予定となっていたのだが,第一次世界大戦の波に襲われたことでウィーンでの上演を断念,オペレッタ風の味わいを残しながら3幕のオペラに改訂された《つばめ》は1917年にモンテカルロで初演された。12年にプッチーニを庇護し続けてきたG. リコルディが没し,イタリア最大の音楽出版社リコルディは息子のティートに受け継がれたが,プッチーニとの仲は一時的にうまく行かなくなり,《つばめ》はライバルのソンツォーニョから出版され現在にまで至っている。
続くオペラは再びアメリカで初演されることとなった。1幕物3作品による《三部作》である。ダンテの《神曲》をモティーフに《外套 Il tabarro》《修道女アンジェリカ Suor Angelica》《ジャンニ・スキッキ Gianni Schicchi》を作曲した。初演は1918年のメトロポリタン歌劇場であった。現在では,それぞれが独立したオペラとして他のオペラと組み合わせて上演されることが多い。プッチーニの作品群の中ではいくつかの傑作に次いで比較的上演回数に恵まれている。
未完に終わった傑作《トゥーランドット》
18世紀の作家カルロ・ゴッツィの《寓話集》を基に古代中国を舞台にした作品がプッチーニ最後のオペラとなった。それが《トゥーランドット Turandot》である。台本は《つばめ》《外套》でプッチーニと組んだジュゼッペ・アダーミで,レナート・シモーニが協力している。イタリア近代オペラの傑作とされているこのオペラであるが,実は未完に終わっている。1924年頃に喉のがんが発見されたプッチーニはブリュッセルの病院に入院し治療に専念しながら作曲を進めたが,24年11月29日に没した。《トゥーランドット》の初演は26年にミラノのスカラ座でトスカニーニの指揮によって行われたが,その公演はプッチーニが作曲した第2幕フィナーレまでの演奏で,アルファーノによって完成された第3幕を加えての上演は第2夜からであった。
オペラ以外にも歌曲,宗教曲,管弦楽曲などが残されており,特に歌曲のいくつかは近年演奏会などで取り上げられるようになっているが,それら以外は演奏される機会に恵まれていない。
プッチーニの主要作品
【オペラ】
《妖精ヴィッリ》 第1稿1884初演, 第2稿同年 ; 《エドガール》 第1稿1889初演, 第2稿92, 第3稿1905 ; 《マノン・レスコー》 1893初演 ; 《ラ・ボエーム》 1896初演 ; 《トスカ》 1900初演 ; 《蝶々夫人》 1904初演 ; 《西部の娘》 1910初演 ; 《つばめ》 1917初演 ; 《外套》《修道女アンジェリカ》《ジャンニ・スキッキ》[三部作] 1918初演 ; 《トゥーランドット》 1926初演
【管弦楽曲】
交響的前奏曲 A 1876 ; 交響的奇想曲 1883初演
【弦楽四重奏曲】
スケルツォ a[未出版] 1880-83, D[未出版] 1880-83頃 ; 3つのメヌエット(c, A, A) 1884 ; 菊 1890刊
【ピアノ曲】
アルバムのページ 1907? ; 小さなタンゴ 1907?
【宗教作品】
サルヴェ・レジナ(S, harm) 1880以前 ; 4つのミサ曲[通称:グローリア・ミサ](T, Br, cho, orch) 1880 ; レクイエム(S, T, B, org/harm) 1905
【合唱曲】
カンタータ《美しいイタリアの若者たち》(独唱, cho, orch) 1877 ; ローマ賛歌(cho, p) 1919刊
【歌曲】
愛の短い物語 1883 ; ロマンツァ 1883 ; 約束は偽りだった 1883 ; 太陽と愛 1888 ; そして小鳥は 1899 ; 大地と海 1902刊
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