メンデルスゾーンが交響曲第3番《スコットランド》の着想を得た充実の旅〜山登り、海水浴、史跡を満喫
メンデルスゾーンが深く感銘を受け、交響曲第3番《スコットランド》が生まれるきっかけにもなったスコットランド旅行。どのような場所を訪れ、どう印象に残ったのでしょうか? 大井駿さんが実際にスコットランドに足を運び、メンデルスゾーンのたどった道をレポートします!
1993年生まれ、東京都出身。2022年、第1回ひろしま国際指揮者コンクール(旧:次世代指揮者コンクール)優勝。パリ地方音楽院ピアノ科、ミュンヘン国立音楽演劇大学古楽...
20歳のメンデルスゾーンが、初めての一人旅に選んだ目的地は、グレート・ブリテン島でした。幼い頃から厳しく育てられたメンデルスゾーンは、家族抜きでの旅行に、足取りも軽かったでしょう!(参考記事:睡眠不足な作曲家たち〜寝る暇がないメンデルスゾーンと繊細なチャイコフスキー)
なかでも、彼にとってスコットランドでの印象は鮮烈なものだったようです。メンデルスゾーンが当時何を見て、何を感じたのか、そして彼の音楽にどのように反映されているのかを、2回の記事にわたってたどってみましょう!
遠い場所への憧れ
モーツァルトが、就職活動でパリを訪れた際に父に宛てた言葉として、あの有名な「旅をしない人は不幸な人です!」という言葉があります。
これは、オーストリアの小さな街ザルツブルクに残るよう父親から説得されたことに対して反抗して書いた手紙(1778年9月11日)の中の言葉で、このあとに「少なくとも芸術や学問に携わる人たちならなおさらです。凡庸な才能の人間は変化を嫌い、同じ場所に留まることを望み、何も変わらないままずっと凡庸なのです。」と続きます。
当時は体力的にも金銭的にも今ほど気軽に旅行できたわけではないので、旅行をする際はかなりの覚悟が必要でした。モーツァルトの言葉も、ただただ旅行がしたかったというわけではなく、新しい人や場所に出会い、感性を磨き、さらに活躍の場が欲しいという気持ちからくるものでした。
こうしてたくさんの旅をした作曲家は数多くいますが、フェリックス・メンデルスゾーンも例外ではありませんでした。
1829年(20歳)、メンデルスゾーンは就職活動をするためにヨーロッパを巡る旅を計画しますが、なかでも初めに赴いた辺境の地・スコットランドには、自身の見聞を広めるためだけにわざわざ足を運んだのです。彼がスコットランドを最初の旅先に選んだのは、オシアンという3世紀ごろのスコットランドの伝説の詩人による叙事詩がちょうど大陸で流行しており、メンデルスゾーンは以前から興味を示していたからでした。
実際に、スコットランドを訪れる前の1828年には、ピアノのための幻想曲《スコットランド・ソナタ》作品28 を作曲しており、スコットランドへの興味が大きかったことがわかります。ちなみに、翌年にスコットランドに足を踏み入れたメンデルスゾーンが、この曲を5年かけて改訂しているんです……そこまで大きな影響を受けたスコットランド旅行は、一体どのようなものだったのでしょうか……!
メンデルスゾーン:ピアノのための幻想曲《スコットランド・ソナタ》作品28
山登りも海水浴も史跡も楽しんだエディンバラ
まず、1829年4月にロンドンへ到着、5月25日には自身の「交響曲第1番」を指揮、そしてベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」をロンドン初演したのちに、外交官の友人カール・クリンゲマン(1798〜1862)と合流し、旅程を練ってからスコットランドへ向かったのです。
7月26日、スコットランドのエディンバラ(Edinburgh)に到着したメンデルスゾーンは、アーサーの玉座に登ります。頂上からの景色は見事だったようで、父へ宛てた手紙の中でも、「7年前に旅をしたスイスの景色よりも素晴らしい」と述べています。
港町のエディンバラなので、楽しめるアクティビティは山登りだけではありません! 海に向かったメンデルスゾーンは、何度も海水浴を楽しんだそう。
今日の海もとても気持ちよかった! 波に揺られてプカプカと浮きながらも、ちゃんとみんな(家族)のことを考えていたよ。そしてここの海はすごく塩辛い気がする……ドベラーン(ドイツ・リューベック近郊の海に面した町)の味なんて、これに比べたらレモネードみたいなものだね!
メアリー・ステュアートに想いを馳せて着想を得た「スコットランド交響曲」
充実したエディンバラ滞在も最後の日を迎えます。この日にメンデルスゾーンが訪ねたのは、ホリールード宮殿という場所でした。
この宮殿は、メアリー・ステュアート(1542〜1587)というスコットランド女王にゆかりのある場所です。なんと生後6日で王位を継承し、5歳でフランス皇太子と婚約させられたのち、家族や結婚相手の死に接します。ここまででもすでに運命に翻弄された悲劇的な人生ですが、すぐに再婚するものの、別の男性に恋心を寄せてしまい、その愛を捨てきれずに当時の結婚相手を暗殺、のちにイングランドにて処刑されたという、波乱万丈の人生を歩んだ女王なのです。
メンデルスゾーンはこの地で、彼女の人生に想いを馳せており、家族への手紙の中でもその想いをこう綴っています。
今日は夕焼けを横目に、メアリー女王が住み、愛したホリールード宮殿へ行った。(中略)リッツィオ(メアリーの秘書)が殺害された場所も見ることができた。宮殿の横には礼拝堂があるのだが、今では廃墟になっていて、屋根もなければ、草やツタが多い茂っている。メアリー女王の戴冠式を行なった祭壇も朽ち果てている。すべてが壊れ、明るい空が見える。この瞬間に、この朽ちた礼拝堂で、私はスコットランド交響曲の始まりを見つけた気がする。
こうして彼は、《スコットランド》のタイトルで親しまれている「交響曲第3番」の冒頭を、ホリールード寺院の廃墟に着想を得て書いたのです。きっと廃墟にいることで、史上の壮絶な悲劇にさらに想いを馳せることができたのでしょう。
少し「交響曲第3番」に踏み込んだ話をします。
第1楽章の冒頭は、まるでコラールのような形で書かれていますが、これは彼が寺院の廃墟で思い付いたことが大きく影響していることが想像できます。イギリスでは、メアリー・ステュアートの大叔父にあたるヘンリー8世(1491〜1547)の時代から讃美歌が歌われてきていますし、きっとそのことも念頭にあったはずです。
さらに第3楽章では葬送行進曲が挿入され、第4楽章ではイングランドとの戦いを想起させる音楽を書きました。
特に第4楽章は、現在では “Allegro vivacissimo(速く、非常に生き生きと)” という速度標語が書かれていますが、もともとは “Allegro guerriero(速く、戦闘的に)” という標語が付けられていたことからも、彼のコンセプトが強く窺われます。
スコットランド滞在の間にさまざまな構想は練られたものの、旅行から10年以上経った1841年に本格的な作曲を始め、翌年に完成させました。
そしてこの交響曲は、スコットランドの印象に基づくものであることには間違いないのですが、実は出版される際も自身によるタイトルは付けられていないのです。
10年経っても彼の中に鮮明に残り続けたスコットランド旅行の思い出。その旅は、まだまだ続きます! 次の記事では、メンデルスゾーンが触れた大自然をご紹介します!
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