読みもの
2022.08.20
体感シェイクスピア! 第17回

『ウィンザーの陽気な女房たち』をシンプルにして核心に迫るサリエリのオペラ《ファルスタッフ》

文豪シェイクスピアの作品を、原作・絵画・音楽の3つの方向から紹介する連載。
第17回は、『ウィンザーの陽気な女房たち』の主人公ファルスタッフに注目! オペラ《ファルスタッフ、または3つのいたずら》で、サリエリが音楽で表現した物語の核心とは? 副題の「3つのいたずら」についても、フューズリの絵画から読み解きます。

ナビゲーター
齊藤貴子
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齊藤貴子 イギリス文学・歴史文化研究者

上智大学大学院文学研究科講師。早稲田大学および同大学エクステンションセンター講師。専門領域は近代イギリスの詩と絵画。著作にシェイクスピアのソネット(十四行詩)を取り上...

ヘンリー・フューズリ《洗濯かごの中のフォルスタッフ》(1792年、チューリッヒ美術館蔵)

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『ヘンリー4世』に登場したフォルスタッフが主役として登場!

今この世でわりと希少価値が高いもの。そのひとつはたぶん、ふざけた人。

疫病だの戦争だの、物価上昇だの気候変動だのと、これまでもそうだったけれど、いよいよ難題山積の何だか暗いご時世である。そういう生業でもないかぎり、抜群の安定感で常に笑わせたり笑われたりできる人は、周囲の同じ生身の人間では、だんだん貴重かつ希少になってきた気がしてならない

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そこで折に触れ目を向けたくなるのが、シェイクスピアの世界。いつでもどこでもひたすら面白おかしい、ふざけた男がひとりいる。

その名はフォルスタッフ。彼については、歴史劇『ヘンリー4世』を取り上げた本連載第9回で、その名を冠したエルガーの楽曲とともにすでに紹介済み。のちにヘンリー5世となるハル王子の取り巻きで、名誉のために死ぬのが身上の騎士のくせして、決戦を前に「名誉が何だ!」と口走り、戦場では地面に倒れて死んだふり。そうまでして生き延びた後も、隙あらば賄賂で私腹を肥やしたり、上前はねたりする懲りない男である。

そんな彼が、中世からシェイクスピアが生きていた当時の16世紀に舞台を移し、満を持して主役として登場するのが、喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち』にほかならない。

これは16世紀の初演当時から大層人気のあった芝居で、エリザベス1世はじめジェームズ1世やチャールズ1世など、代々の国王が軒並み観覧しているほど。それゆえに近代以降は翻案作品も数多く、かのヴェルディをはじめ、ドイツのオットー・ニコライや本国イギリスでもレイフ・ヴォーン・ウィリアムズなど、西欧音楽史にその名を刻む錚々たる作曲家たちがこぞってオペラ化してきた。

オットー・ニコライ:オペラ《ウィンザーの陽気な女房たち》

サリエリの名作オペラ《ファルスタッフ、または3つのいたずら》

そのなかにあって、ややマイナーではあるけれど知る人ぞ知る傑作が何かといえば、アントニオ・サリエリの《ファルスタッフ、または3つのいたずら》である。

サリエリ《ファルスタッフ、または3つのいたずら》

まず、これはイタリア語のオペラなので、作品名Falstaffは原語の英語読みとは異なりファルスタッフ。そして作曲者サリエリといえば、一般的には音楽家としての業績よりも、モーツァルトとの確執をテーマにした1984年のアカデミー賞映画『アマデウス』でお馴染みの方が多いのではないだろうか。

長年誉れあるウィーンの宮廷楽長の任にあったサリエリは、齢70を過ぎた晩年になって、6歳下のモーツァルトから盗作したばかりか才能への嫉妬ゆえに毒殺したとまで噂され(映画はともかく史実の上では本人は一貫して無実を主張)、そのために彼の作品は死後しばらく忘却の彼方に追いやられた。20世紀も終わり近くになってようやく本格的な再評価に火がついたのは、それこそ映画『アマデウス』のおかげ。何ともやりきれないほど皮肉な話だ。

ただし、20代ですでにウィーンの宮廷作曲家兼イタリア・オペラ監督となっていたサリエリの実力そのものは、初めから折り紙付き。彼の音楽家としての手堅さを、肩書より何より証明してくれるのはやはり作品であって、《ファルスタッフ》の場合はとりわけその構造だろう。

アントニオ・サリエリ(1750~1825年)
イタリア出身の作曲家。ヴェネツィアで声楽と通奏低音を学んでいた15歳のときに、ウィーンで活躍していた作曲家のガスマンに見初められ、ウィーンへ。のちに宮廷楽長を務めたほか、オペラをはじめ、作曲にも精力的に取り組む。教育者としての評価も高く、教え子にはベートーヴェンやリスト、シューベルトも名を連ねる。

オペラ《ファルスタッフ》では登場人物を絞りシンプルな構造に

一口にオペラといっても、《ファルスタッフ》は正確には、18世紀以降の近代ヨーロッパで流行したオペラ・ブッファと呼ばれるもの。これは基本的に王侯貴族ではない一般市民を主人公とし、バリトンやバスといった低音の歌声や、重唱および合唱の多用を特徴とする喜劇専用の歌劇である。

原作となっているシェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』は、タイトル通り、ウィンザーの街の人びとの生活を中心とした「市民喜劇」なので、もともとオペラ・ブッファにはうってつけ。サリエリおよび台本作者のカルロ・プロスペロ・デフランチェスキはまずそこに目を付け、さらに同原作に基づく後続のどのオペラよりも、積極的に内容の簡略化を図っている。有り体にいえば、登場人物の数をかなり絞り込んでいるのだ。

話のそもそもの発端は、ファルスタッフがフォード夫人とスレンダー夫人(シェイクスピアの原作ではページ夫人に相当)というふたりの人妻に、まったく同じ文面のラブレターを送りつけ、それが当人たちにすぐさまバレたこと。下手な鉄砲数打ちゃ当たることもあるにはあるが、女性を一から口説くなら、誠実さという最低限の礼儀は欠かせない。そこをすっ飛ばして、適当に二股三股をかけても許される男性がいるとすれば、それは多くの場合、見ているだけで幸せになれるような容姿端麗な美男子か、本来出会えるはずもない貴顕紳士やとびきりの貴公子に限られるだろう。

まずこの点で、ファルスタッフは恋愛の対象として最初から話にならない。近現代ドイツの画家エドゥアルト・フォン・グリュッツナーが実にあからさまに描いているように、彼はでっぷりとした肥満体かつ結構な老齢で大酒飲み。しかも女にだらしなく金に汚い。どう見ても、世間一般の女性たちから敬遠されがちな条件ばかり兼ね備えている。

エドゥアルト・フォン・グリュッツナー《ワインの瓶とカップを持つフォルスタッフ》(1896年、個人蔵)

だが、自分でまるでそれに気づいていないのが、ファルスタッフの面白いところ。シェイクスピアの原作でも、よくおモテになるのは魔法か何か使っておいでで? と、ちょっとおだてられ(=おちょくられ)ようものなら、

Not I, I assure thee; setting the attraction of my good parts aside, I have no other charms.

いえいえ、これは本当なんですが、生まれもった自分のいいところの他には、魔法なんてまったくありはしませんよ。

『ウィンザーの陽気な女房たち』第2幕第2場

と、大真面目に答える始末。

いったん謙遜から入って、とんだ見当違いの自惚れをかます——。これは本人が本気でそう思い込んでいなければ、とてもできない芸当だ。実際彼は、貴族に準じる称号を持つ「サー・ジョン・フォルスタッフ」である以上、自分が声をかければ市井の女房など皆イチコロだと信じ込み、逢引きの準備に余念がない。まったく家に鏡はないのか⁈ 鏡は‼ と、激しくツッコミたくなること請け合いである。

このファルスタッフと、間男気取りの彼の出現によって右往左往するフォード夫妻とスレンダー夫妻という2組の夫婦に焦点を絞り、彼らの娘その他から成るサイドストーリーを大胆に割愛しているため、サリエリの《ファルスタッフ》はシェイクスピアの原作よりもむしろシンプル。オペラ初心者でもわかりやすい。それでいながら、オペラ・ブッファの特徴である重唱を最大限に活用することで、ファルスタッフの「笑い」にかき消されがちな原作のもうひとつの核心をも鋭く突き、重層的に表現することに成功している。

サリエリが音楽で見事に表した“もうひとつの核心”とは?

——サリエリが言葉とは違う音楽の力で重層的に表現してみせた、シェイクスピアのもうひとつの核心。その鍵を握るのは、フォード夫人のご主人だ。

実のところ、サリエリの翻案でもシェイクスピアの原作でも、ファルスタッフの次に面白おかしいのがフォード氏。彼は初めからほとんど猜疑心の塊で、ファルスタッフが妻に言い寄ったと知るや否や、わざわざ金と偽名を使ってまで彼に接近し、必死に浮気の現場を押さえようとする。明らかにクレージーだが、フォード氏のこの嫉妬の炎によってあぶりだされる2組の夫婦の対照性、夫と妻の信と不信の機微もまた、シェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』の大事な核心部分にほかならない

少なくともサリエリはそう解釈していたと痛感するのが、《ファルスタッフ》の第1幕第7場である。フォード夫妻とスレンダー夫妻の2組の夫婦・男女4人による四重唱「ああ、どんなに可笑しいかしら(Oh quanto vogliam ridere)」は、間男気取りのファルスタッフをめぐる4人の男女のすれ違う感情を表現したもの。歌詞はもちろん、それぞれの声域の妙により、各人の性格の違いがまざまざと浮き彫りになる箇所である。

サリエリ:オペラ《ファルスタッフ》第1幕より「ああ、どんなに可笑しいかしら」

Sorprese son, si turbano:

gatta ci cova, amico!

驚いて、動揺している。

何か隠しごとをしているんだ、友よ!

長旅から帰ってきたとたん、久しぶりに会った妻の姿に勝手な不信を募らせて、嫉妬で次第に昂ってゆくフォード氏のテノール。それを「友」であるスレンダー氏のバスやバリトンが、ちょっと待てよ、とばかり間髪入れず追いかけて、力強い慰めと励ましを繰り返すように抑制のきいた低音を重ねてゆく。

La gelosia v’abbaglia,

io non ci credo un fico:

嫉妬で何も見えなくなっているんだ

そんなことがあるとは思えない

さらに、「すべてはやがて明らかになるさ」と、夫婦の信頼を促すスレンダー氏の存在はもはや本作の良心。実際問題、冷静沈着な彼の考えが正しいと裏付けるのが、あとに続くスレンダー夫人とフォード夫人の掛け合いだ。フォード氏が突然旅から帰ってきたので「わたしたちの素敵な計画(il nostro bell’intrico)」は少し先延ばしにしたほうがいいかしら? そうね、いえそうでもないわね、彼がいてもそれほど大きな障害にはならないわ……というソプラノふたりのさえずるような重唱である。

「わたしたちの素敵な計画」とは、つまるところファルスタッフへのお仕置き。フォード夫人もスレンダー夫人も、自分たちより身分は上でも風采の上がらぬファルスタッフのことなど、相手にするつもりは毛頭ない。むしろ思い上がった彼を何とかしてギャフンといわせてやろうと、そればかり考えている。そしてフォード氏の思いがけぬ帰還によって、せっかく練りあげた「3つのいたずら」計画がとん挫すること、それだけを心配している。

オペラの副題「3つのいたずら」は成功する? フューズリの絵画で視覚的にもチェック!

サリエリの作品の副題にもなっている「3つのいたずら」は、フォード夫人が密会に応じるフリでファルスタッフを家に招き入れた後、夫が急に帰ってきたと嘘をつき、あわてふためくファルスタッフを隠したり逃がしたりする口実の下に行なわれる。具体的には①汚い洗濯かごの中に押し込んだり、②えげつなく女装させたり、③ウィンザーの森の中で魔物に変装してファルスタッフの肝を冷やしたりするのだが、アイデアからして出色の出来で大笑いを誘うのが①「洗濯かご」作戦。

シェイクスピアの原作では第3幕第3場にあたる同シーンを描いたヘンリー・フューズリの《洗濯かごの中のフォルスタッフ》そのままに、ふたりの夫人たちは老騎士の巨体を洗濯かごの中にぎゅうぎゅうと力任せに押し込んで、上からばっさばっさと汚れた布や下着をかぶせて隠す。

この種の滑稽でグロテスクな表現は、スイス人ではあるが、18世紀後半から19世紀初頭のイギリスを代表する画家となり、同時代ならびに後続の芸術家たちに多大な影響を及ぼしたフューズリの真骨頂。手足を大胆に伸ばし、結果として画中で対角線上に配置されている女性たちの姿に明らかなように、人体のプロポ―ションを意図的に誇張することで美的かつ劇的な効果をもたらすというのは、彼の得意技だ。

ヘンリー・フューズリ《洗濯かごの中のフォルスタッフ》(1792年、チューリッヒ美術館蔵)

そして誰でも、得意技はここ一番で用いるもの。嫉妬に狂い四方八方手を尽くし、偽りの密会の情報を仕入れたフォード氏が本当に帰ってきてしまったのは想定外だったが、召使いに洗濯かごをそのまま外に持ち出させ、ファルスタッフごとテムズ川に放り込ませたフォード夫人は事なきを得る。というより、これぞ稀に見る本物の一石二鳥。勘違いはなはだしい男への手厳しいお仕置きと、異常に嫉妬深い夫を煙に巻き頭を冷やさせるのと、期せずしてふたつ同時にやり遂げたのだから。

「ああ、どんなに可笑しいかしら。」サリエリの四重唱のフレーズそのままに、フューズリの絵の中で鏡に映るフォード夫人の顔は、さも楽し気。いたずらっぽい笑みを浮かべている。今の時代、こんなふうに楽しく笑わせてくれるなら、だまされたフリでふざけた男とつきあってみるのも悪くない、かも?

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