読みもの
2021.09.25
体感シェイクスピア! 第6回

『オセロ』の主役はオセロではない!? ヴェルディのオペラと絵画から部下イアーゴーの悪意を読み取る

文豪シェイクスピアの作品を、原作・絵画・音楽の3つの方向から紹介する連載。
第6回は、四大悲劇のひとつ『オセロ』の真の主役について深堀! ヴェルディははじめ、自信の傑作オペラ《オテロ》を別の登場人物の名前で呼んでいました。絵画からもオペラの独唱からもにじみ出る悪意に注目してみましょう。

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齊藤貴子
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齊藤貴子 イギリス文学・歴史文化研究者

上智大学大学院文学研究科講師。早稲田大学および同大学エクステンションセンター講師。専門領域は近代イギリスの詩と絵画。著作にシェイクスピアのソネット(十四行詩)を取り上...

トマス・ストハード《『オセロ』第2幕第1場オセロの帰還》(19世紀、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー蔵)

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作品名になっている人物=主役とは限らない!?

『ハムレット』、『オセロ』、『リア王』に『マクベス』——シェイクスピアの四大悲劇はどれもみな、主人公の名前がそのままタイトルになっている。

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「名は体を表す」を地でいくわかりやすい話、といいたいところだけれど、相手はどんな簡単な話もややこしくするシェイクスピア。そうは問屋がおろさない。

少なくとも、四大悲劇のうちひとつは、タイトルに偽りがなきにしもあらず。『オセロ』のもっとも重要な登場人物は、貞節な美しい妻デズデモーナを嫉妬のあまり殺してしまう黒い肌をしたムーア人(アフリカ北西部に住むベルベル人とアラブ人の混血民族)の勇将オセロとはいいがたい。

むしろ、彼からすべてを奪うべく、その傍らで忠義面してひたすら奸計を弄し続ける部下イアーゴーこそが、この作品の本当の主人公。それがいいすぎだとしても、単なる準主役とかキーパーソンといったものをはるかに超越した最重要人物である点には、『オセロ』の原作をきちんと読み、芝居をちゃんと観たことのある人ならば、少なからず同意してくれるのではないだろうか。

なにせイアーゴーは、舞台の最初から最後までずっと出ずっぱり。そしてオセロの耳に妻デズデモーナと副官キャシオの不倫というありもしない嘘を吹き込んでは、デズデモーナのハンカチを盗んでまで次から次へと密通の証拠を捏造し、オセロを嫉妬による破滅(妻の殺害&自害)へと追い込んでゆくのだから。

絵画に描かれたイアーゴーの悪意

イアーゴーの悪意をそこまで駆り立てたものは、果たして何であったか。黒いムーア人にかしずかねばならぬ白人の屈折した感情か、愛も名誉も人望も何もかも手に入れた男に対する男の嫉妬か、はたまた上官として自らの昇進を叶えてくれなかったことへの復讐心か。正直、答えをひとつに絞り込むのは難しい。

イギリスの画家トマス・ストハード(1755~1834)が、芝居の第2幕第1場、嵐の海を乗り越えキプロス島に到着し、晴れて甘い新婚生活を送ることになったオセロとデズデモーナの姿を描いた《オセロの帰還》を見ると、イアーゴーの悪意がとてつもなく根深いことだけはわかる。

画面の右隅、2人を祝福する人びとの輪からひとり離れて佇むその姿は、まるでエデンの園の片隅でアダムとイヴの幸福を台無しにしようと目論む狡猾な蛇のよう。この上なく陰険で性質(たち)が悪い。

トマス・ストハード《『オセロ』第2幕第1場オセロの帰還》(19世紀、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー蔵)

原作ではイアーゴーの悪意を弦楽器のチューニングのイメージに喩えて表現

蛇が何ゆえ人を罪に貶めたか、聖書が決してあれこれ語ってはいないように、オセロに対するイアーゴーの底知れぬ悪意の所以までは、シェイクスピアもいちいち教えてはくれない。けれど、イアーゴーが全力でオセロを潰しにかかっていることだけは、このページの読者の皆さんならきっとお馴染みの、弦楽器のチューニングのイメージにことよせた次の傍白で、実に端的かつ効果的に伝えている。

O, you are well tuned now!

But I’ll set down the pegs that make this music,

 

ああ、今のところ、調弦はうまくいっている!

だが俺がペグを下げて緩め、きっと狂わしてやる、

いたずらにペグ(琴柱)を下げれば、弦は一気に緩んで曲はメチャクチャ。演奏はもちろん演奏者も一巻の終わり、だ。

ヴァイオリンのペグ、糸巻き。

差別か嫉妬か恨みからか、いずれにせよかくも凄まじき悪意。このイアーゴーなしには『オセロ』という芝居はにっちもさっちもいかない。彼がオセロに嘘を吹き込み、それをオセロが真に受けるというパターンを繰り返して物語が進んでいくのだから、イアーゴーがオセロと同等の主役級であることは確か。だから個人的には、名が体を表すためにも、作品のタイトルは本来『オセロとイアーゴー』あたりが妥当ではないかとさえ思うのだが。

「イアーゴー」に注目していたヴェルディ

ありがたいことに、これはあながち独りよがりの私見でもないようで、シェイクスピアの原作に基づく自らのオペラを、やはり《オセロ》ではなく《イアーゴー》としきりに命名したがっていた人物がいる。誰あろう、あのジュゼッペ・ヴェルディ(1813~1901)である。

ヴェルディはイタリア人だから、正確には最晩年の傑作《オテロ》を、途中までさかんに《ヤーゴ》と呼んでいたというべきか。それはすでにシェイクスピアの原作と同名の先行作品(ロッシーニ作曲の《オテロ》)が存在していたのにくわえて、ヴェルディ本人が、ほかの登場人物の誰よりもヤーゴ(=イアーゴー)に強力な魅力を感じていたからだろう。

ヴェルディ:《オテロ》

原作にはないイアーゴーの独白シーンが見せ場

その証拠に、ヴェルディの《オテロ》には、主役であるはずのオテロ(=オセロ)ひとりの見せ場がそんなにないというか、そこだけ繰り返し聴きたくなるような、ひときわ目立つ独唱部が見当たらない。そのかわり、ヤーゴが自らの信条を力づよく歌い上げる「無慈悲な神の命ずるままに」という、すこぶる印象的なアリアが存在する。

ヴェルディ:《オテロ》より「無慈悲な神の命ずるままに」

高く低く、ドラマティックに鳴り響く管楽器のあとに「俺は信じる、ご自身に似せて俺を創り給うた無慈悲な神を」、「そして人間はみな邪悪な運命の玩具なのだ」と告げるヤーゴのクレド(信仰宣言)は文字通り、彼という悪魔のクレドであり、シェイクスピアの原作にはない腹の底からの独白シーンだ。

実際、ヤーゴのクレドには、嘘や綺麗ごとは何ひとつなく、(シェイクスピアが書いたものではないせいか)変にややこしいところがない。

どんなに己を律し正したところで、どこかで誰かを羨み妬み、恨んだり蔑んだりする「邪悪な運命」から逃れられないのが人間。ならば、とことんその「邪悪な運命の玩具」になってみせよう、とヴェルディのヤーゴはいっているのであって、黒い肌の成功者オセロを凄まじい悪意でもって破滅させたことは、彼自身にとってはもはや運命の成就に等しいのだとわかる。

——でも、その後は?

E poi? (そして何が?)と繰り返し、ヤーゴのクレドは「死は無だ、天国なんて昔のおとぎ話だ」と告げて、高笑いとともに終わってゆく。

オテロのような成功者にせよ、ヤーゴのような性悪男にせよ、己の運命と人生を全うしたあと「そして何が」訪れるのかは、ヴェルディもシェイクスピアも教えてはくれない。ヤーゴみたいにまったくの「無」とは思わないけれど、こればっかりはいつか死んでみなけりゃわからない。

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齊藤貴子
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齊藤貴子 イギリス文学・歴史文化研究者

上智大学大学院文学研究科講師。早稲田大学および同大学エクステンションセンター講師。専門領域は近代イギリスの詩と絵画。著作にシェイクスピアのソネット(十四行詩)を取り上...

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