ドラえもんの音楽を手がける沢田完の子ども時代~山本直純がきっかけで作曲家に
子どもを音楽の世界へ導くには? どうしたら実を結ぶ? 室田尚子さんがナビゲートする連載「音楽家の“タネ”」では、子育てや教育に音楽を取り入れるヒントを見つけに、現在活躍する音楽家にインタビュー!
第1回のゲストは作曲家の沢田完さん。2005年からリニューアルした『ドラえもん』の音楽を手がける沢田さんは、いつ音楽に出逢い、作曲家の道に入ったのでしょうか。ドラえもんのアフレコスタジオにお邪魔しました。
東京藝術大学大学院修士課程(音楽学)修了。東京医科歯科大学非常勤講師。オペラを中心に雑誌やWEB、書籍などで文筆活動を展開するほか、社会人講座やカルチャーセンターの講...
結実したタネを追って
自分の子どもに音楽を好きになってもらいたい、と考えたとき、親たちはどんな行動を取るでしょうか。
クラシックのコンサートに連れて行ったり、何か楽器を習わせたり、あるいはオペラ制作のワークショップに参加させたり……。でも、それらは一種の「賭け」のようなもの。もちろん、何が実を結ぶかはわかりませんから、できるだけたくさんの種を蒔いておくのは重要です。
さて、私たちの前には、音楽の世界で活躍している人たちがいます。演奏家、指揮者、作曲家、音楽プロデューサー……。彼らは一体、どんな子ども時代を過ごしてきたのでしょうか。幼い頃から楽器を習い、血の滲むような努力をしてきたのか。それとも、思春期になって急に音楽に目覚めた、という人もいるかもしれません。著名な音楽家たちの子ども時代を探れば、子育てのヒントを見つけることができるかも。
第1回のゲストは、アニメ『ドラえもん』をはじめとするテレビや映画、舞台などの分野で活躍している作曲家の沢田完さんです。
昆虫好きの少年が作曲家を目指すまで
沢田さんが生まれ育った家庭は、お父さんが俳優、お母さんが音楽教師。1歳上のお姉さんがピアノを習っていて、家族みんな音楽好きだったそうです。ただ、沢田さん自身は、小学校に上がるまでは音楽より昆虫に夢中で
そんな沢田さんが初めて楽器をやりたい、と思ったのは小学校3年生の頃でした。
沢田「学校にトランペット隊というのがあって、金管楽器のカッコよさに憧れまして。ただ入るにはテストがあって僕は落ちちゃったんですね。母はそんな僕をかわいそうだと思ったんでしょう、近所のトランペットの先生のところに通わせてもらえることになりました。中学では吹奏楽部に入り、そこでトランペットのほかにもトロンボーンやコントラバスなどの楽器を演奏し、音楽の楽しさに目覚めました」
一方で、俳優だったお父さんの影響で、映画音楽が大好きな少年だったという沢田さん。特にジョン・ウィリアムズの音楽に夢中になって、『スター・ウォーズ』『未知との遭遇』『ジョーズ』などのサウンドトラック盤を、お小遣いがたまると買っていたそうです。
ジョン・ウィリアムズ『スター・ウォーズ』『未知との遭遇』『ジョーズ』
沢田さんとクラシックとの出会いも、中学1年生のとき。偶然ラジオから流れてきたベートーヴェンの「英雄」に衝撃を受け、それからはベートーヴェン漬けの日々に。やがて高校に進むとマーラーやストラヴィンスキーなど、近現代の作曲家が好きになります。
ベートーヴェン/交響曲第5番《運命》(バーンスタイン指揮/バイエルン放送交響楽団)
沢田「彼らの音楽を聴くうちに、作曲家という仕事はなんてすごいんだろう、作曲家になりたいという思いを抱くようになりました。でも、そのことを母親やトランペットの先生に言っても全然真剣に取り合ってもらえなくて……。仕方がないので、図書館でスコアを借りてきて、独学で作曲の勉強を始めたんです」
さて、沢田さんが心の底から「絶対作曲家になる!」と思い定めた背景には、ひとりの作曲家の存在がありました。レナード・バーンスタイン。20世紀を代表するアメリカの作曲家・指揮者です。高校2年生の時にイスラエル・フィルを率いてバーンスタインが来日。そのコンサートに行った沢田さんは、バーンスタイン自作自演の《シンフォニック・ダンス》を聴きます。
バーンスタイン《シンフォニック・ダンス》
沢田「雷に打たれたようなショックでしたね。何千人もの人を一度に感動させる作曲家は絶対に目指すべき尊い仕事だと思い、決意を固めました」
しかし、その後の道は平坦ではありませんでした。大学は、母のたっての望みで東京藝術大学のトランペット専攻を受験したものの不合格に。そこで初めて、親にも先生にも「トランペットをやめて作曲家を目指す」と宣言し、中学校の頃からソルフェージュを習っていた遠藤雅夫先生に相談に行きます。
沢田「そうしたら遠藤先生にめちゃくちゃ怒られまして……。“君はそんなに簡単に作曲家になれると思ってるのか? 言ってることがちゃらんぽらんすぎる! 君みたいなタイプはいちばん作曲家にむいてないんだ!”って。
でも、僕が頼れるのは遠藤先生しかいないので怒られてもめげずに通っていたら、先生の方で折れて和声の教科書をくださったんです。それから2年勉強して、東京音楽大学の作曲科に入学しました」
まるでドラマ!? 山本直純との出会い
めでたく東京音大に進んだ沢田さん。それでも、本当にプロの作曲家として「食べていける」かどうかは未知数だった彼の転機となったのが、指揮者で作曲家の山本直純さんとの、まるでドラマのような偶然の出会いでした。
沢田「今でも忘れもしない、大学1年生の12月のことです。東京駅で終電がなくなってしまって途方に暮れていたら、エスカレーターを降りてくる山本直純先生とぶつかりそうになったんです。
大学で一度だけ先生の指揮法のレッスンを受けたことがあったので、“東京音大作曲科の沢田といいます”と自己紹介したら、“東京音大なら誰の弟子だ?”“池野成先生です”“池野の弟子か!じゃあ付き合え!”となって。直純先生と池野先生は藝大時代の同級生だったんですね。
それで、直純先生行きつけのバーにお供しました」
沢田「そこで先生が、その年の大晦日に予定しているカウントダウン・コンサートのための短いファンファーレを書いてみろ、とおっしゃるんです。驚きましたが、“プロならピアノなんかなくてもどこでも書けなきゃダメだ”というんで、その場で書きました。先生から五線紙をもらって」
その後1週間ほどして、沢田さんは山本直純事務所から連絡を受けます。なんと、「そのとき書いたファンファーレを大晦日のコンサートで演奏することになった、ついては今から練習するのですぐに来るように」という知らせでした。
こうして沢田さんは、生まれて初めて自分の書いた作品でお金をもらい、正式に山本直純さんの助手になったのでした。
沢田「直純先生のもとでさせていただいた、コンサートやイベントの音楽の編曲やオーケストレーションの仕事に非常にやりがいを感じ、やっと自分のやりたい仕事がみつかったと思いました。実は、現場の仕事があまりに面白すぎて、大学は中退してしまったので、親はものすごく嘆いたんですけど(笑)」
「劇判」の作曲家として
1998年の映画『ドラえもん のび太の南海大冒険』でオーケストラ・アレンジを手がけ、2005年にリニューアルしたテレビ・アニメ『ドラえもん』でも音楽を担当した沢田さん。
その後は、『ドラえもん』シリーズのほか、『弱虫ペダル』などのアニメ、『ドクターX~外科医・大門未知子~』をはじめとするテレビ・ドラマ、また映画や舞台などのいわゆる「劇伴」の世界で活躍してきました。アニメ、ドラマ、映画、舞台、それぞれに違う特徴があり、また様々な決まりもあるので大変そうですが、ひとつだけ、共通して心がけていることがあるといいます。
沢田「見た人が一緒に成長・変化していけるような世界をつくる、ということが重要です。メッセージを伝えるような作品がいちばん面白くない。
例えば『ドラえもん』映画なら、ラストではいつも別れが待っていますが、その先ではひみつ道具を使って再会するのか、あるいは永遠の別れになるからこそ物語が輝くのか、それは決めつけちゃいけないんですね。だから、見た人がいろいろな解釈を持てるような音楽を書かなければと思っています」
「いつも投げかける側でいたい」と語る沢田さん。きっと彼自身が、音楽をつくりながらずっと変化し続けているのでしょう。その瞳は、珍しい昆虫を見つけた子どものようにキラキラと輝いていました。
関連する記事
ランキング
- Daily
- Monthly
関連する記事
ランキング
- Daily
- Monthly