プレイリスト
2019.08.04
ジネット・ヌヴー生誕100没後70年

ジネット・ヌヴー〜アゾレス諸島に散った孤高の天才ヴァイオリニストが残した名演を聴く

2019年に生誕100年没後70年を迎える、フランスのヴァイオリニスト ジネット・ヌヴー。20代前半を第2次世界大戦のなかで過ごしたうえに、30歳という若さで亡くなったため、残された録音は多くありませんが、ファンの間では今でも語り継がれる名演の数々を残しています。

ヌヴ―のヴァイオリンの音色を強く愛する増田良介さんが、苦難の時代を力強く駆け抜け、飛行機事故で散った生涯を、その音楽とともに紹介してくれました。

ナビゲーター
増田良介
ナビゲーター
増田良介 音楽評論家

ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...

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燃えるようなラヴェルの《ツィガーヌ》で、高貴な悲しみに満ちたショーソンの《詩曲》で、そしてすさまじい気迫に満ちたブラームスのコンチェルトで人々を魅了した天才ヴァイオリニストがいた。ジネット・ヌヴーだ。

彼女は、20世紀前半のヨーロッパ、アメリカを飛び回り、各地で絶賛を浴びたが、飛行機事故のため、30歳の若さで世を去った。2019年はヌヴーの生誕100年、そして没後70年にあたる。

今、彼女の短くも濃密な生涯を、あらためて振り返り、そして彼女の残したわずかな、しかし今も輝きを失わない録音を聴き直してみよう。

ジネット・ヌヴー(1919-1949)
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天才少女現る――世界に衝撃を与えたヴァイオリニストの誕生

ジネット・ヌヴーは、1919年8月11日、第一次世界大戦の傷がまだ癒えないパリに、5人兄弟の末っ子として生まれた。ヴァイオリンを習いはじめたのは5歳のときだったが、その才能は最初からずば抜けていたようで、はやくも7歳でブルッフの協奏曲を弾いてデビューしている。

彼女の名を世界に知らしめたのは、1835年にワルシャワで行なわれたヴィエニャフスキ国際コンクールだった。各国から有望な若き名手たちがおおぜい参加したこのコンクールで、15歳のヌヴーは、2位のダヴィード・オイストラフに大差をつけて優勝したのだ。

当時、既にソ連で有望な若手ヴァイオリニストとして活躍していたオイストラフは大いに悔しがったが、家族への手紙で「ヌヴーが恐ろしく才能があることは認めざるを得ません。1位は決して不当ではありません」と書いている。

 

写真右: ロシア帝国時代のオデッサ(現ウクライナ)出身の世界的ヴァイオリニスト、ダヴィード・オイストラフ。左は20世紀前半を代表する指揮者フランツ・コンヴィチュニー(ONTOMOにも登場した演出家ペーター・コンヴィチュニーの父)。

©Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183)

苦難の戦争時代、終戦、初めての協奏曲録音

コンクールのあと、ヌヴーには世界中から演奏依頼が殺到する。ドイツやソ連に演奏旅行を行ない、その高貴で情熱的な演奏は各地で大反響を巻き起こした。しかし、やがて戦争が始まり、フランスはナチス・ドイツ軍に占領される。ドイツからは、ベルリンからシュトゥットガルトに至る大規模なコンサートツアーの依頼があった。しかし、莫大な出演料を提示されたにもかかわらず、ヌヴーはきっぱり断った。

戦時中は、自由に外国に行けないということもあり、演奏家としての活動は限られたものとなった。しかし、ヌヴーはこの時間を、自らの音楽を掘り下げることに使った。1942年に公式なデュオ・パートナーとなった兄のジャンとは、アンサンブルでの演奏を重ねることで絆を深めた。フランシス・プーランクがヌヴーの勧めによって書いたヴァイオリン・ソナタが、ヌヴーのヴァイオリン、作曲者のピアノで初演されたのも戦時中のことだった。

リサイタルでもよく演奏していた十八番、ラヴェル作曲の『ツィガーヌ―演奏会用狂詩曲』兄ジャン・ヌヴ―(ピアノ)との録音。

連合軍がノルマンディーに上陸し、反撃を開始すると、ヌヴーもまた活動を再開する。ベルギーが解放されればベルギーへ、スイス国境からドイツ軍が去ればスイスへ赴き、演奏を行なった。ロンドンでは、泊まっていたホテルの近くにV2ロケットが着弾したこともあったという。

そして戦争が終わると、彼女は再び世界に活動範囲を広げ、録音も本格的に開始する。彼女にとって最初の協奏曲録音は、シベリウスのヴァイオリン協奏曲だった。スケジュールがたった1日しかなかったためにセッションは長時間に及び、ヌヴーはあごや首から出血したというが、その演奏はすばらしく、当時はまだあまり知られていなかったこの曲の地位向上に大きく貢献した。

ジャン・シベリウス: ヴァイオリン協奏曲 ニ短調

世界的成功と内省的な性格

その後もヌヴーは各地でセンセーショナルな成功を収める。ウィーンで彼女とベートーヴェンの協奏曲を演奏したカラヤンは、すぐにロンドンに電話をして、この曲を彼女と録音できるよう頼み(これは実現しなかった)、米国で共演したオーマンディは、「現代のもっとも偉大なヴァイオリニストのひとり」とたたえた。クーセヴィツキーは「これほどの演奏は今後聴けないだろう」とオーケストラを起立させた。

上: ユージン・オーマンディ(1899-1985)ハンガリー出身のユダヤ系アメリカ人指揮者。自身も名ヴァイオリニストとして録音も残している。
右:セルゲイ・クーセヴィツキー(1874-1951)アメリカで活躍したユダヤ系ロシア人指揮者。

ヌヴーは、バーやカフェに行ったり、無駄なおしゃべりをしたりすることは好きではなかった。たまの休みにも、数時間の練習のあとは、母親や犬と過ごし、読書をするのが常だった。とはいえ人間嫌いというわけではなく、無邪気で率直で、その場を明るくする性格でもあった。彼女と会った人は、誰もが彼女のことを親しい友人のように感じたという。

ヌヴーは、考える人でもあった。彼女のノートには、次のような言葉が残っている。

使命ゆえの孤独なくして偉大なことは達成されない。そして、真の偉大さとは、おそらく輝ける孤独だ

ときおり、人は死を恐れるゆえに臆病になる。だが死とは、その人生や、内に持つ理想次第では、受け入れるに足る価値のある崇高なものだ

エルネスト・ショーソン: ヴァイオリンと管弦楽のための《詩曲》

悲劇の最期――飛行機事故で散った若き天才

1948年、彼女はノートにこう記した。

私は自分の中で新たな進化が起こっていることを感じる。それが私を、芸術において、さらなる高みへと引き上げてくれますように

彼女の芸術は、新たなステージへと進もうとしていたのかもしれない。だが、残された時間はわずかだった。

1949年10月27日21時、ヌヴーは3度目のアメリカ・ツアーのため、兄のジャンとともに、パリのオルリー空港から旅客機に搭乗した。乗員11名、乗客37名、計48名を乗せたロッキード・コンステレーション機は、しかし、補給のために立ち寄る予定だったポルトガル領アゾレス諸島、バラ山に衝突し、墜落、炎上する。生存者はいなかった。世界中の人々が、彼女の早すぎる死に衝撃を受け、悲しんだ。

事故機と同型のロッキード L-749A コンステレーション。
このパリ発ニューヨーク行きの便にはヌヴ-兄弟のほかに、元世界ミドル級チャンピオンのマルセル・セルダンが、恋人のシャンソン歌手エディット・ピアフに会うため搭乗していた。

死の1カ月前、1949年9月25日のヌヴ―最後の録音。ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調

彼女の死から70年。多くのすばらしいヴァイオリニストがわれわれを楽しませ、感動させてくれた。だがヌヴーは孤高の存在だ。

ヌヴーの録音を聴くと、彼女のような、気品と情熱とをあわせ持つ真摯な音楽は、ほかの誰にも作ることができないという思いを新たにする。録音は古いが、すぐにそんなことは気にならなくなる。初めての方も、ぜひ聴いてみてほしい。

ヌヴーが得意とし、その短い生涯に4度の録音を残したヨハネス・ブラームス: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調

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増田良介
ナビゲーター
増田良介 音楽評論家

ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...

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