ヴィヴァルディとカール6世~“地味な皇帝”が見せた音楽愛と審美眼
近世ハプスブルク君主国史が専門の歴史学者・岩﨑周一さんが、ハプスブルク帝国の音楽世界にナビゲート!
第7回は、カール6世とヴィヴァルディの接点に着目します。ハプスブルクの歴代皇帝の中ではあまり目立つ存在ではないものの、音楽家との交流では的確な指摘やバックアップによって重要な役割を果たしています。
1974年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程総合社会科学研究専攻修了。博士(社会学)。現在、京都産業大学外国語学部教授。専門は近世ハプスブルク君主...
穏やかな統治という偉業
カール6世は、ハプスブルクの歴代皇帝の中でも、とくに知名度の低い存在だろう。1682年に皇帝レーオポルト1世の5男として生まれたが、4人の兄に先立たれた結果、帝位とハプスブルク君主国の当主の座を継ぐことになった。彼自身も男子には恵まれず、領土の不分割と男系断絶時の女子継承を定めた「国事詔書」を制定していなければ—これによって即位した(できた)のが、彼の長女だったマリア・テレジアである—、ハプスブルク君主国は彼の死をもって消滅したかもしれない。
カールの統治は穏やかだった。それまで30年も戦時状態にあったハプスブルク君主国は、ここでようやく一息つくことができた。とくに1718年からは15年にわたり、近世ヨーロッパにおいては稀有といえる平時を迎えた。見過ごされがちだが、これは偉業である。この時代に全盛期を迎えたオーストリア・バロックの精華は、ウィーンのカール教会、オーストリア国立図書館内のプルンクザール、そして下オーストリア州のメルク修道院などに見てとることができる。
カールは学芸に広く通じ、とくに音楽を好んだ。ヴァイオリンが得意で作曲も手掛け(ただし作品は現存していない)、オペラの伴奏と指揮をこなしてみせたこともある。宮廷礼拝堂楽団の楽員数は、その治世の間に79名から134名へ増加した。第4回で触れたマリア・テレジアの音楽的資質は、こうした環境の下で磨かれたのだった。
鬱気味のカール6世が音楽家との交流で見せた意外な一面
ただ、カールは怠惰ではなかったが、熱意が持続せず、優柔不断なところがあった。鬱病の気もあり、近年解読が進んでいる日記からは、気分や感情の制御に苦労していた様子が窺える。無口で近寄り難く、心中をあまり明かさなかったため、周囲はその意を察することに苦労した。
しかし音楽家と交流する時には、普段とは異なる姿を見せたらしい。たとえば著名なカストラート歌手のファリネッリ(本名カルロ・ブロスキ)—映画『カストラート』の主人公といえば思い出される人も多いだろう—は、カールに直々に穏やかに親しみを込めてこう忠告されたことが何よりもためになったと晩年に語り、没後30年以上が経っていた故人に深謝した。
「君の歌は他の歌手のように心を動かすことも安らかにすることもない。すべてが神わざすぎるのだよ」「あの超絶的な音の跳躍、いつ果てるとも知れない旋律とパッセージは人を驚かすだけだ。しかし今や君は人を楽しませるときなのだ。君は自然が与えてくれた天賦の才を浪費しすぎている。もし人の心に届きたいと思うのなら、君はもっと素朴さと簡潔さを大切にすべきだよ」。
このときからファリネッリは歌い方を一変させ、悲愴なものと活気に満ちたもの、単純素朴なものと崇高なものとを一つに結びつけることを心掛けるようになったという。
チェチーリア・バルトリ『神へのささげもの~カストラートのためのアリア集』
レオナルド・ヴィンチ:《ファルナーチェ》(アントニオ・マリーア・ルッキーニ)から 「誰が支配神なるジョーヴェを恐れていただろう」
ヴィヴァルディとハプスブルクの接点
また、カール6世とハプスブルク君主国は、アントニオ・ヴィヴァルディの後半生に大きな影響を及ぼした。1678年に生まれたヴィヴァルディは、在俗司祭として、故郷ヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院でヴァイオリンを中心とした教育や作曲に励んでいた。しかし1713年頃からオペラを積極的に手がけ、活動の幅を汎欧的に広げるようになる(「私の手紙はヨーロッパ中を駆け巡っています」)。そして彼は、イタリアに勢力を拡大していたハプスブルク君主国に近づいていった。
たとえば、ヴィヴァルディの作品の中では《四季》に次いで親しまれているであろう《グローリア》(RV589)は、ヴェネツィアを含むハプスブルク連合軍が1716年にオスマン軍に大勝したことを祝して作曲されたと考えられている。また彼は、1717年の後半から1720年までの間、ハプスブルク領となったマントヴァで宮廷楽長を務めた。そして1721年には、ハプスブルク家の皇女誕生を祝し、ミラノでヴィヴァルディのオペラ《シルヴィア》が上演された。
ヴィヴァルディ:《グローリア》
(1723~1724年、ティッセン=ボルネミッサ美術館蔵)
さらにヴィヴァルディは、ハプスブルク傘下の中欧の貴族とも親しくなっていった。とくに懇意になったのは、ボヘミアの貴族ヴァーツラフ・モルツィン伯である。あの《四季》を含む曲集『和声と創意の試み』(作品8)は、この伯爵に献呈されている。
ヴィヴァルディ:《四季》
2週間で2年分語り合ったカール6世とヴィヴァルディ
そして1727年、ヴィヴァルディはカール6世に12曲からなる協奏曲集(作品9)を献呈した。そして翌年、2人はトリエステで出会った。この模様を知人はこう伝えている。「彼[カール]はヴィヴァルディと音楽について語り合い、長い時間を過ごした。彼はこの2週間にわたる語らいで、大臣たちと2年間に話すより多く話したということだ」「皇帝はヴィヴァルディに大金と金メダルのついた鎖を与えた」。ヴィヴァルディはこの後数年間、ウィーンやプラハなどに出向いて活動した。
ヴィヴァルディ:協奏曲集作品9『ラ・チェトラ』
しかし、1733年以降に相次いだ戦乱により、カールの晩年には大きな陰りが生じた。そして1740年10月20日、突然の体調不良から回復することなく、55歳で世を去ってしまう。このことは結果として、ヴィヴァルディの人生に文字通り致命的な影響を与えた。
彼はこの年の夏、オペラの上演のためにウィーンを訪れていた。しかし、カールの喪に服すため劇場が1年も閉鎖されたことで、収入源を失ってしまう。オーストリア継承戦争の勃発も、状況を悪化させたことだろう。苦境の中でヴィヴァルディはやがて体調を崩し、1741年7月28日に没したのだった。
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