本当は片手では持ち上げられなそうなスザンナのコイン~《フィガロの結婚》
オペラには、当時は身近に感じることができただろうけど、現代の感覚とはずれていたりピンとこなかったりする表現がある……そんなオペラに潜んだ「リアリティ」を、数多くのオペラ製作に携わる指揮者の根本卓也さんが掘り下げます。第1回はモーツァルト《フィガロの結婚》に出てくるお金に注目!
東京藝術大学大学院修士課程(指揮専攻)修了。在学中に故・若杉弘氏に、英・独・仏・伊・羅・露・チェコ語に至るまで、あらゆる舞台作品を原語で解する類稀な才能を見出されキャ...
スザンナが差し出す金貨は実は米袋より重い……!?
伯爵様、お待ちになって。ここに金貨1,000枚、ご用意してございます……
《フィガロの結婚》第3幕、マルチェリーナとバルトロがフィガロの両親だとわかり、結婚の契約が無効になったのをまだ知らないスザンナが、これでフィアンセを自由の身にできると、ドヤ顔で金貨の入った袋を差し出すという場面。
オペラの仕事を始めて20年余、さまざまな演出を見てきましたが、大抵の場合、彼女が持っているのは片手で軽々と持てるサイズの革袋か何かで、私も特段それに違和感を覚えたことはありませんでした。
しかし今年の春に、《ラ・ボエーム》1幕でショナールが投げる「銀貨」について調べた際、他のオペラに出てくる「お金」はどうなってるのか? という興味が湧いてきたのでした(詳しくはブログに記載)。
さて、こちらの演出をご覧ください。ボローニャ歌劇場で、映画監督のマリオ・マルトーネ(舞台に水をいっぱいに張った新国立劇場《オテロ》も彼です)が手掛けた舞台ですが、スザンナは随分と大きなボストンバッグを持ってきますね。
彼女の言う「金貨1,000枚」ですが、原語では“mille doppie”と歌われています。mille=1,000なので、doppieが金貨なのですが、これは戯曲の舞台である18世紀スペインに実在した貨幣です(詳しくはこちら)。
18世紀後半のスペインでは、大雑把には以下のような通貨体系が取られていました。
1escudo(エスクード:金貨)=16reales(レアル:銀貨)
エスクードはイタリア語だとeが取れてscudoとなりますが、これは「盾」の意味で、大抵の場合王家の紋章をあしらった盾と、その時々の王/女王の肖像が表裏で刻印されています。そしてこのエスクード金貨には1/2, 1, 2, 4, 8と5種類の大きさのものがあったのですが、その内2エスクードのものがドブロンdoblónと呼ばれていました。英語ではdoubloon、「倍」を意味するdoubleと語幹が一緒ですね。これがスザンナの歌っているdoppieという金貨です。
この金貨、約90%の純金を含む6.7gのコインです。1,000枚となると、6.7kg!! お米の袋より重いじゃありませんか。マルトーネはきっと、そのあたりをきちんと調べたうえで演出していますね。
フィガロはいったいいくら借りたのか
さて、フィガロが自分の結婚までカタにして借りたこのお金、今ならいくらくらいになるのでしょうか。昔の通貨価値を考える際に難しいのは、何を物差しにして比較するかによって、大きく値が変わってきてしまうこと。
例えば前述のショナールの銀貨の際に参照した論文(詳しくはこちら)では、1840年当時の食料品や雑貨の価格をベースに考察しているのですが、現代よりも明らかに安くなるもの(赤ワイン:ボトル75~150円前後)と高くなるもの(バター:100gあたり200~400円前後)が混在しているので、一概にこう、と言い切れなくなってしまいます。
不正確なのをあえて承知で、例えば現在の金1gの価格ベースで考えてみると、原稿執筆時点(2023年5月13日)で9,600円前後のため、6.7kgx0.9=6.03kgということは……約5,790万円!!
金の価値を今の数分の一で考えたとしても、一介の使用人の身からしたら、尋常な手段で返せる額を超えてますね。なんでも屋のフィガロのことですから、事業で大失敗でもして、今だったら自己破産レベルの借金を背負ってしまったのでしょうか。そこを口八丁手八丁でマルチェリーナに泣きついて肩代わりしてもらったとしたら、そりゃ「結婚するか、払うか」って判決にもなりますわな。先に知ってたら、スザンナも絶対婚約しなかったと思う。
というわけで、この連載ではオペラの中で何気なくスルーしてしまう「リアリティ」について、マニアックに掘り下げてみると面白いことが色々あるよ、というのをご紹介していこうと思っております。お楽しみに!
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